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物語 オーストラリアの歴史 新版

2026年02月18日(水)


 イギリス植民地から多民族国家への200年
著者 竹田いさみ・永野隆行
2023年2月25日 発行
中公新書
1000円
 日本とオーストラリアとの関係を歴史順に解説しているところが素晴らしい。特に、日英同盟の第1次から3次への論理的な変遷とその考察が鋭い。イギリスの巧みさ、駆け引きを学ぶ。それを見習うオーストラリアが独自の道を切り開く。論理ですべてを貫く欧米と、論理的に正しいことと善悪は別次元であると教える日本との違いを感じる。
 オーストラリア人の考え方や価値観と、イギリスがオーストラリアを発見した18世紀後半から現代までの山あり谷ありが面白い。オーストラリアが植民地から自立へ、そして労働党と自由党の時代とともに交互に変わる生き抜く姿、イギリス追従から安全保障をアメリカに委ねる決断など。
 2026年2月13日、ドイツのフリードリヒ・メルツ首相はミュンヘン安全保障会議で、ルールに基づく世界秩序は「もはや存在しない」と警告した。また、2026年1月20日、カナダのマーク・カーニー首相がスイスで開催中の世界経済フォーラム(ダボス会議)で、カナダや日本、オーストラリアといった「ミドルパワー(中堅国家)」が強固に連携することで、崩れゆく旧秩序の先に、新たな国際秩序を主体的に築き得るという力強い提言した。ミドルパワーの発想は、オーストラリアが大国政治への夢を挫折した反省から1970年代に紡ぎ出された国家構想である。原点は労働党のウィットラム首相、具体的な構想と肉付けは自由党のフレーザー首相。
 参考に
 カナダのカーニー首相 「以前の国際秩序は戻らない」 中堅国の結束呼びかけ
 (米外交・安全保障専門誌「ディプロマット」2026年1月21日)
news.yahoo.co.jp/expert/articles/20552c2d488ff539f767de2b0565099dfbb0b28b
 ルールに基づく秩序は「もはや存在しない」 独首相
 (BBC2026年2月14日)
www.bbc.com/japanese/articles/cm21e438gzxo
 藤原 正彦著「国家の品格」
kojima-dental-office.net/blog/20090306-1364#more-1364
 1931年にオーストリアの数学者クルト・ゲーテルが「不完全性定理(正しいか正しくないかを論理的に判定できない命題が存在する)」というものを数学的にも証明した。つまり、重要なことの多くが、論理では説明できない。ところが、欧米の理想では、論理ですべてを貫く。「公平に戦った結果、勝者が全部取って構わない」という論理。日本では、「強い者が弱い者をやっつけることは卑怯である」、論理的に正しいことと善悪は別次元であると教える。そこに我が国民の高い道徳の源泉があり、日本の国柄でもある。
A.日本とオーストラリア
 a.真珠貝採取と日本人労働者
 明治時代の日本政府は、表向きに国策として労働輸出はなかった。官約移民としてのハワイを除き、多数の日本人を契約労働者や移民として、政府主導で海外に送り出したことはない。しかし外貨獲得の目的で、民間主導による労働輸出を実質的に奨励していた。労働輸出を非公式に推進し、日本人労働者を保護する目的があったからこそ、日本政府が1896年に、オーストラリア北部の遠隔の地方都市クイーンズランドのタウンズビルにわざわざ領事館を開設した。
 オーストラリア人潜水夫による真珠貝採取は成功せず、日本からの契約労働者に対する需要が常に存在した。限定された地域で就労し、さらに永住化という問題も抱えていなかったから、日本人の契約労働者は、大きな摩擦を起こすことはなかった。
 しかし、日本が日露戦争(1904~05年)に勝利を収め軍事大国として認知されたことで、労働者としての優秀性に対する社会的脅威と、大国化した日本への軍事的脅威が重なり、日本人はオーストラリア人に危機感を与える。
 b.日英同盟と日露戦争
 1.日英同盟の秘密交渉
 イギリスからみれば小国に過ぎない日本が、大国ロシアに挑むことを政治的、軍事的、経済的、そして精神的に支援したのが、日英同盟。
 イギリス外交の恐ろしさは、自らは一滴の血も流さないで、ロシアに勝利する方策を考えたことであり、その手段が日英同盟であった。イギリスは巨額の戦費ローンと軍事情報を日本に流す、さらに親日の国際世論を形成することで、ロシアとの戦いに勝利するシナリオを描いた。
 イギリスにとって頭痛の種は、日英同盟の秘密交渉を行っている最中に、オーストラリアの連邦議会で、白豪政策の法制化、日本人を含む有色人種の入国を原則禁止するという矛盾が露呈し、英帝国の統一外交というルールが対日関係で崩壊することであった。
 2.第1次日英同盟の締結
 1902年1月30日、ロンドンで日英同盟は締結した。英帝国の敵ロシアと対決する妙案が、日本との軍事同盟であり、オーストラリアは無条件に日英同盟へ支持を与えた。 第1次は、イギリスとオーストラリアの利益が見事に一致したが、常に両者の利益が一致したわけではない。日露戦争中の1905年に第2次が、そして日米危機が発生した1911年に第3次が調印された。国際情勢の変化に伴って日英同盟の目的と機能を刻々と変質させ、およそ20年間保ち続けたというよりは、むしろ3つの異なった軍事同盟を調印したと理解した方がよい。
 ①3つの視点  安全保障、貿易、白豪政策
 オーストラリアの首相は、日英同盟の意義を3つの視点から明快に述べている。
 第一に、日英同盟は世界の軍事バランスから見てイギリスと英帝国に利益をもたらす。南下するロシアの脅威を食い止める抑止機能を持つ点で、「オーストラリア連邦にとって極めて有益である」と、全面賛成論を展開した。
 第2に、オーストラリアが東アジア貿易を促進する上で、日英同盟は有利に作用するとの判断を示している。新しい貿易市場として日本と中国の将来性を期待しており、神戸に通商代表部を設置する。
 第3に、白豪政策の堅持を再確認している。日本を同盟国として受け入れるが、移民や外国人労働者として日本人を受け入れないという、虫のいい国益論が支配した。
 ②親日論の台頭  日露戦争の勃発
 日露戦争は1904年2月8日に発生し、1905年5月の日本海戦でロシアのバルチック艦隊が壊滅的被害を受け、9月5日にアメリカのポーツマスで講和条約が調印されて幕を閉じた。
 オーストラリアは、戦略論と反ロシア感情から日本に熱いエールを送った。オーストラリアの世論が対日支持一色になっていたことは、日本警戒論を終始展開してきた大衆紙「プレティン」でさえ認めていた。日本が母国イギリスと軍事同盟を結び、共通の敵ロシアに戦いを挑んでいる点を高く評価した。
 ③日本人への特別扱い パスポート協定
 1890年代の経済不況時に最大の輸出品目は羊毛だったが、海外市場での需要が低下し、供給が需要を大幅に上回って価格も暴落した。このとき、暗い闇夜に彗星の如く登場したのが近代化路線をばく進する日本だった。
 対日パスポート協定の交渉は、感情的な親日論ではなく、現実的な貿易論であった。オーストラリアは、貿易に限定した通商協定の締結に関心を有していたが、人的往来の自由も規定した通商航海条約への調印には終始反対の立場を貫いた。最大の理由は、白豪政策の維持にある。通商航海条約は、居住営業も認め、日本人が自由に訪豪する危険性があった。
 日露戦争中の1904年に日豪パスポート協定が締結された。日本政府発行のパスポートを保持する日本人は、商業・教育・観光の目的と滞在期間を明記してあれば、入国に際して語学の書き取りテストを免除されるという内容。
 連邦国家となったオーストラリアが、初めて経験した外交交渉。パスポート協定はオーストラリアの対外関係で2つの意義を持つ。
 第一は、直接交渉による協定等の締結を許されていない英帝国の外交慣例を破って、シドニー駐在の日本総領事と直接交渉したこと。
 第2点として、立場の異なる3つの政党が対日貿易の促進で足並みを揃え、超党派で取り組んだこと。1904年に政権交代が2度あり、1年間に保護主義派、労働党、自由貿易派の3人の首相がパスポート協定の交渉に関わった。
 ④日露戦争用に軍馬を輸出
 オーストラリアの対日貿易は、日清戦争、日露戦争の時期に、日本からの特需で大幅な伸びを記録している。とりわけ日本陸軍が、冬季用に羊毛のコートを大量に発注し、原料の良質な羊毛を買い付けた。また日露戦争が始まった1904年には、陸軍が9957頭の軍馬をオーストラリアから輸入した。
 日本に陸揚げされた軍馬は、戦争が予想より早く終結したことで戦闘に使われることはなかった。半数以上が繁殖用として全国の種馬牧場に提供され、日本における馬生産に大きな足跡を残す。逆にオーストラリアは馬の絶対量が不足し、大きな社会問題を引き起こすまでになった。
 3.第2次日英同盟
 第1次日英同盟は、オーストラリアとイギリス、そして日本の戦略的利益が見事に一致していたが、第2次は三者の利益に不一致が生じ始めていた。
 イギリスから見れば、日露戦争は日英のパートナーシップで勝ち取った戦争であった。その上で第2次は、①適応範囲をインドに拡大、②日本の韓国保護国化を承認、③防衛同盟から攻守同盟への質的強化、④有効期限を5年から10年に延長と、軍事同盟としての性格を一層明瞭にさせた。
 オーストラリアにとって、日露戦争後にイギリス極東艦隊の主力艦がヨーロッパ海域へ移動ことにより親日論は対日脅威論へと転化していった。
 ①北京特派員ジョージ・モリソンとオーストラリアの対日観
 当時のオーストラリアは、日本の動向を的確に把握するため、独自ルートで日本・東アジア情報の開拓が必要であると判断。神戸に通商代表部を開設し、英国紙「タイムズ」に掲載されたオーストラリア人の北京特派員ジョージ・モリソンによる記事と日本を訪問した土産話で情報ギャップを埋める作業を行っていた。モリソンの日本や東アジアに関する情報は、オーストラリアの対日観形成に大きな役割を果たしていた。
 モリソンの対日観が、親日論から日本警戒感へ、そして日本脅威論へと大きく修正されていった軌跡は、ほぼそのままオーストラリアの対日観にも反映された。
 イギリスは対ドイツ戦を想定して第2次日英同盟を最優先させる方針に変わりなく、モリソンが振りかざす日本警戒論は、イギリスの国益にとって障害となりつつあった。オーストラリアとイギリスの国益観に乖離現象が生まれたのは、モリソンの存在があった。
 ②日本警戒論の始動 日本脅威論と自主防衛
 共通の敵ロシアと戦争状態にあるという視点で巻き起こされた親日論ではあるが、「オーストラリアと英帝国が、白豪政策で締め出されている日本人に安全保障を委ねている矛盾」をいかに解決するかが、連邦政府に突きつけられた政策課題であった。
 オーストラリアはイギリスに追従し、国家意志は存在しないとの英帝国神話は、イギリス海軍政策の転換を契機に崩壊していく。
 政治に影響力を持つ「エイジ」は、イギリスが日本海軍に依存する傾向が加速され、英帝国の安全保障そのものが、日本海軍の手に委ねられる可能性と危険性を指摘し、「アジアの平和は長期にわたり維持される」が、オーストラリアの安全保障環境は脆弱性が増す。解決策として、イギリス海軍がシンガポール基地を整備すると共に、英帝国の海上防衛において、「オーストラリア連邦が独自の役割を演じるべき」と論じた。
 ③イギリス極東艦隊が消えた
 オーストラリアの対日脅威論は、イギリス極東艦隊の主力艦が1905年に消え、さらに日米関係が移民問題を巡って緊張状態に陥ったことで、一気に噴出する。
 イギリスとフランスは、ドイツの野心的な進出に警戒感を共有するようになり、1904年にドイツに対抗して英仏協商を結ぶ。1907年には、敗者ロシアを誘って英露協商を成立させた。フランスとロシアを抱き込んで三国協商を結成し、対ドイツ包囲網の形成に漕ぎ着けた。
 日露戦争でロシアが敗北し、ロシアがイギリスの仮想敵国から消えた直後、ドイツがその座を占めることになった。イギリス海軍は、北海を中心としたヨーロッパ海域でドイツ海軍に対抗するため、極東海域に配備していたすべての戦艦を北海に移動させる決断を行った。
 第2次日英同盟が発効した1905年に、イギリス政府は極東における英帝国の防衛を日本軍に託すことを決め、アジアと太平洋地域で日本の覇権が確立された。加えて、日米関係は移民問題で急速に悪化し、日米開戦への危機的な状況を迎えていた。
 オーストラリアでは、国内の新聞や雑誌の安全保障問題に関する論調は、4つにまとめることができる。
 ・日英同盟が失効すれば、日本はドイツなどと新たな軍事同盟を結ぶ可能性があり、日独同盟はオーストラリアにとって最悪のシナリオとなる。
 ・仮に日米開戦となれば、イギリスは日英同盟によって日本を支援する義務があり、自動的にオーストラリアも対米戦の状況に置かれる。
 ・日本の軍事力が強化されており、白豪政策破棄への外交圧力が増す危険性がある。
 ・極東地域ではイギリス海軍の主力艦が不在で、オーストラリアの安全保障は危機的状況にあり、自主防衛を真剣に考えねばならない。
 ④アメリカ大西洋艦隊の世界周航
 日米関係が危機的状況を迎えていた1907年、アメリカのローズヴェルト大統領は、大西洋艦隊の世界周航を発表した。その背景には、日本への軍事的デモンストレーションを展開するという政治的意図が明らかに存在した。
 1908年8月、アメリカ大西洋艦隊の戦艦16隻がオーストラリアを訪問した。オーストラリアに寄港する予定に入っていなかったが、イギリス政府の強い反対を押し切って、オーストラリアディーキン首相がローズヴェルト大統領に「オーストラリアを助けて欲しい」と直接要請したことで実現した。米豪の白人連合が太平洋に平和をもたらすとの祈念が込められていた。イギリス極東艦隊の主力艦が不在のなか、オーストラリアの安全保障をアメリカ艦隊に託したい思いがオーストラリア人に共有されていた。
 イギリス政府にとって、英帝国外交の一体性を浸食する不愉快な出来事であった。
 ⑤独自海軍の創設
 日露戦争後に黄色人種の日本がアジア地域で覇権を確立し、オーストラリア人は言葉では表現しきれない恐怖感を、第2次世界大戦が終了するまで持ち続ける。
 ドイツの対外拡張政策が英帝国への挑戦として認識された時期に、こうした不安を払拭するためにの手段が、独自海軍の構想であった。
 オーストラリアは1911年、連邦国家として初めて巡洋戦艦「オーストラリア」を建造した。イギリス海軍政策に対する小さな抵抗であった。
 イギリス政府は、1909年にオーストラリアの独自海軍構想を渋々ながら認め、自治領の反発を緩和する道を選んだ。自治領の離反を食い止めることが、英帝国の一体性を保持する最善の方策であると考えた。
3.第3次日英同盟を歓迎
 1911年7月13日に改定・更新された第3次日英同盟を、対日脅威論と日米危機に動揺していたオーストラリアは安堵感に包まれながら歓迎した。
 オーストラリアが戦略的に支持した理由は3点
 ・英米戦争を回避するための条項(総括的仲裁裁判条約)が新たに挿入された
 イギリスがアメリカと総括的仲裁裁判条約を結んでいる場合、仮に日米戦争が発生しても、イギリスは日本を軍事的に支援して、アメリカと交戦する義務を負わないことになった。第2次日英同盟は、攻守同盟としての機能を持っており、日米開戦が英米開戦をもたらす可能性を内包していたため、オーストラリアは英帝国の一員として対米戦を覚悟しなければならない最悪のシナリオに脅えていた。
 ・日本がオーストラリアの敵国になる可能性が少なくとも10年消えた
 日本の軍事的行動を抑止する機能を持ち、10年間の猶予期間と捉え、将来の対日戦を想定して国防体制と英帝国防衛をすべきと政治家や国防関係者は考えていた。
 ・日独同盟の危険性が遠のいた
c.第1次世界大戦  参戦とその配当
 日露戦争後のオーストラリアにとって、仮想敵国はドイツと日本である。
 1.参戦の国益
 第1次世界大戦は、英帝国とドイツとの戦争であり、オーストラリアから見れば、ドイツ勢力を南太平洋から駆逐することが最優先の課題であった。対日政策は、オーストラリアの国益がイギリスと一致しないことを痛感したが、対ドイツ参戦は両者の利益が一致した対外政策であり、オーストラリアは超党派で参戦を支持した。
 ドイツは、ニューギニア島の北東部や赤道を挟む南洋諸島を次々と領有化していき、イギリスやオーストラリアを脅かす存在となっていた。もし対ドイツ戦でイギリスが敗北するようなことがあれば、オーストラリアは経済的な繁栄を維持できなくなる。
 オーストラリアは海軍を派遣してドイツ領ニューギニア島や南洋諸島を占領、さらに義勇兵30万人以上を中東・ヨーロッパ戦線へ投入する。
 4年間の戦争を通じて、戦死者5万8000人、負傷者15万6000人、除隊後の入院生活者2000人など、予想を上回る損失を記録した。
 2.オーストラリア帝国軍
 国防法の規定により、オーストラリア域外への派兵が禁止されていたため、海外での紛争に参加する兵士は義勇兵に限定されていた。
 参加したオーストラリア兵(すべて義勇兵)は、ニュージーランドとの合同軍を編成していたため、一般には「アイザック」と呼ばれていた。しかし、オーストラリア軍を単独で示す名称として「オーストラリア帝国軍」が採用されたことは特筆されて良い。国王陛下の軍隊という意味であり、オーストラリア兵の存在感を積極的に示した言葉。
 カナダとニュージーランドは、「遠征軍」という名称を海外展開部隊に採用していた。
 3.徴兵制
 第1次世界大戦に海外に多数の兵士を送り続けるため、ヒューズ首相は徴兵制の導入を図ったが、国民投票に僅差で敗れ、断念せざるを得なかった。
 反対派は労働党の平党員、労働組合、カトリック系教会などが主力。カトリック勢力、とりわけ大司教ダニエル・マニックスの存在が大きかった。アイルランド出身のマニックスは、イギリスによる容赦のないアイルランド弾圧に反感を持ち、イギリスの戦争遂行に非協力的な姿勢を貫き、徴兵制にも反対した。
 海外派兵を伴う徴兵制が導入されたのは第2次世界大戦中であり、日本軍によるダーウィン爆撃やシドニー湾攻撃で、オーストラリアが戦場となるまで待たなければならない。
 4.参戦で得たもの
 第1次世界大戦で勝利した連合国は、ドイツに多額の賠償金を課すと共に、海外の旧ドイツ領を獲得し、敗戦国ドイツは心身共に衰弱していった。苛酷すぎる賠償が、ドイツにナチズムを台頭させ、第2次世界大戦を発生させた。
 敗戦国はドイツ、オーストリア、ブルガリア、ハンガリー、トルコ。
 多数の犠牲を払ったオーストラリアは、パリ講和会議とベルサイユ条約を通じて、旧ドイツ領南洋諸島の獲得、国際連盟規約への調印、白豪政策の堅持、そしてイギリスに対する発言権の強化の4点を獲得した。
 ①旧ドイツ領の獲得
 旧ドイツ領の南洋諸島のうち、オーストラリアが赤道以南を、日本が赤道以北を獲得することで決着が付いた。最大の収穫は、オーストラリア北部から見れば最も近い敵国の植民地、独領ニューギニアの獲得。
 ②国際連盟規約に署名
 多国間の国際条約に署名行為を行った初めてのケース。イギリス外交の伝統として、対外交渉と条約締結はイギリス政府が「英帝国」を代表して、一元的に行うことになっていたが、この伝統に大きな修正を加えたのがパリ講和会議であった。
 オーストラリアを筆頭に、英帝国は総力で対ドイツ戦に参加し、オーストラリアは血と汗を流したことで、対英発言権を急速に高めることになる。
 署名といっても、正式参加国として単独に署名したのではなく、イギリス全権団の一員として名を連ねたに過ぎない。
 オーストラリアにとっては発言権と独自性の獲得が最優先であり、イギリスから見れば英帝国をいかに維持するか、もしくは崩壊させないかが課題であった。
 オーストラリア人の自尊心と国家意識は、パリ講和会議への参加と連盟規約への署名で、高まりを見せた。
 ③白豪主義の堅持
 パリ講和会議の場で日本政府は1919年2月、アメリカ代表団から好意的な反応を得たため、国際連盟規約に人種差別撤廃条項を挿入するよう求めたが、オーストラリアが白豪政策の堅持を主張し、激しく抵抗したことで、英米両国がオーストラリア寄りに軌道修正し、日本提案は葬り去られることになる。
 ④対英発言権の強化
 20世紀の英帝国は、戦争のたびに衰弱していった。第1次世界大戦で英帝国は消耗し、第2次世界大戦で崩壊することになる。イギリス単独では戦争ができなくなり、オーストラリア等の自治領の防衛協力が不可欠となった。海軍力を維持するためにも、自治領からの毎年多額の資金援助が必要とされ、オーストラリア等は、対英協力で地位を向上させることになった。
 5.イギリスと自治領の関係
 イギリス政府は自治領の不満吸収にかけては、天才的な能力を発揮する。相手の自尊心をくすぐり、メンツを立てながらも、最終的には己の国益を追求し、実質をとるのがイギリス外交の常套手段である。
 イギリスは言葉の上で自治領を対等に扱い、1911年、植民地会議の名称を帝国会議へと変更した。イギリスは、名を捨てることで実を取ることを優先してきた。自治領の立場から考えれば、地位が向上したことになる。このようにイギリスと自治領の関係は、常に駆け引きのゲームの上に成り立ってきた。
 こうしたイギリスにどこまで付いていけるかという判断を、オーストラリアは常に迫られてきた。戦争のたびに国民意識に目覚め、独自性を高めてきたが、その一方で英帝国の存在無くして国家生存と経済繁栄を維持できないことも、厳しい現実として受け入れていた。オーストラリアはこのジレンマに直面しながら「国益」を追い求めてきた。
 d.最後に残った仮想敵国、日本
 1.対日情報収集
 第1次世界大戦中、日本海軍の巡洋戦艦「伊吹」がヨーロッパ戦線に向かうオーストラリア兵を護衛して、インド洋を航行したことがある。日本と協力した美談として語られるが、その影でオーストラリアは、対日スパイ機関を組織した。
 ①シドニー大学日本研究
  対日情報収集のスタッフを養成する目的で、シドニー大学で日本語教育を行う決定を下している。
 ②東方学講座も開設
 東方学講座の教授に任命されたジェームズ・マードックは、日本語が堪能で、日本史に造詣が深かった。マードックの任命は、1917年に教育省ではなく、安全保障政策の観点から国防省が決断した。
 マードックは、1918年10月から翌年の3月にかけて仮想敵国に関する情報を収集し、分析するために、日本を視察している。軍事的な色彩が目立つのを避けるため、商工会議所を介在させるなどカモフラージュにも工夫を施していた。
 2.イギリスが英帝国保護貿易体制
 1929年に経済恐慌が突如発生し、オーストラリアはイギリスとの経済一体化によって危機を乗り切る道を選択した。
 1932年7月にカナダのオタワで英帝国経済会議を開催し、危機管理策として保護貿易政策を採択した。英帝国の保護貿易体制に組み込まれたオーストラリアは、日本やアメリカの工業製品に対して高い関税を課す一方、イギリス製品に対しては低い輸入関税を設定して優遇することになった。あえて、高い製品をイギリスから買う決定を下した。その見返りとして、経済恐慌によって世界的にだぶつき、価格が大幅に下落している一次産品(食肉、酪農製品、小麦など)をイギリスに対して無制限に輸出できる権利を獲得した。対英依存による一次産品の安定輸出が、最善の策として選択された。
 1936年5月に、この延長線上の貿易大転換政策、繊維製品(主に綿製品とレーヨン)の輸入に関してイギリス製品を優先し、日本製品を購入しないことを突如発表した。日本は、オーストラリアからの羊毛輸入を激減させる報復措置を発動し、両国間の経済紛争へと発展していく。
 オタワ協定が世界貿易全体を縮小させる中で、世界貿易に占めるイギリスの割合は1932年の27.5%から、35年の30.4%と拡大したが、オーストラリアは、長期トレンドで見る限り対英輸出は下降線を示した。イギリスは英帝国保護貿易体制で最も恩恵に浴した。第2次世界大戦後にオーストラリアが、対外貿易戦略を英帝国指向から、アジア太平洋指向へと急速に変化させていった1つの背景がここにある。
 3.対日宥和政策
 ジョン・レーサム外相が1934年に「オーストラリア東方親善使節団」を率いて日本を訪問し、両国間の貿易促進を訴えた。隠れた真の目的は、日本の現状を把握することであった。日本の目が中国大陸に向けられていることを確認、またオーストラリアを脅かすような南進の危険性が低いと判断して、対日宥和政策こそが、日本の脅威を解消する道であると考えるようになる。国際社会は日本を追いつめて孤独感を煽るより、むしろ中国大陸の権益を承認することこそが東アジア情勢を安定に導くとの結論に至る。
 1937年、オーストラリア政府によって、すべての太平洋諸国が領土などの既得権益を相互に承認することを目指す太平洋協定構想がロンドンで開催された英帝国会議で提案されたが、英米両国が対日宥和政策に反対で、日の目を見ることはなかった。
 4.シンガポール陥落とダーウィン爆撃
 オーストラリアが安全保障政策でイギリスと英帝国に決別を告げたのは、1942年2月太平洋戦争下、日本軍がシンガポール英国海軍基地を陥落させ、北部の都市ダーウィンを爆撃した時。2つの事件は、オーストラリアに独立国家としての存在を問いかける3つの意味を持つ。
 ①日本が仮想敵国ではなく、正真正銘の敵国・交戦国となったこと。
 ②イギリスの公約が保護にされ、実質的に英帝国が崩壊したこと。
    英帝国の防衛体制が破綻し、日本軍によりオーストラリアは攻撃を受けた。
 ③安全保障をアメリカに委ねる決断を下したこと。
   1941年12月8日の日本軍による真珠湾攻撃から2週間後、労働党のジョン・カーティン首相は、「オーストラリア兵はアメリカを求める」と、英帝国との決別宣言を行った。イギリスがシンガポール海軍基地を放棄することは、「弁解の余地のない背信行為」であると、イギリスのチャーチル首相に極秘電報を送った。オーストラリアは本土防衛のために、中東・北アフリカ戦線に投入した兵士をイギリスの要請に反して本国に帰還させることを決定した。
 マッカーサー米極東軍司令官が、日本軍の占領したフィリピンから脱出し、オーストラリアに避難したことは、天の恵みであった。アメリカ軍は1941年12月からオーストラリアに駐留し、42年2月からマッカーサー司令官の指揮下に置かれ、オーストラリア軍はアメリカ軍との一体作戦を経験するようになった。
 カーティン政権は、第2次世界大戦をアメリカと運命を共にする戦争と位置づけ、対米同盟を外交・防衛政策の根幹に据えていった。もはやイギリスの姿はない。
 5.カイロ会談 労働党のハーバート・エバット外相
 1943年11月末に米、英、中の3ヵ国が戦争遂行についてカイロ会談を開催し、オーストラリア抜きで対日共同作戦の目的を決定した。第1次世界大戦で日本が獲得したすべての島々を剥奪する、満州と台湾を中国へ返還する、朝鮮を自由独立させる、日本へ無条件降伏を要求することを宣言した。これが後にポツダム宣言の基礎となる。
 対日戦を遂行しているという点ではオーストラリアは同格であり、むしろ太平洋地域ではイギリスの役割は限定されていた。にもかかわらず、イギリスが英帝国を代表してカイロ会談に参加し、オーストラリアが無視されているのであれば、こういう状況は受け入れられない。少なくとも太平洋地域の島々をめぐる処理に対して発言権を有するという認識があり、事前協議さえなかったことに深い憤りを禁じ得なかった。
 労働党のハーバート・エバット外相は1941年から1949年までの約8年間、外相としてオーストラリア外交を主導した。1945年10月24日に発効した国連憲章には、エバット提案が盛り込まれ、1948年に国連総会の議長に就任した。
 e.第2次世界大戦後
 1.ANZUS条約
 ANZUSは1951年9月に調印された軍事条約。正式名称は「オーストラリア、ニュージーランド、アメリカ合衆国間の安全保障条約」。オーストラリアの目的は、日本が再びオーストラリアを攻撃した場合に備えて、アメリカの対豪防衛協力を確保すること。 自由党のメンジース首相のさらなる目的は、3点。
 第1に、適用範囲を「太平洋地域」と規定しているが、想定される範囲は広い。ソ連や中国など共産勢力の拡大をも念頭に置いた太平洋地域をめぐる安全保障に関する条約。
 第2に、大国との協議機構を設立するとの希望が託されている。アメリカとの平時における安全保障協議を実施する場として位置づけた。
 第3点として、ANZUSの下に3ヵ国が設置する定例協議会をNATOとリンクさせことで、グローバルな安全保障協議機構への参画を目指した。
 2.日豪通商協定
 1957年7月、オーストラリアは日本との間に日豪通商協定を締結。オーストラリアは、極東国際軍事裁判で対日強硬派の急先鋒であったが、自由党のメンジース首相は反共政策の一貫として、国内の反日論を押し切って、政治的、経済的な2つの理由から調印に踏み切った。将来の対日経済関係を優先させた英断として知られる。
 第1は、日本を経済的に発展させて、日本社会の左傾化を阻止すること。オーストラリアにとって最悪のシナリオは、日本が社会主義化し、共産中国と同盟関係を結ぶこと。
 白豪主義を標榜する労働党は反日であり、貿易政策では保護主義の立場。反対派を説得できる唯一の理由が、グローバルな視点に立った反共政策であった。
 第2は、経済的な要因。イギリスに代表される対欧州貿易が減少傾向を示しており、新規の有望市場を開拓する必要性に迫られていた。
 3.自衛隊とオーストラリア軍の協力
 2003年、自衛隊はイラク南部サマワでイラク戦争後の復興支援活動に従事していた。当初はオランダ軍が護衛につくも、世論の反対でオランダ政府が撤収を決定。2005~6年にイラク南部サマワに駐留していた自衛隊をオーストラリア軍が警護した。イギリスの仲介で、自由党のハワード首相は護衛のために450人を増派することを申し出た。
 ハワードはイラクに対する増派は無いと公言していたが、日豪関係強化のチャンスと見なし決断した。日本の撤退を望まない英米両国に対する協力でもあった。第2次世界大戦で日本軍と戦ったオーストラリア軍が、約50年後に戦場で自衛隊員を警護することは大きな決断だった。
 日豪が相手国の部隊を守る行為は、第1次世界大戦期に日本の巡洋戦艦「伊吹」がアンザックの戦艦を護衛して以来のこと。
 4.対中警戒の兆し
 労働党のラッドの対中姿勢は、中国への警戒を強めていた日本との関係をギクシャクさせた。スミス豪外相は2008年2月に豪中戦略対話の場で、中国政府の懸念を認め、安倍晋三首相の提唱する日米豪印の4ヵ国戦略対話(QUAD)の枠組みから撤退する考えを表明。
 ところが、ラッドの楽観的見方は次第に薄れ、中国に対して警戒感を抱くようになっていく。中国大国化への懸念は、アメリカの相対的なパワー低下への不安感と表裏の関係にある。米軍のプレゼンス低下によるアジア地域のパワーバランスの変化は、中国大国化に対する楽観的見方の土台を崩すものであり、ラッドが対中姿勢を転換した要因の一つと言える。軍事力の強化は、中国の軍備増強や海洋進出に備えた動きであると同時に、アメリカのアジアにおける軍事プレゼンスの低下に備えるものであった。
 5.日豪関係の拡大はヘッジの一つ
 日豪関係が、対中関係のもつ「恐怖」へのヘッジの一つとしてアボット政権には重要であった。自由党のアボット首相は政権発足直後に発表した外交に関する政策ビジョンで、日本を「1950年代からアジアにおける最も誠実な友人であり、民主主義の重要なパートナー」と呼んでいた。アボット政権は日豪経済連携協定(EPA)の早期妥結と、日豪戦略的パートナーシップの強化を掲げていた。2014年4月に大筋で合意した。7月には安倍首相が訪豪し、日豪関係を「特別な戦略的パートナーシップ」に格上げし、両国は「防衛装備品・技術移転協定」に署名した。
B.オーストラリア人の考え方や価値観
 a.移民政策
 もともとオーストラリアはイギリスの植民地として出発した移民の社会であり、移民(=労働者)を受け入れることが宿命とされてきた。多数の移民を定期的に受け入れることで、ようやく社会を成立させていくことができた。イギリス系移民の不足から、ヨーロッパ大陸からも移民を求めたが、移民は白人にほぼ限定されていた。しかし、1970年代になると突然、アジア系にまでその範囲を広げた。東アジア(北東アジアと東南アジア)と接触することで、ようやく自我に目覚め、さらには危機感に襲われ、そして生きる活路を見出した。
 b.白豪政策
 1.白豪とは何か
 白豪とは「白人のためのオーストラリア」で、白人を構成員とするイギリス系社会を建設するという意味。
 2.白豪主義の国
 世界史を振り返ってみても、人種差別政策を国家政策として初めて導入した国であり、これ故にオーストラリアは人種差別国家として知られるようになった。
 この政策はニュージーランドやカナダなど、イギリス系白人植民地に共通した発想であった。しかし、人種差別を法制化した白豪政策が、国家建設にとって最も重要な国策であると協調し、メディアを通じて主張してきた国がオーストラリアであった。
 ①移住制限法の成立
 小さな白人社会を形成し始めたオーストラリアでは、中国人に代表されるアジア系外国労働者が急速に増加し、社会的驚異を形成するまでになっていた。
 当時、入国するものは、移民として永住する白人グループと、単純労働者として数年の契約の非白人(有色人種、主流は中国人)。中国人は移民としてではなく、「契約労働者」として入国したにすぎない。しかし時間の経過と共に、都市近郊で定住化が進むことになった。植民地時代は、定住化を阻止する法律も未整備だったため、シドニーやメルボルンを中心に中国人社会が既成事実化していった。
 大多数のオーストラリア人に合意できた解決策が、有色人種の締め出しであり、その結果として白豪社会の実現することであった。白豪政策を可能にした法律が、移住制限法(1901年)。当時のオーストラリア人にとって、それは自己防衛のための本能的な対策であった。
 1901年1月1日にオーストラリア連邦が成立し、連邦議会が初めて取り組んだのが移住制限法であった。満場一致で可決された後、12月23日に連邦総督によって承認された。以後、半世紀以上もアジア系の労働者や移民希望者を合法的に排除する役割を果たした。
 ②裕福なアジア人は例外
 例外は存在する。オーストラリアにとって経済的にメリットのある人達。豊富な資金を持つ資産家、輸出に貢献する貿易商社、高度な技術を持つ専門家。
 子供が生まれ、アジア人が自然増加するメカニズムをつくらせないため、入国を許可されたアジア人の大半が男性であり、女性は極めて少ない。白人より大規模な家族を形成する可能性が高いと恐れられていたため、渡航も単身者に限定されていた。ごく少数の裕福な人や技術専門家が妻帯を許された。
 最も受け入れ基準が甘かったのは日本人であり、ついでインド人、最後に中国人であった。税関の指導で中国人船員に対しては身分証明書(写真付)の携帯と指紋押捺を義務づけた。こうした条件は、日本人とインド人には適用されない。つまり、中国人船員を巡る密入国問題が、税関において日常化していた。
 ③白豪政策の対象は、移民ではなく、契約労働者
 オーストラリアが、アジア系外国人を移民として受け入れたことは原則としてない。白豪政策によって、締め出されたのはアジア系外国人労働者であり、移民ではない。契約労働者は、民族毎に特定産業に振り分ける傾向があり、1860年代から80年代に労働分業が進んだ。
 インド人やアフガン人は内陸の開発、中国人は金鉱開発、日本人は真珠貝採取と砂糖きびプランテーションに配備された。
 しかし、ゴールドラッシュで増えた中国人労働者が定住化し、結果的に移民へ変質していった。19世紀末になると、中国人は広範な業種に参入するようになり、富の蓄積に着手し始めた。
 3.中国人が増えてしまった最大の理由は、奴隷制の廃止
 英帝国内における奴隷制は、1833年に終わり、東インド会社による中国貿易の独占権も廃止された。アメリカは1863年に奴隷制を廃止。さらにイギリス本国の犯罪者を海外の流刑地に送り込む制度も1840年代に中止。いずれの新大陸でも新規の労働力が絶対的に不足していた。こうした労働力不足を解消する手段として中国人が活用された。
 第2次アヘン戦争の敗北によって、1860年に締結された北京条約には、中国人労働者を雇用する権利を公式に認めた条項が挿入された。これを根拠にイギリスの商社や船会社は、合法的に、しかも大量の中国人をオーストラリア、アメリカ、カナダに送り込むことが可能になった。
 4.白豪主義は、おもに中国人を標的にしたもの
 ①経済的要因
 白人のブルーカラーは、中国人が低賃金で金鉱開発に従事したため自分たちの賃金水準が大幅に低下した。大量の中国人を雇用して、富を蓄積した資本家や企業経営者がいる一方で、中国人に職場を奪われた白人労働者が存在することを忘れてはいけない。中国人排斥の原因は、貧しい白人が出現したこと。
 ②社会的要因
 社会的要因とは、中国人の存在に対してオーストラリア社会が拒否反応を示したことを意味する。中国人は、限られた地域に密集して居住するため、近郊付近の小さな地方都市では、白人比率を上回る現象が発生した。生活態度や食文化も異なっていたため、オーストラリア人は、次第に拒否反応を示すようになり、中国人の存在そのものが社会問題として認識されるようになった。さらに天然痘の保菌者が含まれていたため、中国人を病原体と見なす風潮も生まれた。この段階で経済理論を超えた社会運動へと変質し、白豪主義が共通の価値観として広く受け入れられるようになった。
 ③政治的要因
 理想とした白人社会が、中国労働者によって踏みにじられ、理想社会の建設計画に致命的な障害になるのではないかとの恐怖感が、白人社会に広く共有されることになる。
 白人のブルーカラー賃金水準を低下させたという点で、中国人が経済問題を起こし、さらに社会的にも許容できない民族であるとのコンセンサスが生まれたことで、政治的対応が模索された。
 中国人問題は、白人同士の連帯感を芽生えさせる起爆剤へと転化し、白人社会の大衆運動として白豪主義が蔓延することになる。
 こうした白人社会の連帯感が連邦運動の推進力となり、植民地の法律を一本化した移住制限法の制定であった。
 5.南太平洋帝国主義者
 オーストラリアは、イギリスの植民地であると同時に、南太平洋地域で「帝国主義者」としての顔を持つ。英領フィージーで植民地活動を行い、パプアと呼ばれるニューギニア東南部を支配してきた。その先兵がインド人であった。
 フィージーでは砂糖きびプランテーションでインド人労働者が大量に雇われていた。1879年から1916年頃の間に、インドから約6万人の契約労働者を導入した。彼らは、貧困の堆積と階級社会の葛藤が渦巻くインドへの帰国を望まず、ほぼ全員が定着し、大きなインド人社会が出現する。
 人口約90万人のうち約38%がインド人。経済活動はインド人が圧倒的な影響力を持つ。現在に至っても、フィージー人とインド人の確執を要因とする政情不安が続いている。
 6.白豪主義を叫んだ労働組合
 ①労働組合の誕生
 ビクトリアの都メルボルンは、今でも鉱山開発の企業本社が集中するのに対して、ニューサウスウエールズの都シドニーは商業と貿易の中心地である。前者が保護貿易に傾斜したのに対して、後者は自由貿易を標榜する。
 メルボルンは人材と資本の両面で、鉱山開発に一貫して中心的な役割を演じたため、労働者が集い、資本家に対して集団交渉を行う都市としての機能を持つようになった。労働現場における民主主義、平等主義、社会主義の価値を生み出していくきっかけともなった。こうして資源開発の産業でも労働組合が誕生する。
 オーストラリア人が理想の社会を求め、重要な役割を演じたのが労働組合と労働党であった。労働党は白人労働者の権利を保護し、要求を実現する明確な目的を持った政党。この政党の理想の社会とは、白人労働者にとって最善の雇用機会が得られる社会であり、目指す国家像は労働者が重要な役割を担う国家に他ならない。労働者が求めた初期の要求とは、1日8時間労働の実現と、最低賃金の保障であった。
 要求はエスカレートし、19世紀後半になるとアジア系外国人労働者の締め出しを強く求めるようになる。最大の理由は、彼らによって雇用機会が奪われ、なおかつ賃金水準が下がる雇用環境の悪化である。
 白人労働者の雇用保障と権利要求が運動として展開する過程で、労働組合が職能別に組織化され、要求を実現する手段として労働党が結成された。
 労働組合として、組織対応したのはメルボルンであった。1856年にビクトリア植民地の石屋組合が、イギリスの社会主義者のロバート・オーウェンの思想に共感を覚え、労働時間の短縮を求めた。1858年に賃金カットなしの8時間労働制を獲得した。これ以後、全土で徐々に普及する。
 非製造業分野で労働組合が誕生したのは、1850年代から90年代。高賃金の労働市場を保障するため、低賃金のアジア系労働者、とりわけ中国人労働者を参入させることに反対した。
 資本家や企業経営者は、人権や民主主義の観点から議論を展開したのではなく、中国人の低廉労働力を失うという経済的危機感から白豪主義を批判したが、血気盛んな労働組合と労働党の激しい主張の前に、そんな声はかき消されていった。
 ②労働党の誕生
 各植民地で議会が発足し、労働組合の利益を代表する議員を議会に送り込む必要性が生じたから、各地に労働党生まれた。白豪主義と社会主義をイデオロギーの両輪とした。そして権威の象徴のイギリスからの自立や独立も声高に叫んだ。
 1900年に、すべての植民地を横断する統一組織としてオーストラリア労働党が創設された。イギリスに対する反権威主義や独立志向も反映して、イギリス英語「labour」ではなくアメリカ英語の労働「labor」が1912年に採用された。正式名称の採択に10年以上費やした。結党の段階で正式名称が決定されるという常識は通用しない。実益があり、実害がなければ形式論にこだわらない、という国民性が発揮された。
 労働党は、極めて民主主義的な性格を帯びていた。労働者の権利ばかりではなく、オーストラリアそのものの生存権を主張した政党。その中身は、白豪主義と社会主義の追求であり、国防力の強化であった。
 ③連邦国家の誕生
 白豪政策に裏打ちされた白人社会を建設するために、10年かけて、1901年に、6つの植民地を統一した連邦国家が誕生した。それほど、当時のオーストラリアにあって、アジア系外国人労働者問題は深刻に受け止められていた。
 連邦政府が、第1回連邦会議で取り上げた問題が、アジア系労働者への入国規制。19世紀末にオーストラリアの植民地社会は、白豪政策を将来における国家政策の根幹に据える決定を下した。
 c.多民族性と多文化社会
 1.社会革命としての多文化政策
 1970年代から1980年代の移民政策における革命。オーストラリア社会はイギリスに対して独立革命を起こさなかったが、国内社会で静かな革命を経験している。大半の国民でさえ自覚していない。白人至上主義の移民政策を放棄して、アジア人を主体とした非白人の移民を合法化した。国家の将来像と価値観を根本的に修正した。
 もともとオーストラリア社会は、イギリス本土やヨーロッパ大陸を出身地域に、様々な民族集団から多種多様な文化を背負った移民によって形成された社会。多様なヨーロッパ人によって、建設されてきた長い歴史を持つ。1861年当時のオーストラリアでは、イギリス・アイルランド系移民は78%しか占めておらず、残りの22%は、非イギリス系。その中で最大勢力は先住民のアボリジニ。ヨーロッパ大陸は約5%、アジア地域出身者は約3%。これまでの人口統計では、民族構成比でアボリジニを計算に入れていなかったため、白人比率が常に100%に近い状態だった。アボリジニが国民として認められ国勢調査の対象になったのは、1967年以降。
 20世紀になると移住制限によってアジア地域出身者は激減する。1947年にはイギリス・ヨーロッパ系が98%を占める。
 しかし、1970年代からのインドシナ難民、特にベトナム難民を受け入れと、これに続くアジア系移民社会の成立は、白人社会が遭遇した初めての異文化体験であり、価値観の異質性を受け入れた決断は、革命的な性格を帯びていた。
 2.英語教育
 オーストラリアの移民政策は、常にアメリカを先例に、アメリカが直面した様々な社会問題と教訓を学んで立案されてきた。オーストラリア社会にアフリカ系黒人の集団がほとんど存在しないことも、その一例。
 多文化政策といっても、オーストラリアとアメリカは同じではない。決定的に異なる点は、、英語教育。
 アメリカは、1つの国の中にダイナミックな多民族性と多文化性を内包してきた歴史を持つ。北東部には巨大なヨーロッパ系多文化社会が建設され、南部には、プランテーション開発のために導入した多数の黒人奴隷の巨大なブラック社会がある。
 20世紀後半には、隣国のメキシコやカリブ海諸島から無数の移民・難民・密入国社が入り込み、国内で公用語の英語が通用しない状況が発生し、共通の社会・文化基盤を喪失した非英語地域がカルフォルニア州南部やフロリダ州で出現するようになった。本来、すべてのアメリカ人は共通語、公用語として英語を習得することが望ましいが、アメリカ政府は英語教育による英語コミュニケーションの推進を、財政的に放棄せざるを得なかった。メキシコやカリブ海諸島からの移民・難民・密入国者は、貧困層を形成し、社会不安の原因ともなっていった。この結果、都市犯罪の急増現象が顕在化した。
 これに対してオーストラリアは、英語を共通語とした多文化政策を実施し、移民や難民に対しても補助金を投入して、英語教育を推進してきた。1つの社会を維持する上で、共通語を喪失すべきではないというのが、政府の立場である。英語を社会生活の基盤として、異なる民族が互いの文化・習慣・言語を尊重する多民族社会を認め合い、そして多文化社会を建設するという政策。
 アメリカのように世界を魅了するダイナミズムは持ち合わせていないが、アメリカの多民族社会が内包する深刻な都市犯罪も存在しない社会が、オーストラリアということになる。
 3.多文化政策の背後
 多文化政策が打ち出された最大の要因は、国内に巨大なアジア系移民・難民の社会が出現してしまったという、既成事実。連邦政府の意識的な政策誘導によって、アジア系移民・難民が出現したわけではない。1970年後半から大量のアジア系移民・難民が押し寄せ、アジア系文化社会が誕生した背景は
 第1点は、ASEANからの強い外交圧力にさらされ、ベトナム難民を受け入れざるを得なくなった。
 第2点は、水準の低い白人移民を振るい落とす新しい移民選別方式(ポイント・システム)を導入したため、優秀なアジア系移民が入国する流れが定着した。
 第3点は、人道的観点から採用した家族呼び寄せ制度を、家族集団主義の伝統を持つアジア系移民やベトナム難民が最も活用した。
 オーストラリアの貿易で東アジア地域は7割を超えている現状認識が、白豪主義に決別し多文化政策に踏み切らざるを得ない革新的なイメージづくりを求めた。
C.18世紀後半から現代までの歴史
 a.イギリスがオーストラリアを発見
 1770年4月20日に、イギリス海軍の調査船「エジンバラ号」に乗ったキャプテンクックがオーストラリア東海岸を発見し、29日にボタニー湾に上陸した。
 b.イギリスによる新たな植民地の開発
 1.植民地建設の最大の理由はアメリカの独立
 長らく活用してきたアメリカが、独立戦争(1775~83年)を戦って独立したため、イギリスは最良の植民地を失う。当時イギリスは、国内の人口増大に対応するため、海外の植民活動を通じて余剰人口を吸収させる方針を採用していた。とりわけ犯罪者の急増で国内の刑務所が飽和状態に達しており、こうした犯罪者を計画的に収容するためにも、新たな植民地の開発が急務となっていた。
 アメリカの代替地として、カナダやアフリカに比べて、オーストラリアは気候も温暖で自給自足に適しており、熱帯病や風土病もないため好都合であった。
 アメリカが独立していなければ、オーストラリア全土がイギリスの植民地にならなかったかもしれない。ニューカレドニアやフレンチ・ポリネシアと同様に、フランスの植民地になっていた可能性は十分ある。
 2.イギリスの植民地となる
 1783年のパリ条約でアメリカの独立を承認してから5年後に、イギリスはオーストラリアに流刑植民地の本格的な建設に着手した。オーストラリアを発見してから18年の歳月が流れていた。
 1788年1月26日にイギリスのアーサー・フィリップ提督がシドニーに上陸してイギリス国旗を掲揚し、イギリスの植民地政策が公式に始動した。その日をオーストラリア・デー、建国記念日として祝う。
 フィリップ提督は、「ニューサウスウェールズ」地域に上陸した。植民当初は、オーストラリア全土を「ニューサウスウェールズ」植民地と呼んでいた。そこからイギリス政府によって、ある程度の内政自治を認められた、4つの植民地が分離していった。最終的には、6つの植民地が建設された。
 1787年にイギリス本土から移民として乗船した第一船団の構成員は、約1000人のうち、囚人とその家族が約751人、軍人とその家族は、252人であった。オーストラリア植民地の社会建設に携わっていく。その後、18世紀末の入植初期にイングランド、アイルランド、ウェールズ、スコットランドからの出身者とユダヤ人が、イギリス本国から次々と送り込まれた。多民族による白人社会が形成される。
 1788年2月7日にイギリス政府がオーストラリア東海岸とタスマニアを正式に領有した。
  【王立植物園】
 植物園は18世紀以降、世界中のイギリス植民地につくられ、いわばイギリスの「植物帝国主義」ネットワークを形成していた。植物帝国主義とは、植民地で採取した珍しい植物を、中心であるイギリスのキュー王立植物園に集め、別の植民地で安価で効率的に栽培するための研究を行い、世界の植物をイギリス帝国に経済的利益をもたらすものとする構想。植民地開拓の一行には必ず植物学者やプラントハンターが同行していた。シドニーの王立植物園も植物研究を行い、帝国主義の一翼を担っていた。
 c.6つの植民地が統合された1つの連邦国家
 1890年代に、憲法制定会議をしばしば開き、イギリスには存在しない成文憲法を制定し、憲法の下に連邦国家を建設した。
 1901年1月1日、6つの植民地が統合されて1つの連邦国家になったが、決してイギリスから独立したわけではない。建国記念日として祝うことはない。6つの植民地は州へと名前を変え、近代国家の装いを整え始めたが、植民地時代の遺産をすべて引きずったままでの統一国家だった。
 1.独立戦争がなかった理由
 アメリカはイギリスから苛酷な税金が徴収され、しかも発言権が認められない状況に置かれてきた。この永遠に続く隷属状況を断ち切るために独立戦争に突き進んでいった。
 逆に、オーストラリアはイギリスとの間で相互依存関係がつくられていた。独立する必要がなかった。イギリス政府によって反英闘争を邪気するような問題の芽が見事に摘み取られていた。オーストラリアには独立記念日がない。
 オーストラリアと同様に、ニュージーランドやカナダでも反英独立戦争が発生していない。アメリカが独立したことで、イギリスの植民地政策は大きく修正を迫られ、アメとムチの政策へと巧妙に変化していく。19世紀から20世紀中頃までの150年間、イギリスは植民地社会の成熟に伴って徐々に自治権を与えたが、決して主権国家として巣立ちさせなかった。つまり、オーストラリアとイギリスとの関係の曖昧性こそが、イギリス植民地政策の智恵に他ならない。その曖昧性故に、オーストラリアは常に国家アイデンティティの問題に悩まされてきた。曖昧性を解消することがオーストラリアの国家形成そのもの。
 2.自治領と植民地
 かつてイギリスの植民地には、白人主体の自治植民地(オーストラリア、ニュージーランド、カナダなど)と、有色人種主体の植民地(インド帝国に代表される南アジアやアフリカ大陸の植民地)の2種類があった。
 自治植民地は、のちに自治領と呼ばれるようになり、英帝国から英連邦へ変質する時代を通じて、イギリスに対して徐々に発言権を増やしていった。20世紀になってから、国王や女王は英帝国を統治する最高権威。その代理人として総督がイギリス本国から派遣され、自治領と植民地には総督府が置かれた。
 アジアやアフリカの植民地が独立した際、多くの国々では君主制(イギリスの王政)を放棄して共和制に移行し、それに伴い総督の職も廃止された。オーストラリアやニュージーランドは、君主制を放棄せず、立憲君主制を標榜のして総督の職も廃止しなかった。近い将来、共和国になる可能性は低い。
 3.英帝国から英連邦へ
 オーストラリアなど自治領の地位が向上するに従って、英帝国の名称は英連邦へ、そして現在のコモンウェルスに修正されていった。英帝国と英連邦の区別は曖昧。
 1953年に公式名称として英連邦が廃止され新名称コモンウェルスが採用された。新名称コモンウェルスの採用は、1947年にインドとパキスタンが、翌48年にセイロン(現在のスリランカ)がイギリスから独立したことに起因する。
 4.アンザック伝説
 多くの国では革命記念日や戦勝記念日を祝うが、オーストラリアでは敗戦記念日に、勇敢な戦死者を追悼し、かつて出陣した兵士に敬意を払う。4月25日の敗戦記念日は、国民の日「アンザック・デー」に指定され、退役軍人連盟らが主体となって記念行事を開いている。アイザックとは、オーストラリア(A)とニュージーランド(NZ)の兵士から編成された陸軍部隊(AC)のこと。
 第1次世界大戦に参戦したアイザック軍が1915年4月25日、トルコのガリポリ半島上陸に失敗し、多数の兵士が犠牲になった。同年12月の完全撤退までの間に8141人の兵士が命を落とし、1万8000人が負傷した。勇猛果敢に上陸作戦を遂行したアイザック軍の勇気と愛国心を称え、あえて負の歴史を伝説にまで転化させてきた。
 d.19世紀の対外脅威 植民地戦争の恐怖感
 1870年にイギリス駐留軍が撤退し、さらに、1880年代から90年代、ロシア、フランス、ドイツの海軍艦隊や商船が、南太平洋やオーストラリア近海を徘徊するのを目の当たりにして、イギリスとヨーロッパ諸国の世界分割競争・植民地化に組み込まれ、ヨーロッパの帝国主義に翻弄され、侵略される危機意識を高めた。オーストラリアは国際政治を意識した。
 1.小さな海軍をつくる
 イギリス政府は、駐留軍が撤退する5年前、1865年に「植民地海軍防衛法」を制定し、オーストラリア植民地が海軍艦艇を自前で沿岸警備用に保有することを合法化した。これ以降、限られた予算で海軍を細々と整備する。小規模ではあるが、海軍には変わりない。オーストラリアの国家意識を高揚させた。
 2.シドニー湾の要塞 クリミア戦争への備え
 不凍港を求めて南下せざるを得ないロシアは、イギリスと利害が衝突する、最初の戦争がクリミア戦争(1853~56年)。イギリスの敵は英帝国の敵を意味し、オーストラリアにとってロシアは、初めての敵国となる。
 ロシア軍がシドニーを攻撃するのではないかとの恐怖心から、1854年にシドニー湾に浮かぶ小さな島「デニソン要塞」の建設に着手。
 ロシアに対する警戒心は、歴史の推移と共に強弱はあるものの、クリミア戦争を出発点に日露戦争、ロシア革命、共産主義国家ソ連の誕生、米ソ冷戦の終焉に至る137年間、オーストラリアの外交と国防に影響を与えることになった。
 極東地域でロシアに対抗した日本は、後のオーストラリア連邦国家にとって特別な存在となった。日英同盟と日露戦争で、オーストラリアは日本を支持した。
 3.フランスの進出  ニューカレドニア領有
 皇帝ナポレオン3世(在位1852~70)が、膨張路線を採用し、南太平洋の領有化を決断した。ニューカレドニアを1853年に領有。
 4.ドイツ帝国の登場  ニューギニア領有
 1884年にニューギニアがドイツ領になったことは、仮想敵国が目の前に出現したことを意味する。
 5.英帝国の戦争 イギリスの忠誠心と疑問
 オーストラリア植民地政府がイギリス政府の要請で多数の義勇兵を派遣した、南アフリカで戦われていたボーア戦争(1899~1902年)と、中国で発生した義和団事件(1899~1901年)は、オーストラリアが自我に目覚める1つのきっかけとなり、1901年に6つの植民地を統合しオーストラリア連邦を形成した。
 イギリスのために戦場に赴くという使命感や愛国心と、遙か彼方の南アフリカや中国になぜ義勇兵を派遣しなければならないのかという素朴な疑問とが、胸中に交錯し、新たな自画像を描くようになる。
  ①ボーア戦争
 ボーア戦争とは、南アフリカでの植民地経営を巡って、オランダ系ボーア人とイギリス系移民との対立関係が、武力衝突にまで発展した帝国主義時代の戦争。オーストラリア植民地から義勇兵として1万6175人が、軍馬1万6134頭を引き連れて南アフリカへ出発した。オーストラリア植民地にとって、歴史上初めて大規模な戦闘への参加であった。イギリスからの派兵要請を巡って議会での討論は賛否で2分された。
  ②義和団事件への派兵  感染症で被害
 義和団という結社を中心に1899年、中国の反帝国主義闘争は激しさを増し、北京や天津では多数の欧米人が襲撃の標的となり、1500人以上が死傷し、ドイツ公使が暗殺された。このため8ヵ国連合軍が組織された。イギリス軍はオーストラリア植民地軍556人も組み込んだ3万3450人、ロシアと日本がそれぞれ2万3000人、ドイツとフランスがそれぞれ2万人を派兵。アメリカは約4600人に止まった。
 軍事作戦で死亡した兵士は皆無だったが、総兵力の25%が風邪やインフルエンザに冒され、6名が死亡した。
 6.ロシアの南下
 義和団事件の終結に伴って清朝が支払うことになった総額約4億5000万両の賠償金を、ロシア(29%)、ドイツ(20%)、フランス(16%)、イギリス(11%)、日本(8%)、アメリカ(7%)、イタリア(6%)。英帝国の脅威であったロシア、ドイツ、フランスの3ヵ国は、明らかに突出した賠償金を獲得していた。国際政治を見る目を養う場となった。とりわけロシアの強圧的な姿勢と、中国大陸における既得権益の確立に、改めてロシアの南下政策は疑いの余地がないと、オーストラリア派遣軍の司令官らは痛感する。
 連邦海軍創設の背景には、義和団事件を通じて東アジアの国際政治を実感した経験が影響している。また、日清戦争で三国干渉を行ったロシア、ドイツ、フランスがイギリスの権益に挑戦して、中国を舞台に権益を強引に拡張していく有様を目の当たりにしたから、イギリス海軍に頼るだけでは、安全保障が確保できないとの危機意識を持つようになった。オーストラリアと英帝国にとっての仮想敵国は、ロシア、ドイツ、フランスであり、とりわけロシアの南下は切迫した問題であった。
 e.大国政治への関与と挫折  
 1970年代に萌芽をもつミドルパワーの国家観は、以前に求めた大国政治への参加が果たされず、その夢が挫折したことに対する反省から生まれた大国とは第1にアメリカであり、第2にイギリスであった。
 オーストラリアが大国政治への関与を模索した4局面の変遷。
 ・カイロ会談  オーストラリア抜きの大国政治に対する反発と警戒感の局面
 ・国際連合の創設とアンザック協定  中小国の利益を代表する局面
 ・南太平洋委員会の創設  大国の影響力と関与を阻止する局面
 ・ANZUS同盟とアジア地域紛争への軍事関与 大国政治に影響力を行使する局面
 1.カイロ会談 大国政治に対する反発
 1943年11月末に米、英、中の3ヵ国が戦争遂行についてカイロ会談を開催し、オーストラリア抜きで対日共同作戦の目的を決定した。第1次世界大戦で日本が獲得したすべての島々を剥奪する、満州と台湾を中国へ返還する、朝鮮を自由独立させる、日本へ無条件降伏を要求することを宣言した。これが後にポツダム宣言の基礎となる。
 対日戦を遂行しているという点ではオーストラリアは同格であり、むしろ太平洋地域ではイギリスの役割は限定されていた。にもかかわらず、イギリスが英帝国を代表してカイロ会談に参加し、オーストラリアが無視されているのであれば、こういう状況は受け入れられない。少なくとも太平洋地域の島々をめぐる処理に対して発言権を有するという認識があり、事前協議さえなかったことに深い憤りを禁じ得なかった。
 こうした不満は、オーストラリアに1944年1月に戦争遂行に関してニュージーランドとのアンザック協定を締結させた。また、戦後の国際秩序と国連構想は、大国主導で進められてカイロ会談に対する不信感に出発点をもつ。
 2.アンザック協定  南太平洋委員会の創設 大国関与を阻止する  
 アンザック協定は、休戦会談への参加、太平洋問題に関する国際会議の開催、地域安全保障の推進、南太平洋の地域協力と開発などが柱になっている。とりわけオーストラリアが重視したのは、南太平洋地域の安全保障に関して、オーストラリアとニュージーランド両国が、主たる責任を有するという点。オーストラリアとアメリカは、同床異夢の関係にあった。エバット外相が、対米関係を強化したいが、だからといって対日共同作戦や戦後構想の協議から除外されたことは許し難いとの立場を鮮明にしてきたので、オーストラリアの対米関係は、第2次世界大戦末期から国連創設にかけて、不協和音を内在させていた。
 意義は4点に集約される。
 第1は、1947年に南太平洋委員会が設立されたこと。
 原加盟国はオーストラリア、ニュージーランド、フランス、オランダ、イギリス、アメリカの6ヵ国で、南太平洋の島々は独立と共に加盟が認められた。
 目的は、域内の島々をめぐる経済開発、社会発展、教育・文化の振興などに限られ、政治的役割は内政干渉を引き起こす可能性があるとして放棄している。米英などの大国が政治的影響力を行使するのをオーストラリアが恐れたため、域内問題への大国の関与を阻止するという政治的意図が隠されている。
 第2は、太平洋地域における安全保障体制の原型をニュージーランドと共に創り上げたこと。
 第3は、自治領のオーストラリアとニュージーランドが主権国家として政府間協定を結び、イギリスを関与させなかったこと。
 第4は、中小国の意見と利益を反映させるべきである、との政治的意志を示したこと。
 3.国連の創設に参加  
 国際社会でオーストラリアが、明確な立場を表すことができたのが、国連への加盟であった。第1次世界大戦後の国際連盟には1945年に設立された国連に、オーストラリアは原加盟国として参加したばかりではなく、さらに国連の創設そのものに深く関わった。半人前の国家として加盟した国際連盟とは異なり、オーストラリアは一人前の主権国家として、国際連合の設計図を弾き直す作業に関与することができた。その立役者が、労働党のハーバート・エバット外相。
 4.労働党のハーバート・エバット外相
 エバット外相は1941年から1949年までの約8年間、外相としてオーストラリア外交を主導した。世界大戦中における対米同盟関係の強化、ニュージーランドとの安全保障(アンザック)協定の調印、国連創設への参画、国連総会議長への就任など、オーストラリアが独立した地位を確保する基礎を築いた。イギリスと英帝国への決別宣言であり、独自の外交を標榜する労働党外交の原点となった。特筆すべきは国連外交。1945年にサンフランシスコ会議で戦後秩序と国連の設立が討議された時、エバットは国連憲章の起草に深く関与する。安全保障理事会の権限と機能を見直し、常任理事国に与えられる拒否権の範囲を限定すべきであると主張、さらに全加盟国が参加できる総会の権限を強化することに尽力する。エバットは1948年に国連総会の議長に就任した。1945年10月24日に発効した国連憲章には、エバット提案が盛り込まれ、国際秩序形成への参画の証しとなった。
 1949年の総選挙で敗北し、代わって保守王国を築いたのが自由党のメンジース首相。冷戦外交の幕開け。
 f.メンジース首相の反共政策と対米同盟 冷戦の戦士   
 オーストラリアの保守政権は常に連立政権であり、単独の保守政権は存在したことがない。オーストラリアでは自由党・保守系地方党(現在の国民党)の保守系2政党と労働党の2大勢力が拮抗状態にあり、完全な2大政党制ではない。
 自由党のメンジース首相は、労働党のエバット外相とは対照的に、労働党政権がつくりあげた外交枠組み(対米軍事協力、アンザック協定、国連重視)は踏襲しつつも、米英がデザインする大国主導の世界戦略を支持し、冷却化した対米英関係を修復して大国政治に影響力を行使する道を選択した。イギリスの同盟国という色彩が薄れ、アメリカの重要性が増した。
 メンジース首相は、1950年代から60年代、反共路線を一貫として推し進め、自由主義と民主主義を標榜するアメリカの片腕として反共国家を自負した。朝鮮戦争とベトナム戦争への参加。
 大国政治への積極的な協力がベトナム戦争で失敗したことにより、長期にわたった保守系政権、メンジース王朝の支配は終焉を迎えた。オーストラリアは、国家のあり方を根本的に見直す局面に立たされる。国際社会におけるミドルパワーの自己認識であり、国内社会における多文化主義の受容であった。
 戦争後に発生した大量のベトナム難民がオーストラリアに漂着し、巨大なベトナム社会を形成するようになった。
 1.ANZUS条約
 ANZUSは1951年9月に調印された軍事条約。正式名称は「オーストラリア、ニュージーランド、アメリカ合衆国間の安全保障条約」。オーストラリアの目的は、日本が再びオーストラリアを攻撃した場合に備えて、アメリカの対豪防衛協力を確保すること。さらなる目的は、3点。
 第1に、適用範囲を「太平洋地域」と規定しているが、想定される範囲は広い。ソ連や中国など共産勢力の拡大をも念頭に置いた太平洋地域をめぐる安全保障に関する条約。
 第2に、大国との協議機構を設立するとの希望が託されている。アメリカとの平時における安全保障協議を実施する場として位置づけた。
 第3点として、ANZUSの下に3ヵ国が設置する定例協議会をNATOとリンクさせことで、グローバルな安全保障協議機構への参画を目指した。
 2.日豪通商協定
 1957年7月、オーストラリアは日本との間に日豪通商協定を締結。オーストラリアは、極東国際軍事裁判で対日強硬派の急先鋒であったが、自由党のメンジース首相メンジース政権は反共政策の一貫として、国内の反日論を押し切って、政治的、経済的な2つの理由から調印に踏み切った。将来の対日経済関係を優先させた英断として知られる。
 第1は、日本を経済的に発展させて、日本社会の左傾化を阻止すること。オーストラリアにとって最悪のシナリオは、日本が社会主義化し、共産中国と同盟関係を結ぶこと。
白豪主義を標榜する労働党は反日であり、貿易政策では保護主義の立場。反対派を説得できる唯一の理由が、グローバルな視点に立った反共政策であった。
 第2は、経済的な要因。イギリスに代表される対欧州貿易が減少傾向を示しており、新規の有望市場を開拓する必要性に迫られていた。
 3.東南アジアでの存在感
 対米関係を深める過程でオーストラリアは、東南アジア地域をめぐる安全保障体制の構築に積極的に関与し、自らの存在感を増大させていった。
  ①反共の戦略援助(コロンボ計画)
 貧困を解消することが共産主義を阻止する有効な手段であり、長期的な展望で東南アジア援助を展開すべきである。経済開発と教育を中核に据えた。
 多数の留学生を東南アジアから招聘し、途上国の人材開発に貢献してきた。とりわけインドネシアは最重点国として位置づけ、特別枠を設定していた。スハルト政権移行のインドネシアの権力構造において、オーストラリア留学組が常にパワー・エリート集団に参加していた。途上国に於いて教育プログラムと留学が、高度に政治的な手段になりうる。
  ②地域安全保障体制(SEATOとFPDA)
 東南アジア条約機構(SEATO)は、第1次インドシナ戦争(1946~54年)で西側諸国が統一行動を展開できず北ベトナムに対して敗北した教訓から、1954年9月のマニラ条約をもとに形成された軍事機構で、アメリカの反共政策が反映されたもの。1975年にベトナム戦争が終結し、米仏間の対立が顕在化し1977年に解散した。
 1971年4月、マレーシアとシンガポールの防衛を確約したFPDAを提唱国のイギリスやニュージーランドとともに調印した。イギリスの国防政策が、スエズ以東からの軍事力撤退を決定したことを踏まえた対応策。東南アジアの安全保障が不安定となることを踏まえ、その目的はマレーシアとシンガポールが独自の軍事力を構築するまでの準備期間を与えること。SEATOと異なり、FPDAは現在でも機能していて、マレー半島の防空を担っている。
 4.海外派兵
 メンジース時代の国防政策は、「前進防衛政策」と呼ばれている。オーストラリア軍を投入して地域紛争を早期に処理することによって、オーストラリア本土への脅威を未然に防ぐというもの。
  ①マラヤ危機
 マラヤ危機は1948年6月、英領マラヤ(現在のマレーシア)のゴム農園で中国系共産ゲリラが農園経営者を殺害したことが発端。イギリス政府の要請を受けたメンジース首相は1950年6月に戦闘部隊を投入し、63年に撤収するまでの13年間海外派兵を継続する。ゲリラはイギリス植民地支配を終焉させることを目的とし、57年に達成している。
  ②朝鮮戦争
 1950年6月25日、北朝鮮が韓国を侵略したとして朝鮮戦争が始まった。メンジースは直後に閣議で協議し、マラヤ危機への対応を最優先とし、朝鮮戦争への派兵を見送る。7月7日に国連安全保障理事会がアメリカ軍主導の国連軍派遣を決定した。この段階になってオーストラリアは、戦闘部隊を国連軍として派遣することを決定した。
当時、占領下の日本には、オーストラリア軍が岩国や呉に駐留し、マッカーサー連合国軍最高司令官の指揮下にあった。最終的に約1万8000人の兵士を投入し、約350人を戦闘で失った。
  ③ベトナム戦争
 ベトナム戦争(1961~75年)に、反共政策を推し進め、対米同盟関係を強化できる証しとして5万人の兵士を派遣した。1962年に初めて軍事的に関与し、冷戦の戦士としてのオーストラリアを国際社会に印象づけた。
 g.多文化ミドルパワーの国家像   ベンチャー型中企業国家
 白豪政策と決別し、インドシナ難民を大量に受け入れたことで、オーストラリア社会はアジア人を抱える多文化社会へと変貌し、徐々にアイデンティティを明確にすることができた。同じ時期にオーストラリアは、大国政治への参画を断念して、歩むべき独自の道を探し求め、ミドルパワー(中規模の国家)外交の発想をアジア太平洋地域を舞台に醸成し始めた。1980年代後半に、ベンチャー精神を持つミドルパワー国家を実現していった。連邦国家が誕生して以来、歴代のオーストラリア政権を悩まし続けた自画像の描写は、ようやく多文化ミドルパワーとして結実していくことになった。20世紀末のオーストラリアは、多文化社会とミドルパワーの発想を一体化させ、多文化ミドルパワーとしての国家像をもつになる。大国や小国が手掛けられない、もしくは手掛けたくない国際問題、外交問題に、積極的に参加するとの外交政策に結びついていく。
 1.原点  独自ブランドを求めた労働党 ウィットラム首相
 労働党のウィットラム首相は、冷戦の戦士という国家イメージと決別し、中国との国交正常化をアピールした。
 ①対米関係の再定義
 アメリカの世界戦略は破綻状況に追い込まれていた。ベトナム戦争に疲弊したアメリカが、昨日までの敵中国を、一晩でアメリカの友好国に変質させ、劇的な対中国交正常化を推し進めた。同盟国としてのオーストラリアが、再び何の事前協議もなく、アメリカ外交から取り残されてしまった。かつて対日共同作戦を協議したカイロ会談で労働党政権が味わった悲哀と同じように、今回は保守系政権も失望感に包まれた。この変貌を目の当たりにした時、オーストラリアの保守系政権は対応に苦慮し、自己否定の状況に置かれていった。
 このように国際政治が構造変動したことを受けて、ウィットラム労働党政権が誕生した。前進防衛政策を破棄し、専守防衛を軸とした大陸防衛政策を採択した。オーストラリアが無条件に対米追従することを否定したが、対米同盟関係の枠組みには手をつけていない。対米軍事協定は維持されており、大きな変更を伴ったものではない。つまり、条件付きで、対米軍事協力を行ったと理解すべき。アメリカから多少距離を置くことで、自国が置かれた立場を冷静に認識し、現実的な外交オプションを選択した。
 ②白人社会の多民族化
 1973年にアルバート・グラズビー移民相が、公式の政策として多文化政策を最初に発表した。東欧・南欧からの大陸系ヨーロッパ人移民が大量に流入し、伝統的なアングロサクソン文化とは異なる白人社会が生まれつつあることを念頭に発案された。
 労働党政権の大量移民計画の目的は、3点
  ・国土防衛のための兵員確保
  ・経済発展のための労働力確保
  ・人口の自然増加率の低下に歯止めをかける手段
 オーストラリアの年間人口増加率を2%に設定し、自然増加率で不足する人口(1%)を移民で補充する計画。当時の総人口を約750万人とすれば、1%にあたる7万5000人の移民を毎年受け入れる計画であった。ヨーロッパ大陸からの移民が不可欠とされた。イギリス系移民は、数年後に帰国したり、カナダに再移住する傾向があった。
 ギリシャ、イタリア、ドイツ、旧ユーゴスラビアからの移民は都市近郊に巨大な移民社会を形成していった。
 保守系政権のアングロサクソン文化への同化政策の発想をウィットラム政権が転換させた。ヨーロッパ人の多民族化・多文化状況が、オーストラリア社会の変革をもたらした第一の起爆剤となった。第2の起爆剤は、アジア系移民・難民の受け入れであった。
 ③白豪政策との決別  隠された意図
 ウィットラム首相は、白豪政策に終止符を打った政治家として知られる。国際社会で尊敬される地位を獲得するには、白豪政策との決別が必要であると発言。1965年に労働党の綱領から白豪政策を外した。移民の個人能力を重視した移民の選別方式「ポイント・システム」を採用した。人種を基準とした移民審査を廃止し、合計点の高い移民を受け入れる新方式の導入を決断した。真の狙いは、オーストラリア経済の発展に寄与することができる優秀な白人移民を受け入れること。教育程度が低く、英語の運用能力に欠け、技術力もない白人移民を合法的に排除するための制度。
 しかし皮肉なことに、主役である白人移民が伸び悩み、優秀なアジア人が高いポイントを獲得して合法的に移住してきた。
 ④アジア系難民を初めて受け入れる
 ウィットラム首相は、多数のベトナム難民の受け入れを決断した政治家。1975年4月30日にサイゴンが陥落し、実質的にベトナム戦争は終わりを告げた。南ベトナム政府の軍人や官僚、政府系ビジネスマンは国外脱出を試みるようになる。、ウィットラム政権はベトナム難民の受け入れを表明し、最終的に1093人の受け入れを決断した。
 いままでも多数の難民を受け入れてきたが、その実態はヨーロッパ系白人難民。東欧・南欧人々は、難民としてヨーロッパを離れたにもかかわらず、移民としてオーストラリアに入国した。白人であれば、移民と難民の区別はほとんど意味のないことであった。
 インドシナ難民の出現は、オーストラリアにとって初めての難民問題を経験することになる。ウィットラム政権は当初、ベトナム難民の受け入れに極めて消極的であった。その理由は2つ。
 ・北ベトナム政府と国交を正常化する上で、南ベトナム難民受け入れが外交上マイナスに作用する。
 ・難民が反共主義者であったこと。第2次世界大戦後にソ連の弾圧から逃亡してきた反共主義者が労働党を批判する勢力として存在感を示した実績があり、その警戒感が首相の脳裏をよぎった。
 そのため、受け入れた難民は、個人の能力が高く、政権にとって安心な人に限定されていた。ウィットラム首相が求めたものではないにせよ、結果的にアジア系移民・難民社会を出現さ、オーストラリアに存在しなかった移民文化も持ち込んだ。
 ⑤国内改革にも辣腕
 大学教育の無料化、連邦政府による学校補助金の交付、国民皆保険制度の採用、女性の地位向上、文化芸術活動への資金援助、さらにアボリジニの土地所有権の承認など、ありとあらゆる方面で改革を進めた結果、歳出が急速に膨らんで経済運営そのものが困難になった。1975年11月、連邦総督ジョン・カーが大権を発動し、首相の職務を罷免された。自由党のフレーザー党首が選挙管理内閣を組織し、政治的混乱を収束させた。短命政権にも拘わらず、ウィットラムが描き始めた新しい政策体系は、それ以後の政権に多大な影響を及ぼすことになる。
 2.輪郭  舞台は第3世界 自由党のフレーザー首相
 ソ連が1979年12月にアフガニスタンへしたことで、米中関係の緊密化と中ソ関係の冷却化が際立つようになり、これを新冷戦と呼ぶようになった。
 フレーザー首相は、自由党の対外政策を反共政策から反ソ政策へと巧みに軌道修正した。親中・反ソがオーストラリア外交の柱となった。冷却化していた対米同盟関係を再び活性化させることにも力を注いだ。
 ①ミドルパワー論の精緻化  第3世界外交
 オーストラリアは自らが主役になれる場をようやく第3世界(途上国)に見つけ出した。フレーザー首相は、第3世界との関係においてオーストラリアの影響力を拡大し、外交の独自性を発揮しようとした。とりわけ欧米化の大国が、手足を縛られて関与できない問題やまだ手を出していない新しい問題にフレーザーは関心を寄せた。
 フレーザーが想定していた第3世界とは、アジア・アフリカ・南太平洋地域の途上国。第3世界外交の特色3点。
 第1は反ソ政策としての途上国支援、第2はアジア太平洋地域での政治的影響力の増大、第3に人種差別政策への反対。
 英連邦の構成国が、その大半を途上国で占められていることに着目して、第3世界外交の観点から英連邦内での政治力を高め、オーストラリアが主体的な役割を演じることができる場として、英連邦を再定義していった。
 フレーザー首相は大国政治への参画を求めず、あくまで大国政治への側面支援と、再定義した英連邦内での指導力発揮に、オーストラリアの新たな役割を見出そうとした。ウィットラム首相が着想し、フレーザー首相が具体的な構想へと肉付けしたことでミドルパワー国家像は明確な輪郭を描き始めた。
 ②ベトナム難民の受け入れ
 第3世界外交を展開する過程で発生したのが、ベトナム難民問題。1975年にウィットラム政権が初めて受け入れて以来、オーストラリアは絶えることなくベトナム難民とその家族を受け入れてきた。1977年にフレーザー政権が難民政策の大綱を発表した。
 フレーザー首相は当初、ベトナム難民を抑制された範囲でしか受け入れてこなかったが、「ボート・ピープル」の出現やASEANの外交圧力によって、消極的な姿勢を一変させた。1983年までにおよそ100万人以上が難民として小船で海に脱出した。漂着したのが、ベトナムの近隣国であるタイ、マレーシア、フィリピン、シンガポール、インドネシアなどASEAN加盟国であった。ほとんど受け入れないオーストラリアを強く非難し、フレーザー政権に受け入れを迫った。ASEAN諸国は、英語もできず教育程度も低い難民を選別し、ボート・ピープルとして組織的に送り込むことを始めた。フレーザー政権がベトナム難民を積極的に受け入れる政策に転じ、年間1万人以上の難民を受け入れた段階で送り出すことを取りやめた。
 現在ベトナム系約27万人を柱に32万人のインドシナ人が暮らす多文化社会は、美しい理念から生まれたのではなく、厳しい現実に直面して紡ぎ出されていった。
 ③アジア系多文化社会の出現
 インドシナ系人口(32万人)の大半は、シドニー、メルボルン、ブリスベンなど都市郊外に居住し、大きな地域社会を形成してきた。゜
 都市近郊の選挙区では、インドシナ系有権者の投票行動が、選挙結果を左右するようになり、労働党候補者にとっては無視できない存在となった。
 3.開花  ベンチャー型中企業国家の誕生
 1983年から13年間にわたって労働党が長期政権を築き、黄金時代を出現させた。19世紀から白豪政策を最も協力に推進してきた労働党が、アジアとの一体化を政策目標にするなど、ベンチャー型中企業国家、多文化主義を信奉するミドルパワー国家を誕生させた。ミドルパワー外交を進める上で、良好な対米関係を維持することは重要であった。
 ①アジア系移民社会を大きくする
 ミドルパワー外交の立役者は、ホーク首相とエバンス外相。多国間外交の正否は第一に構想力であり、第2に体力勝負である。
 ②東南アジアの豪州イメージ
 自由党のハワード首相は、1999年9月22日号のインタビューで、アメリカが「世界の警察官」として君臨する中で、オーストラリアは周辺地域の安全保障に限定して、「世界の副警察官」として一定の役割を果たすと述べた。
 h.21世紀のオーストラリアの立ち位置 米中新時代の狭間で
 順風満帆に思えた21世紀の明るい将来像は、突如として修正を迫られる。2001年9月の米同時多発テロ、さらに多数の難民船がオーストラリア沿岸に押し寄せたことなどによって、状況が一変した。また、大国化する中国が力を背景とした現状変更を試みるようになり、オーストラリアが尊重してきたリベラルな国際秩序が脅かされる事態も生じるようになった。
 米中2大国が激しく対立するなか、英米と協調する道を進むのか、アジア・南太平洋諸国との関係を重視するのか、オーストラリアの立ち位置をどのように定めるか。
 1.ハワード保守系連立政権
 ハワードは、2011年9月11日の米同時多発テロ事件を現地で体験した唯一人の外国首脳となった。彼は帰国直前、「オーストラリアは、今後アメリカがとりうる行動に対して、要請を受ければあらゆる支援をする」と記者団に表明。後日、豪連邦会議でAUKUS条約を発動しアメリカの「国際テロとの戦い」を支援することの重要性を説いた。「第2次世界大戦という暗黒時代に、アメリカは我々を助けてくれたではないか。豪米領国は同志かつ友人であり、民主主義、自由、友愛、正義への信念という固い絆で結ばれているではないか、オーストラリアは今まさにAUKUS条約を適用し、アメリカと共に戦う時がきた」と訴えた。テロ戦争へ派兵、「西洋的価値観」の表明。
 ①対中協調と対米同盟は両立する  バランス外交のはじまり
 対米同盟を最重要視し、忠実な同盟パートナーを演じるからこそ、オーストラリアはアメリカの機嫌を損ねることなく中国という巨大市場から恩恵を受けることができる。確固たる対米協調姿勢こそが、対中関係進展に対するアメリカからの「政治的な免責」を与えてくれていた。言い替えれば、対米同盟関係が揺らげば、オーストラリアの対中姿勢も転換を余儀なくされる。
 ②「米中いずれかを選ぶ必要はない」
 ハワード政権の米中両国へのスタンスを象徴する出来事。2003年10月連邦議会議事堂で、23日にブッシュ米大統領、翌日に胡錦涛中国国家主席が立て続けに演説を行った。少なくとも外形的には中国とアメリカを同等に処遇したことは、「我々は米中いずれかを選ぶ必要はない」というメッセージとなった。
 ③ハワードの対中リアリズム
 ハワード政権は双方に考え方や価値観の相違が存在していることを受け入れた上で、貿易など利益が共有できる分野に焦点を当てて関係構築を目指した。現実主義的なアプローチの土台には、中国は経済成長のために、安定的で平和な国際環境を望んでおり、アメリカを中心の世界システムに組み込まれて行くであろうとの対中関係に対する楽観論が政権内にあった。
 2.ラッド・ギラード労働党政権
 2007年11月の連邦議会選挙で野党労働党が勝利し、約11年ぶりに労働党が政権に復帰。しかし、国民の期待に反して迷走することになる。
 ①ラッド労働党政権
   .楽観的な対中認識
 ラッドは「親中派」と見られていた。ラッドが政権についた2007年は、財とサービスを含めた貿易総額で中国が初めて日本を抜いて首位となった年。経済的実利を超えて、楽観的な対中認識が色濃く反映していた。
    .対中警戒の兆し
 ラッドの対中姿勢は、中国への警戒を強めていた日本との関係をギクシャクさせた。スミス豪外相は2008年2月に豪中戦略対話の場で、中国政府の懸念を認め、安倍晋三首相の提唱する日米豪印の4ヵ国戦略対話(QUAD)の枠組みから撤退する考えを表明。
 ところが、ラッドの楽観的見方は次第に薄れ、中国に対して警戒感を抱くようになっていく。中国大国化への懸念は、アメリカの相対的なパワー低下への不安感と表裏の関係にある。
 米軍のプレゼンス低下によるアジア地域のパワーバランスの変化は、中国大国化に対する楽観的見方の土台を崩すものであり、ラッドが対中姿勢を転換した要因の一つと言える。軍事力の強化は、中国の軍備増強や海洋進出に備えた動きであると同時に、アメリカのアジアにおける軍事プレゼンスの低下に備えるものであった。
 ②ギラード労働党政権
 労働党内でラッドを追い落として首相の座に就いたギラードは、バラク・オバマ政権の「リバランス(アジア回帰)政策」のもとで対米同盟強化を図り、他方で豪中間系を「戦略的パートナーシップ」へと格上げすることに成功した。
  ・対中バランスに成果あり
 ギラードはダーウィンでの米海兵隊ローテーション駐留を受け入れるなどして、オバマ政権の「リバランス政策」を積極的に支持し、対米同盟関係の強化を図った。同時に対中関係では豪中間に存在する価値観の相違を棚上げにし、経済分野の相互利益を協調して、ラッド政権下で冷え切った豪中関係の改善を目指した。
 中国はギラード政権の「リバランス政策」支持の姿勢を批判したものの、中国にとっても貿易や投資の分野におけるオーストラリアの重要度は高く、ギラード政権の動きを歓迎し、豪中戦略対話に合意した。
 3.自由党のアボット政権、ターンブル政権
 ①アボット政権
 2014年11月、アボット首相は、メルケル独首相との会話の中で、オーストラリアの対中政策は「恐怖と欲望」に支配されていると発言した。オーストラリアの複雑な対中感情と利害関係を示している。中国は、決して生やさしい相手ではなく、いつの時代も手強い存在だった。
 連邦政府は中国に対して厳しい味方をする傾向にあるが、州政府は中国に対して好意的・融和的であると言える。
 ・対中摩擦の時代に突入
 オーストラリアの対中関係の潮目が変わったのは2016年から17年。きっかけは南シナ海での中国の行動。国際仲裁裁判所が2016年7月、南シナ海問題における中国の主張と行動は国際法に違反するとの判断を下すと、中国は判決の受け入れを一切拒否した。ビショップ外相は、「東アジアでは、国際法を遵守することが平和、安定、繁栄の基礎であり続けてきた」と声明を発表した。
 ・日豪関係の拡大はヘッジ一つ
 日豪関係が、対中関係のもつ「恐怖」へのヘッジの一つとしてアボット政権には重要であった。アボット首相は政権発足直後に発表した外交に関する政策ビジョンで、日本を「1950年代からアジアにおける最も誠実な友人であり、民主主義の重要なパートナー」と呼んでいた。アボット政権は日豪経済連携協定(EPA)の早期妥結と、日豪戦略的パートナーシップの強化を掲げていた。2014年4月に大筋で合意した。7月には安倍首相が訪豪し、日豪関係を「特別な戦略的パートナーシップ」に格上げし、両国は「防衛装備品・技術移転協定」に署名した。
 ②ターンブル政権
 ・対中警戒論へ舵を切る
 中国による豪内政への干渉疑惑が次々と報じられる。中国に対してより厳しい姿勢で臨むスタンスへと傾斜していった。
 豪在住の中国人実業家が政治献金を通じて与野党の政治家に接近し、中国に有利な世論を誘導し、豪政府の政策変更を促そうとしていることが明らかになった。これまで外国人による政治献金が禁じられていなかった。
 ターンブル政権は2018年、外国による内政干渉を阻止するための一連の法律を成立させ、国家安全保障ならびに内政干渉に関する大幅な法改正を進めた。公職経験者が海外の団体に雇用された場合に公表を義務づける「外国影響力透明化法」(18年6月成立)を皮切りに、外国政府によるスパイ行為、破壊工作、産業スパイ行為などを対象とする新たな罰則を定めた「改正国家安全保障法」(18年6月成立)、外国人や外国企業・団体の政治献金を禁止する「改正選挙法」(18年11月成立)などである。
 ・対米同盟への不安 「プランB」の発動
 相手国が同盟国であろうと自国の利益や主張を最優先で考える、2017年1月のトランプ米政権の誕生によって、オーストラリアが有事に「見捨てられる」可能性が高まることが心配された。対米同盟関係を前提とした戦後安全保障に代わる構想「プランB」が、安全保障の専門家の間で議論されるようになる。アメリカに依存した安全保障戦略を再考すべき時がいよいよやってきたという共通認識がある。近年のオーストラリアの軍事力増強路線は、将来への備えを感じさせる。
 「プランB」とは、豪米同盟が機能停止に陥ったり、もしくはアメリカがインド太平洋地域への軍事的関与を放棄するような事態に備えた計画を意味する。
 4.自由党のモリソン政権
 ①史上最悪の豪中関係
 2020年4月のモリソン首相による新型コロナウイルスの感染源調査についての提案に、中国は反発すると共に、オーストラリアの対中輸出品目に対する貿易規制措置を次々にとり、圧力をかけてきた。これに対してオーストラリアは、ひるむことなく態度を硬化させ、モリソン首相は「我々の民主主義的制度と国家主権を貿易のために譲歩することはしない」と反発した。
 また、モリソン政権は中国への経済依存を軽減するべく、中国に代わる市場を模索し始めた。中国は豪政府への苦情をまとめたリスト「14項目の不満」を豪メディアに渡した。そこには中国系企業の対豪投資計画への妨害行為などがあった。
 ②オーストラリアによる反撃
 すべての投資案件は、国益と安全保障の観点から審査され、連邦政府が認めるかどうかを精査することになった。しかも一度承認された案件でも安保情のリスクが浮上すれば政府が売却処分を命じることも可能となった。新型コロナウイルス感染症の拡大によって業績が悪化した豪企業が、中国資本によって買い漁られることを防ぐことが目的であった。
 2020年末に連邦議会で可決された「オーストラリア外国関連法」は、外国政府と州や特別地域政府を含めた国内公的機関(自治体や大学を含む)が締結した合意を、連邦政府が見直すことができる法律。姉妹都市関係の締結から、あらゆる覚書に及び、大学などの機関にも適用される。モリソン首相は、ビクトリア州政府と中国が結んだ中国の広域経済圏構想「一帯一路」に関する合意を念頭に置いた。
 しかし、これには大きなリスクが伴う。中央政府どうしが対立していても、民間やローカルな次元での友好関係があれば、それが国家関係を支える役割を果たす。多元的な結び付きがあるからこそ、国家間関係の分断や対立を防ぐことができる。
 ③「オーカス」の誕生
 2021年9月、オーストラリア、アメリカ、イギリスの3ヵ国が安全保障及び防衛関連の科学技術・産業基盤・サブライチェーンのより深い統合を促進することを目的に、新しいパートナーシップ「オーカス」を突如として発表した。この最初の試みがオーストラリアの原子力推進型潜水艦の共同開発。
 原潜を保有する国は現在6ヵ国で、アメリカ、イギリス、ロシア、フランス、中国、インド。実現すればオーストラリアは7番目の国家となる。
 インド太平洋の安全保障環境の変化によって、オーストラリアは原潜導入を決断した。オーストラリアは原潜を通じて自らの軍事力を強化することで、アメリカの軍事関与を補完し、さらには豪米同盟が機能しない場合にも備えようとしていた。
 反核意識の強いオーストラリア世論が政府の源泉導入計画を支持したのも、オーストラリアがフランスとの通常型潜水艦契約を破棄してまで源泉導入を決断したのも、原潜技術の他国への供与に極めて慎重だったアメリカが豪への協力を決断したのも、中国の台頭によって促された。
 オーストラリアは、これまでアメリカと中国の間でバランス外交を展開しようとしてきた。ところが、中国との関係は1970年代の国交回復以来、最悪の状態に陥っている。他方で対米同盟の将来に関する不確実性も高まる中で、オーストラリアが最終的に選択した道が米英両国との3ヵ国協力、すなわちオーカスであった。21世紀のオーストラリア外交を振り返る時に、オーカスが1つの転換点であったと評価されるだろう。
 ④ウクライナ戦争
 2022年2月に始まったロシアによるウクライナ侵攻を受け、西側諸国は対ロ非難の声をあげ、ウクライナを経済面、軍事面で支援している。
 多文化国家オーストラリアは、国内のウクライナ系住民、さらにはロシア系住民に配慮している。戦争が勃発した後の最初の日曜日に、モリソン首相は夫人と共に、ジドニーのウクライナ系住民が多く住む地区にあるカトリック教会へ赴いている。オーストラリアには現在、約3万8000人のウクライナ人コミュニティがあり、メルボルンとシドニーで生活している。そして、モリソンはロシア系コミュニティにも、「ウクライナ系であれロシア系であれ、我々は皆オーストラリア人であり、彼らのオーストラリアへの貢献に感謝し、オーストラリア人として彼らと共に歩んでいきたい」と言葉を向けた。

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