のぼるくんの世界

のぼる君の歯科知識

食はイスタンブルにあり

2023年10月20日(金)


君府名物考
著者 鈴木薫
講談社文庫
2020年9月9日発行
1000円
 長らく品切れになっていた初版(1995年NTT出版から刊行された本書の原本)を学術文庫として刊行。本書は、イスタンブルの食の世界の文化史というべきもの。副題の「君府」はイスタンブルの漢名。「名物考」は、中国文学史の青木正児先生の名著「中華名物考」をならったもの。
 イスタンブル食文化史、食文化論は、本書の初版刊行から四半世紀が経った現在もトルコ本国でも欧米でも見る機会がない。本書のめざすところは、1453年以来、「君府」を帝都としたオスマン帝国の歴史的発展の過程を踏まえながら、帝都イスタンブルの食の世界の展開を垣間見ることにある。トルコの食品の豊かさとトルコ料理の名物珍味の数々を紹介していく。
 トルコ大周遊15日間
kojima-dental-office.net/blog/20231207-17636
A.君府・イスタンブルという街
 紀元前7世紀の頃、ギリシャ人によって植民地として初めて創設されたビザンチィオンと名付けられたこの街は、その後2千有余年にわたる歴史の中で、ビザンチィオンからコンスタンティノポリス、そしてイスタンブルと3つの名前を得ると共に、ローマ帝国、ビザンツ帝国、オスマン帝国と、3つの世界帝国の帝都として栄華を誇った。
 1.文明と宗教の交点
 地理的にアジアとヨーロッパの接点に位置するのみならず、文化的にも東洋と西洋、キリスト教世界とイスラム世界の交点となり、独特の景観と雰囲気を創り出してきた。
 2.東西の物産の出会うところ
 15世紀中葉、かつてのローマの帝都、ビザンツ1000年の都は、イスラム教徒のトルコ人の立てた国家たるオスマン帝国の帝都と化し、東西交易の中心として大いに栄え、この街の食文化、中央アジアの遊牧騎馬民族を偲ばせる野趣を称えたケバブ料理の数々に多彩さをもたらした。海上の路、紅海ルートから、東南アジアやインドの胡椒、生姜、様々な香料をもたらし、食前に香気を添えた。また、宋の青磁、元の染付、明の赤絵と、洗練の粋を尽くした中国の陶磁器が、西方の異国情緒に満ちたヴェネツィアン・グラスの杯がもたらされた。
B.トルコの歴史
 1.トルコ民族の源流
 トルコ共和国を担うトルコ人の源流は、遙か東北方の中央アジア中核部にあるトルキスタン(ペルシャ語で『トルコ人の地』の意)を故郷とする遊牧民族である。原初、シャーマニズムを奉じ、精強な遊牧騎馬民族として活躍し、中国辺境を脅かし、広大な突厥帝国を築き、またウイグル王国を建て、一部は仏教に帰依しさえした。
 2.イスラム世界の諸王朝の君主直属の奴隷軍人
 7世紀初頭に遠くアラビア半島の地に興ったイスラムが巻き起こした「アラブの大征服」の波は、遙か東トルキスタンの地にも及び、751年頃から、トルコ民族の故郷トルキスタンの多くはアラブ・ムスリムの支配下に帰し、仏教やマニ教などを奉じたトルコ民族のイスラムへの改宗も徐々に進んでいった。また騎射の術に長け勇猛をもって知られるトルコ人は、イスラム世界の諸王朝の君主直属の奴隷軍人として、常備軍団に好んで迎え入れられた。
 イスラムとは、「唯一神アッラーに帰依すること」を意味し、唯一神に「帰依した者」がムスリム。預言者ムハンマドは、アラビア半島の多くを影響下に収め、その没後、7世紀中葉から8世紀中葉にかけて、イスラム世界の形成と拡大が急速に進み、東はトルキスタンで中国と接し西はモロッコ、イベリアにまで拡がるイスラム世界が成立した。
3.中央アジアからアナトリアへ セルジューク朝
 トルコ人の一派、遊牧民オグズ族は、11世紀前半、中央アジアから大挙南下し、イラン高原を本拠としてセルジューク朝を建て、バグダードにあったアッパース朝のカリフよりスルタンの照合を認められて、堂々たるムスリムの王朝を築いた。
 11世紀後半にはいると、「アラブの大征服」をも退け、1071年にはマンズィケルトの戦いにおいて、東西交易の利を占めて存続してきたビザンツ帝国軍を大破して、アナトリアの地にトルコ系ムスリムが進出する。1096年に始まった西欧からの十字軍の進行にも耐え抜いたセルジューク朝は、アナトリアの征服を着々と進め、トルコ人の定着とイスラム教の普及浸透を確保し、アンカラの南方260キロメートルに位置する古都コンヤを首都として13世紀前半には最盛期を迎えた。
 1243年に侵入したモンゴル軍に敗れて属国と化し、衰退の一途を辿った。
 4.オスマン朝の始祖
 伝説によれば、オスマン朝の始祖は、セルジューク朝と同じく中央アジアの遊牧トルコ民族の名族オグズ族のカユ部族長に遡ると称されるオスマン家の指導者に率いられた騎馬戦士の一団。
 群雄割拠の形勢の中で、13世紀末、イスラム世界の西北の最辺境、アナトリア西北端に現れた、指導者オスマンに率いられた小規模なムスリム・トルコ系の戦士集団こそ、後年のオスマン帝国の前身であった。
 1402年、中央アジアの英雄ティムールとアンカラ近郊で戦って敗れ、オスマン帝国は、分裂と滅亡の危機にさらされる。
 5.オスマン帝国の栄華
 アンカラの敗戦後の危機を辛くも脱し、失地回復に成功したオスマン帝国は、1453年にビザンチン帝国を滅ぼし、ビザンツ帝国千年の帝都コンスタンティノーブルを征服してイスラム教徒のトルコ人の街とし、帝国の基礎を盤石のものとし、新帝都イスタンブルを新たな拠点として、独自の都市文化を育み始めた。
 16世紀に入り、イスタンブルはイスラム世界西半の最大都市へと成長していった。そして、地中海世界のほぼ4分の3を支配下におき、北方は黒海、ロシア、ウクライナ、東方はペルシャ湾、紅海を経て、インド、東南アジアから諸国の物産が集まり、諸文化の成果が流れ込み、その食文化はさらに豊かとなっていった。
 オスマン帝国は、650年近くに亘り栄華を極めた。
 6.オスマン帝国の終焉、トルコ共和国が成立
 1908年の青年トルコ革命とともにオスマン帝国は終わった。第一次大戦で敗戦国となり、崩壊した。1922年にスルタン制を廃止、1923年には、トルコ共和国が成立。首都もアンカラに移した。しかし、470年にわたりオスマン帝国の帝都たり続けたイスタンブル街は、その後も常に最大の人口を擁し、トルコの経済と文化における中心都市の地位を保ち、食文化の世界においても食都たり続けた。
C.食都イスタンブル
 中華料理とも西洋料理とも全く別系統の中東、イスラム世界の独自の料理の伝統を、華やかな形で承け継いだのが、トルコ料理、そして食都イスタンブルである。アラブ、イランの文化も高けれど、やはり料理はトルコ、イスタンブルに限る。オスマン朝の古典的美食家の舌は、遊牧の遺産をはるかに超えて、甚だ洗練された都市文化の所産となっていた。
 1.食都イスタンブルの外食文化の豊かさ
 イスタンブルの街で、中東の他の街々に比し食のうえで顕著なのは、食材と料理の種類の豊富さと、外食文化の甚だ発達していることである。
 今日、イタリア語起源のロカンタ、古くはペルシャ語起源のアシュ・ハネと呼ばれた料理一般を供する料理店は、最上級からごく庶民的なものまで千差万別ながら、その供する料理は、前菜、スープから、煮物、揚げ物、焼き物、ピラフ、デザートに水菓子と、多彩を極める。とりわけ庶民的なロカンタでは、入口に金属製の調理用大円盤(テプシー)を数多く据え下から弱火で温めつつ、顧客は好みに応じ目で見、指で指して料理を選べる。そのさい、種類の多さに目移りするほどである。
 さらに、焼き肉専門店ケバブジュ、肉団子の専門店キョフテジ、羊の胃袋のスープを供するイシュケンベジュなどがある。比較的新しく登場した魚料理店もある。様々の菓子店、甘味飲料店も数多い。
 かような君府イスタンブルの外食文化の華やかさは、都市文化の発達、ひいては、オスマン帝国の帝都として栄えたこの街の歴史に由来する。同時に、外食文化の幅と厚みは、この街におけるトルコ料理の発達洗練により、これも、オスマン文化の発達と密接に関連する。食文化の発達と料理の多様化を支えるのは、食材の豊富さであるが、これまた、君府の位置上の特色と、かつてのオスマン帝国の経済圏、通商圏の拡がりが背景にある。まさに君府イスタンブルが中東、イスラム世界屈指の食都たり得たのは、ビザンツ帝国の首都、そしてオスマン帝国の帝都としての、この街の華麗な歴史に拠るところが大きい。
 2.イラン
 古代オリエント、ペルシャ帝国の遺産をも承け継ぐイランでは、外食文化は誠に振るわず、食しうる目ぼしいものは、ほとんどどこでも、たれ付き焼き肉を刻みピラフにのせ生卵の黄身をあしらったチェロ・カバーブということになる。少なくとも現況では、「食はアラブに在り」とは、言い難い。
 3.エジプト
 カイロ名物鶏の丸焼き、兎肉味のモルヘイヤのスープ、すり潰した豆製のさつま揚げ様の揚げ物等々、名物料理を楽しめるが、なお変化に乏しい。
 4.サウディ・アラビア
 イスラム発祥の地、アラビア半島は、少なくも今日のサウディ・アラビアの伝統的料理は羊肉の煮込みと焼き肉くらいで、種類にも乏しく洗練をみない。
 5.その他
 強いて挙げれば、古代フェニキアの地レバノンの国際情報都市ベイルートが小なりとはいえ、食都として名乗りを上げうる。
 アラブ圏西半のチュニジア、アルジェリアではクスクスが名高いくらいで、モロッコの食の名声を聴くにとどまる。
D.富者の食卓と貧者の食卓
 1.貧者の給食
 遙か昔の貧者の食卓を再現するのは、なかなか困難である。後代の史家がよりどころとする資料は、王侯将相の事跡に関する文書がほとんど。貧者たちの恵まれた給食については、いささかの資料が残されている。
 ①ワクフと呼ばれる制度
 いにしえの君府の貧者への給食を支えたのは、ワクフと呼ばれる制度であった。ムスリムは、他人に恵みを与えることを、神への祈りにも通ずる行為として、これを好む。各々の分に応じた慈善行為に励むものも少なくなかった。
 あるムスリムが、ある財物を取り分け所有権を神に委ね、収益を敬神につながる公共の福祉に関わる施設や事業に当てる時、その財産は「ワクフ財産」となり一つのワクフが成立する。
 給食施設イマーレットの本務は、宗教的慈善行為の一環として、貧者に無料で食を恵むこと。ワクフには、業務内容と基本財産を明らかとする定款があり、救貧給食施設についても、事細かに規定され、職員も、日々の献立も、その際に使用すべき食材の種類と量までが定められていた。
 ②イマーレットの献立
 主食のパン(ナン)は、ライ麦などの黒パンなどは供さず、上質の小麦粉の白パンを日々供する定めであった。副食としては、米スープや麦スープに用いられる米や麦の量が、規定で定められていた。さらに、タンパク質を多く含み滋養のある、万能食材であるひよこ豆も日々用いられることになっていた。さらに加えて、遊牧民でさえなかなか飽食し得ぬ貴重な食材であり、かつトルコ人最大の好物である羊肉さえ、調理のうえ供されることになっていた。また、アーモンドと干葡萄と杏を十分用いるべしともある。
 以上は平日の献立であるが、さらに加うるに、「はれ」の日の特別メニューとしては、更なる馳走も用意される定めであった。ムスリムの共同礼拝日である金曜日の夜には、ピラフとサフランで黄色に色づけした米の甘煮であるゼルデと、クミンで香りをつけた羊肉の煮込みであるジルバッジュが供される定めだった。蜂蜜とジャスミンも与えられるべしとされている。ここまでくると、救貧給食施設がいかによく配慮された施設であったかが分かり、貧者の献立も捨てた物ではなかったと言える。
 2.富者の食卓
 ①スルタン、プカプ宮殿の食費の巨大さ
 支配の組織が整然として官僚が取り仕切るお国柄であったため、宮廷の台所の会計簿が、今に伝えられている。財政用語へのペルシア語の影響の強さがうかがえる。
 スルタンの台所の年間費用は、国庫中央の支出総額の2.04%に達する。1500坪の台所で260余名のコックが、年に600万円予算で贅を尽くしたトプカプ宮殿の献立。料理一般を作るコックと特定の品目を専門とする様々なコックたちがいた。
 美味を生み美味を解する者を育むには、贅沢は欠かせぬものであるし、その結果、オスマン帝国消滅後、時久しくしてなお中東髄一の食都として君府の名を高らしめている。今日の食都イスタンブルの食の多様性と洗練は、かつての君府の宮廷の食の世界の豪奢と洗練を経て、初めて成り立ち得た。
 ②青磁の輝きと大鍋と
 遠く中華の地から君府にもたらされた陶磁器は、壊れ物ゆえ持ち運びが難しく、金器銀器よりも高価な貴重品だった。しかし、オスマン宮殿では高価な陶磁器が惜しげもなく用いられていた。スルタンの台所で我々の目を惹くのは、優美繊細な陶磁器群と、無骨極まる巨大な鉄製や銅製の鍋類を始めとする料理道具の数々である。
 3.宮廷の食と庶民の口の出会うところ
 華麗な宮廷の美食の世界と、素朴なる食生活に甘んずる庶民の世界は、いくつかの点で交錯した。
 ①直接の交錯点は、スルタンの催す祝祭
 イスラム世界の君主は、寛大さと気前よさを示すことを期待された。「帝王の祝祭」における、上下を問わぬ臣民へのスルタンの食の大盤振る舞いは、宮廷の食と庶民の口が直接、交錯することになる。また、宮廷の製法が伝えられた。
 ②婚礼の祝宴から割礼の祝宴へ
 エジプト、シリアを征服後、オスマン朝の君主は、専ら後宮に入った異民族出身の奴隷女たちから妃を選び、イスラム法上の妻とする方式をとらなくなった。こうなると、婚礼に変わって重要化したのは、イスラムの聖法に基づくムスリムの義務たる割礼の祝宴であった。
 ③庶民の間で生まれた美味が、宮廷へ
 16世紀のトブカプ宮殿は、医食同源的思想を持つイスラム医学に基づく健康献立であった。献立表には、甘味類はあまり載っていない。庶民の間で生まれた美味が、宮廷へと入ることもあった。最も顕著な例は、イスタンブルきっての老舗菓子店、トルコ求肥というべきロクムの専門店であるハジュ・ベキル。
 食都イスタンブルの食の世界は、宮廷の洗練と街の繁栄の相関作用の中で、育まれてきた。
E.イスタンブルの食文化
 1.トルコ料理はアラブ料理の影響下にある
 イスタンブルの食文化は、平たい円形のパンをイタリアのピッツァの語源でもあるギリシャ語のピタに由来するピデの名をもって呼ぶなど、ギリシャ語起源の語を当てるビザンツの食の伝統も残してはいるが、何よりも、イスラム世界、中央アジア以来のトルコ民族色の食の伝統の強い影響の下におかれた。今日、トルコ料理には、アラブ圏のシリアやレバノンなどの料理と類似のものの多い一因はここにある。
 料理名についてみても、典型的トルコ料理として知られる羊の串焼きシシュ・ケバブ。焼き肉料理ケバブの名も、アラビア語で「ひっくり返す、団子に丸める」を意味する動詞カッパの派生語にして「焼き肉、茹で肉、肉団子」の意の語カバーブに由来する。ケバブの語は、元来はアラビア語起源ではあるが、トルコ語でも古くより用いられ、15世紀末の「オスマン家の歴史」にも、焼き肉としてケバブの語が見える。シシュの語は、本来トルコ語で、「串」あるいは「小剣」を意味し、中央アジアに遡る遊牧トルコ民族の伝統に連なる。本邦ではギリシャ料理と知られるムサカも、トルコ料理であるが、アラビア語で「水を与える」ことを意味する動詞サカーに由来する。
 2.イスラム教の戒律
 イスラム国家オスマン帝国は歴史上の存在と化し、世俗国家トルコ共和国となった今日も、ムスリムのトルコ人は、さほど信心深いとも言えぬ者でさえ、豚肉は食物外の異物のように感じられて食し得ぬ人が圧倒的に多い。このことは、イスラムの戒律が、いかにトルコ、イスタンブルの食生活に深い影響を与えたかを示すに足りる。
 イスラム世界では、犬が豚と同様の不浄の生き物として嫌われるのに対し、猫は、預言者ムハンマド様も愛された動物だとして大切にされる。君府の猫の餌といえば、肝と相場が決まっていた。
 イスラム教の戒律、聖法シャリーアに、食についても多くの規定がある。
  ①禁酒の戒律
   少なくとも表向きは励行され、オスマン帝国下のイスタンブルでも変わらなかった。
  ②豚肉を食することの禁止
   イスタンブルのムスリムは、酒にも益して、豚肉は食卓から放逐。
   ユダヤ教徒も豚を食せず、キリスト教徒の食膳にのみ残る。
 3.イスラム世界の食の作法
 アラブ・ムスリム文化に端を発するイスラム文化の影響は、食物飲料を取る際の食の作法においても顕著である。イスラムの戒律においては、左手は不浄の手であり食事は原則として右手のみでとった。しかも、箸はもとより存在せず、ナイフやフォークも用いず、手づかみで食するのが作法であった。右手の親指、人差し指、中指の3本の指の指先で軽くつまんで食するのが好ましく、我々が思い浮かべるような不作法さからほど遠く、なかなかに優雅繊細な食べ方。この食の作法は、トルコ人も受容し、オスマンの帝都イスタンブルのテーブルマナーも、専ら手づかみで食することを前提としていた。それゆえ、料理は、指で食しやすい大きさに予め切り揃えた材料で調理されるか、あるいは指でちぎり取るに十分な程に軟らかく製されていた。ただ汁物だけは、パンにしみ込ませて食するか、あるいは匙を用いた。
 手で食する作法ゆえ、食事の前後には、金属製の手洗い鉢がもたらされ、麝香の香りの石鹸を用いつつ水差しで注がれる水を受けて、手洗い鉢上で指を清める。
 料理のしつらえ方も、大皿や大鉢で食卓に供され、これを居並ぶ人々が右手で直接、器から分かち食した。普通、床にシニと呼ばれる食卓用の大円版を台座上に据え、その周りに車座に着座して食する作法であった。大御馳走の時は、しばしば直接に床に絨毯を拡げて、その上に大皿大鉢を並べ立て、宴席の主客は食卓に見立てた絨毯の四周に居並び、食事をとった。
 4.軍事的落日と文化的光輝と
 オスマン帝国の外交的政治的後退は、必ずしも、オスマン帝国の文化、とりわけ君府の都市文化の後退をもたらしたわけではなく、かえつて、古典的なオスマン都市文化の洗練をもたらした。
 16世紀末から18世紀初頭にかけて、東隣のイランでは改革が進行し、西隣では、ハプスブルグ帝国を始め西欧勢力が徐々に新発展を遂げ、18世紀にはいると新たに急速に台頭したロシアの北方からの脅威にもさらされる中で、外にオスマン帝国の領域拡大が停滞し始め、内に旧秩序が大きく変化し、中央でも政治に混乱が生じ、地方でも内乱、混乱が相次ぎ始めた時代でも、華やかな祝宴の宴は、君府の上下の人々の目と舌を楽しませた。
 ①異国趣味から「西洋化」へ
 時代が移れば、好みもまた変わる。18世紀に始まった「西洋化」の改革の進展は、当初、文化の面においては、「異国趣味」を超えるほどの影響を与えることなく、オスマン文化の枠内で洗練と成熟を遂げていった。
 18世紀初め、君府における伝統的オスマン文化が最も華やかに開花した「チューリップ時代」において、ムスリム・トルコ文化の洗練と爛熟に加えて、異教の西洋文化が入り込み始め、エキゾチックな華やぎを添えるに至っていた。
 君府の人々の食生活の基本は、純粋トルコ料理だった。食卓のしつらえ方と食器が徐々に「洋」風となり、さらに、食の内容も「洋」風が浸透し始めた。
 ②技術の「近代化」
 急速に新技術を発展させつつあった近代西欧の影響は、食の世界にも浸透しつつあった。たとえば、菓子の世界。18世紀末から19世紀初頭にかけて、西欧の近代技術によって、良質で安価な澱粉を作ることが可能となった。ロウムの素材が、小麦粉から澱粉へと代わり、ずっと軽快なものと化した。また、甘味料についても、砂糖が高価なため蜂蜜を用いていたが、甜菜糖を製造する技術が発明され、安価な砂糖によって、ロウムは遙かに甘く軽い菓子となった。
F.遊牧の遺産
 遊牧民にとり、家畜は全生活の源泉であり、最も貴重な財産である。それ故、家畜から得た乳を利用するのが生活の基本であった。肉そのものは、特別の御馳走を必要とする折に口にしうるものであった。遊牧民は、狩猟民とは異なり、常日頃、肉を飽食するような生活を送っていたわけではない。
 1.ヨーグルトとチーズ
 トルコ人の食生活の主軸は畜産物。食文化は乳製品と肉。肉は、財産たる家畜を食い潰さねば得られぬ食材なれば高価で貴重であり余裕のある者のみが日常的に食し得るのにとどまったのに対し、乳製品は一般庶民にとっても必須の日常の食品であった。
 トルコ人は、乳をそのまま飲むことはあまりしない。むしろ、加工し、チーズ、バター、カイマク(一種の生クリーム)等を製してこれを用いることが多い。牛乳のみならず、羊や山羊の乳も多用される。
 トルコ人の生活に最もなじみ深いのは、ヨーグルトとチーズである。トルコ人にとってヨーグルトは調味料、さらにチーズやバターを作る原料ともなる。チーズはヨーグルトより高いものの、バターよりはずっと安い生活必需品であった。
 今日のトルコ人がベヤズ・ペイニル(白チーズ)と呼ぶ、木綿漉し豆腐様の塩辛く酸っぱいチーズは、古漬の黒い塩漬オリーヴ(ゼイチン)とともに、トルコ人の朝食には欠かせない品。
 本邦で西欧経由で受容し用いているヨーグルトの語は、トルコ語の「ヨウルト」に由来する。
 2.バター
 バターは、トルコ語でテレヤーと呼ばれる。パンに塗って食することは少なく、むしろ主として調理に用いられる。オリーヴ油は野菜の冷菜に用いられ、暖かい野菜料理、肉料理にはむしろ動物性油が用いられることが多い。
 3.イスラムの「正月」、犠牲際
 最大の祝祭は、犠牲祭。イスラム歴の第12月、善きムスリムにとって財力と健康が許せば一生に一度は果たすべき聖なる宗教的義務であるメッカ巡礼を行う月、巡礼月。イスラムの戒律で定められた巡礼は、巡礼月の7日から13日までの定められた期間に戒律にのっとり行う。巡礼月の10日には、メッカ巡礼者は生地で動物を犠牲に捧げる。巡礼に赴き得ない全世界のムスリムたちも、この日に犠牲を捧げる。巡礼月の10日から13日までの4日間は犠牲祭で、ムスリムの年中行事中、最大のもの。
 分に応じて犠牲を捧げることは、貧者といえども切なる望みである。
 往事は、平時は生きた羊を市中で買うことが禁じられていた君府でも、犠牲祭の時には無数の生きた羊が連れて来られた。今も、君府の人々は、犠牲の羊を食する時は、羊の細片の炒め物たるカヴルマの形で食することが多い。
 犠牲祭の時に羊が入手できないような事態が生ずれば、我々でいえば正月に餅がないようなことになる。オスマン帝国の当局にとっても、食肉を確保することは重大極まる責務であった。
 4.イェニチェリ
  イスラム世界の辺境の戦士集団から興って大帝国を築いていく際に、騎兵として精強ながら自立の精神にあふれ扱いにくい原初以来のムスリム・トルコ系の戦士に対抗して、新たに君主直属の常備歩兵軍団、イェニチェリを養成した。帝国領土内の異教徒の異民族出身者、キリスト教徒臣民の子弟から身体強健、資質優秀そうな10代の少年を強制的に徴収してスルタンの奴隷としたうえでイスラムに改宗させ、トルコ語を教え、特殊訓練を施して精強な要員とした。火砲を巧妙に操る、オスマン帝国の最精鋭部隊のイェニチェリの俸給は、年に4回、3ヶ月分を俸給日にまとめて支払われることになっていた。
 ①肉の広場
 オスマン当局がとりわけ気を遣っていたのは、イェニチェリ軍団の兵士たちへの肉の供給であった。イェニチェリに一般公定価格がいくらになろうと、特別価格で羊肉を供給した。時価との差額を政府が公費で補助した。その額は、当時の国庫総支出の約1.3%に達し、羊肉大もばかにはならない。
 ②大鍋を覆す、服従の象徴としてのスープ
 宮廷の台所の本務は、宮廷内に働く人々に食を供することであったが、外来者に振る舞われる食事を製することも重要な任務だった。そのうち、量のうえで最大の仕事の一つは、俸給を受け取りに宮廷にやってくるイェニチェリたちに、恒例のスープとピラフを振る舞うことであった。このスープの振る舞いは、帝国の国政に関わる一大事でもあった。
 イスラムの暦は、純粋の太陰暦であるため、太陽暦よりも1年が11日短い。このため、支払われる年4回の俸給支払日が、太陽暦の1年の間に5回来る年が巡ってくる。ところが、俸給の財源である租税の方は、農産物への課税に頼るところが大きいから、太陽暦ペースで取り立てる他ない。そこで何年かに1回、1年に5回分の俸給を支払わなければならない年が巡ってくることになり、これを「消え去り年」と呼んだ。この時に俸給支払いに齟齬を生ずることが多く、イェニチェリの騒乱や政変が起こることが多かった。
 16世紀初頭で1万人近く、後半には2万人を遙かに超えるに至り、戦場では不可欠ながら、政治にも口をさしはさみ、スルタンにもなかなか気の置ける存在となっていった。イェニチェリたちは、不満を抱くと、俸給支払日に振る舞われるスープを拒否した。食事が足りないと、スープを作るための大鍋を覆し、暴動を起こした。今でも、トルコ語で「大鍋を覆す」といえば反乱を起こすことを指す。
 事態がそこまでいかなくとも、俸給支払いの日のスープをイェニチェリたちが飲むのを拒むとなれば、帝都の騒擾につながりかねず、下手をすれば当面の政権の担当者たる大宰相の首が文字通り飛んでしまう。
G.トルコ料理の名物
 1.ケバブなるもの
 羊肉のケバブにも、焼き肉型と、蒸し焼き型と、そして水を加えぬ煮込み型の3種類がある。
 焼き肉型のケバブの多くは、家庭で作るよりは専門の焼き肉屋で食することが多い。庶民が、毎日のように気軽に行って食するようなものではなく、いささか奮発して食する御馳走に類する。
 ①シシュ・ケバブ(角切り羊肉の串焼き)
 クシュ・ハシュ、賽の目切り(肉片)のケバブ。胡桃大に切った羊肉ないし子羊肉を塩胡椒した上で、玉葱のおろしたものに漬け込み、これを串に刺して中火で焼く。この変種の「マフザル・ケバブ」は、同じ下ごしらえの肉片を羊の網脂で包んだうえで焼く。今日の市中の焼き肉屋では、見ることができない、手の込んだ逸品。
 リンゴ大に切った羊肉に塩胡椒と潰した玉葱をまぶし少し押しをして慣らした後、串に刺し、紙に包み弱火で焼く、今日の「紙焼きケバブ(キャート・ケバブ)」の一種。
 一旦、下ごしらえして乳でさっと煮た羊肉の角切りを串に刺して、温めた乳に浸し焼き上げる「乳ケバブ(スト・ケバブ)」。
 ②シシュ・キョフテ(串焼き肉団子)
 羊の挽肉に、塩胡椒、玉葱をすり下ろした汁、刻みパセリ等の策定加えて練り上げ、これを竹輪状に巻き付けて炭火で焼いたシシュ・キョフテ(串焼き肉団子)。人手が加わっているためか、1割以上高い。
 ③ドネル・ケバブ(回転ケバブ)
  さほど古くからあったものではない。イスタンブルの名物とは言えない。
 2.肉製品
 遊牧の世界に源を発するトルコ人は、古くより何種類かの肉の加工保存食と親しんできた。その一つは、トルコ式ウインナーソーセージと言うべきスクチュ。今ひとつ、本命の加工肉製品、パストゥルマ。我が国ではイタリア名のパストゥラミとして知られるニンニクを利かせた肉の燻製は、古くよりトルコ人に知られ、その名もトルコ語のパストゥルマ(押さえつけるの意)に由来する。
 ハム、ベーコン、ソーセージは、トルコにもずっと後代に「洋風」食物として入ってきた。ムスリムにとっては、その場合も豚は素材として禁物である。
 3.ドルマ
 温菜としてのドルマの代表格は、ピーマンとトマト、それに次ぐのがズッキーニ、そして葡萄の葉。中に羊の挽肉と刻み玉葱と米を詰め、塩胡椒味でひたひたの水で煮るのが普通。
 4.トルコ式茄子の天麩羅
 小麦粉やそれを卵で溶いたものにつけてオリーヴ油で揚げ焼きしたものが、われわれの天麩羅に最も近い。小麦粉をつけた茄子は、精進揚げに近いが、レモンを搾るかヨーグルトで食するところがわが天麩羅と全く異なる。
 5.ピラフのいろいろ
 オスマン朝の人々にとって、ピラフは主食ではなく、副食。
18世紀の「料理小冊」にも4項目、5種のピラフが載っている。
 6.果物の甘煮
 18世紀では、果物の砂糖煮はすべて、洋風の影響下にコンポストと称されるに至ったものも、ホシャプの名の下に扱われている。実際には、生の果物、ないしは干果物に砂糖と水を加えて煮て冷ましたもの。今日のトルコの食の世界では、果物の砂糖煮には、コンポストとホシャプなる2種があり、その両者ともバターの利いたピラフと一緒に食することが多い。これに慣れると、なかなか旨い。脂っぽいトルコ料理の後で、冷たく甘酸っぱく、季節の果物の風味のするホシャブ、今日ならコンポストは、邦人にも心地好い食後の甘味と言えよう。
 7.「心地好い水」シャーベットならぬシェルベット
 アラビア語のシャルバ、トルコ語のシェルベットは、冷たいシロップ水を意味する。イスラムの戒律上、少なくとも公式には酒をたしなまぬイスラム圏では、食事に際しても、酒に代えて、さまざまの香料や果物のシロップに甘味料で甘味をつけたシロップ水を供した。
 8.珈琲と茶と
 極く細かく挽いた珈琲粉に砂糖と水を直接加え、長い手つきの小さなコーヒー沸かしで沸かし、小カップで供されるコッテリとした珈琲は、トルコ名物となっている。珈琲が君府に入ったのは、意外に新しい。
 エチオピア原産といわれる珈琲がエジプトに入ったのが15世紀頃。カフェインを含み興奮を誘うこの新たな飲み物をめぐり、カイロではイスラムの戒律上、酒に準じて禁ずるべきか、許容すべきかについて、戒律、法学上の論争がまもなく起こり、1世紀以上に渡り続いた。
 16世紀前半の末に、エジプト、シリアがオスマン領となり、珈琲が君府に入った。17世紀後半には、珈琲店は君府にも確たる地歩を固めた。以後、訪問客には珈琲を供するのが通例となり、食後、締めくくりとして欠かせぬ飲料となっていった。茶の飲用の習いは、珈琲に比すると遙かに遅く、19世紀後半から20世紀前半のことであった。
H.豊富な食材
 賑やかな料理職人の勢揃いが可能となったのは、食文化の発達とともに、オスマン人がイラン人にならい「水と空気」と呼んだ気候風土によるところが大きい。中東では比較的変化に富むアナトリアを中心に、広く周辺各地から君府に集まる食材が実に豊富で多彩だった。
 肉屋は通例、常設店舗だが、野菜、果物、魚、鶏などは、市場で売っていることのほうが多い。週に1回、曜日を決めて開かれる定期市は安くて新鮮だから、ごく普通の庶民は、市を楽しみに待ち、群がり日々の買い物をしている。
 昔時の君府の人々の胃袋を満たした食材を知るには、オスマン当局が発した諸物品のナルフ・デフテリすなわち公定価格表が、恰好の手引たり得る。トルコ人、そしてオスマン帝国の人々の最大の好物は、肉、それも羊肉。いかに好物でも皆が飽食しうる食材ではなく、主食ではない。主食は、パンであり、庶民はパン屋で竃の焼きたてのものを買うことが多く、当局も価格を厳しく統制監視していた。
 1.米と豆
 米は、トルコ人にとっては主食ではなく、副食。米のピラフはなかなかの御馳走であった。豆はレンズ豆、次にひよこ豆。
 2.野菜のいろいろ
 玉葱は、野菜よりむしろ調味料扱いでニンニクと並んでいた。
 ほうれん草、パセリ、セロリなどの青物の名が、すべてギリシャ語起源であり、オスマン帝国、そしてトルコの食文化の重層性、ビザンツ、さらにはギリシャとの食材上の連続性を如実に示している。
 19世紀前半まで「新大陸産」のトマト、馬鈴薯、ピーマン、唐辛子もなかった。
 3.魚
 食材としての魚の名称は、ほとんどギリシャ語起源、古くよりギリシャの食文化がいかにオスマン朝の食文化にも影響したかを知りうる。
I.古料理書
 1.『諸食物の調理』
 今日知られるオスマン朝で最初の、15世紀の料理書。トルコ人の作品ではなく、ムハンマド・ビン・マフムード・シルヴァーニーのアラビア語の料理書『料理人の書』の翻訳。
 2.「料理小冊」
 18世紀後半、「イスラムの長老」職についたことのあるパシュマクル・ザーギの外孫と見られる匿名の人物の最古のオリジナルな料理書。
 著者の印象に残った新奇な料理の覚え書き、体系的ではない。載せられたる品目は、全128種、その半数近くはデザート及び漬け物。
 3.「コックの避難所」
 オスマン朝最初の版本の「コックの避難所」(1844年)は、当時のトルコ料理の全容を体系的に示すことを目指したもの。純トルコ料理239種に及ぶ。
 1864年の「オスマン料理編成」は、ほぼ「コックの避難所」の英訳。
 「新料理書」は、「コックの避難所」の変形。
 4.「家庭婦人」(初版1882から83年)
  西洋料理も入り込んでいる。
 参考に
 トルコが親日になった歴史的背景 エルトゥールル号事件と日露戦争
turkish.jp/turkishcharm/%E3%83%88%E3%83%AB%E3%82%B3%E3%81%8C%E8%A6%AA%E6%97%A5%E3%81%AE%E7%90%86%E7%94%B1%E3%81%A8%E3%81%AF%EF%BC%9F%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E7%9A%84%E8%83%8C%E6%99%AF%E3%82%84%E5%87%BA%E6%9D%A5%E4%BA%8B%E3%81%A8/

 

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