17歳のための世界と日本の見方
2019年12月09日(月)
セイゴオ先生の人間文化講義
松岡正剛著
発行所 春秋社
2006年12月25日発行
1700円
本書は、帝塚山学院大学教授時代の一年生を対象とした「人間と文化」と題する講義がもととなっている。著者の新たな視点による世界と日本の比較を通して、人間文化に潜む共通性や意外性を探る。今の日本はアジアともアメリカともかなり片寄った付き合いをするようになっていると語る。世界が「精神と物質」や「善と悪」など二分法に語られてしまうことには、いろいろ限界がある。日本には二分法ではない見方があったが、それをいつの間にか忘れてしまった。足し算の「文明」、引き算の「文化」。
外来コードを内生モードにする日本
日本らしさとは、和洋折衷の文化と考えている。日本人は素材で和風と洋風を区別したり、様式で和と洋を分けて感じることにしている。素材による「コード編集」と、様式による「モード編集」があると見ている。このことが「和」を作っている。
日本は外国から「コード」、いわゆる文化や技術の基本要素を取り入れて、それを日本なりの「モード」にしていく、様式にしていくことが、古代からたいへん得意な国だった。古代から中世までは中国や朝鮮、その後は南蛮文化、明治以降はヨーロッパ文化、最近はアメリカの文化や技術を輸入した。基本的には素材としての「コード」を輸入して、それを基に日本なりの様式としての「モード」を生み出す独特の編集力を発揮してきた。「編集方法」にこそ、日本文化の重要な独創性が潜んでいた。中国の漢字を使ったといっても、その漢字を中国語のように読まなかった。あくまで日本語の音で読み、熟語も日本風に読んだ。
日本的と感じる文化が、整っていったのが室町時代。足利義政を中心とする「東山文化」が、重要なポイントになっている。禅宗の影響を受けたサロン文化が成熟し、和風と漢風文化の融合も起こっていった。分割しない見方が様々な日本的文化を生んだ。書院造りもお茶もお花も能も生まれた。「座の文化」と「一期一会」という考え方も分割しない文化。
日本の文化は、たえず対照的に発展してきた。弥生型と縄文型、公家型と武家型、都会型の「みやび」と田園型の「ひなび」。2つの軸で動いてきた。
古代から江戸時代までの日本人の多くは、中国風でいくところと、日本風でいくところをきちんと使い分けていた。明治維新後の日本の欧化政策は、日本が編集してきた文化のモードをほとんど分断してしまった。明治の「文明開化」やアメリカ直輸入のやり方には、文化の編集の深みがない、日本の得意としてきたモードへの変換が生かされなくなった。
ヒアとゼアの世界
菅原道真によって遣唐使を廃止した頃から、日本独自の文化が生まれる。江戸時代までは、中国という「ゼア」が本物であり、「ヒア」である日本は仮の物という見方をもっていた。今の日本は、アメリカに真似して、未だに「ヒア」は仮の物という意識が抜けていない。
一神教と多神教
キリスト教もユダヤ教もゾロアスター教もイスラム教も絶対的な唯一の神を信仰する。一神教が生まれたのは、何れも砂漠の風土。風土が二分法にできている。二者択一しかない、その結果も生か死かしかない。厳しい自然条件の中では、いろいろ判断を迷わせるようなたくさんの神々がいては困る。神やリーダーは一人でいい。「砂漠の宗教」は唯一絶対的な一神教が確立し、二分法的な宗教文化や社会文化が世界に広まった。それと、今日の世界の戦争や経済的価値観とは無縁ではない。
宗教戦争は、なぜ残虐になるか
kojima-dental-office.net/blog/20191225-13525#more-13525
一方、インドや中国や日本など東洋の国々は非常に湿潤で、森林が多い。生と死に迫られるといった二者択一的な状況ではなかった。ブッダが、なぜ人間が苦しむのかに悩み、菩提樹の下に座り続けて悟りを開いたようなことは、森林の中でこそできたことで、砂漠の中で座り続けたらたちまち干からびてしまう。「森林の宗教」の東洋では、様々な選択肢毎にそれを司るたくさんの神々や仏たちを考え出したり、またそれらの神仏と調和しながら、人間の生き方や生きる技術を高めていこうといった思想が発達した。すなわち「多神教」や「多神多仏」の国々になった。
1000年の西洋の「知」の空白
古代ギリシャのコスモロジー(世界観・宇宙観)やアリストテレスの哲学やユークリッドの幾何学は、ヨーロッパ中世に継承されず一旦イスラム文化圏に入り、ヨーロッパに戻るのはルネサンスの時代。その1000年もの間、西洋では、人間文化や人間精神、あるいは「生と死」の問題をキリスト教が完全に支配していた。中世キリスト教は、人間が人間のことや自然について探求したり思索したりするような「知」を禁じていた。アダムとイブのリンゴは、人間が知らなくてもいいことを知りたがったという意味。
1.ヒトが直立二足歩行をして「人間」になったことの意味
①親指を使う
親指を使って物をつかんだり持ったりすることができたところから、人間の文化がやっとスタートする。赤ちゃんは、必ず縦の線を書く。横に線を引くことはできない。サルだった頃、二本の腕を使って木の枝にぶら下がりながら渡っていく時のストロークが記憶として残っているからと考えられている。
やがてタテからだんだんヨコになって、タテとヨコの線が交わった時にいろんな形を発見して、だんだん自由に線や形が書けるようになっていく。腕や手をヨコに動かしたり振ったりする動作は、ヒトが人間として生まれて文化の中で学習したこと。
②ネオテニーと成長
ヒトになって立ち上がったために、骨盤や子宮や産道が変化して、妊娠期間が動物の中でも異例の長期間になった。それでも赤ちゃんは、一人ではほとんど何もできない未熟児として生まれる「ネオテニー」(幼形成熟)。3歳までに後天的に(本能ではない)インプリンティングされたことが潜在意識に埋め込まれ、習慣や考え方に反映される。「自分」というものが確立されていないから、3歳以前の記憶はほとんど無い。「自分」が分かるためには、「他者」の存在を理解しなければならない。「自分」や「自己」は、「他者」や「他人」を介在させないと成長できないようになっている。
③3つの脳の矛盾が文化を生んだ
直立二足歩行によって急激な環境変化が起こって、進化を急ぐ必要に迫られた。その結果、3つの脳を矛盾したまま持ち続けることになってしまった。進化の途中のまま止まってしまった「ワニの脳」、さらにその上に発展途中のまま組み込まれた「ネズミの脳」、その上に「ヒトの脳」が発達した。「ワニの脳」は大脳基底核辺りにある反射脳。動物の激しい行動を司っている。残忍な脳で、ヒトをやっつけたい、攻撃したいという本能を人間にもたらす。「ネズミの脳」は大脳辺縁系にある情動脳。哺乳類に共通する物で、何が有利か、何が快楽になるかを司っている。自分だけは得したい、ずるく立ち回りたいという考えをもたらす脳。
「ヒトの脳」は大脳皮質部分にある理性脳。言葉や音楽を理解する。「ワニの脳」と「ネズミの脳」をコントロールしている。コントロールできなくなると、残忍な脳や狡猾な脳が突き破って出てしまう。ワニやネズミの脳をコントロールしようとしたところから、人間の文化の歴史が始まる。人間文化史の一番最初に出てきたものが宗教で、その後に舞踏や哲学や建築が生まれ、4番目くらいに文芸が出てくる。
2.人間の歴史の当初に、どういう「物語」があったのか
①物語から言語の仕組みが生まれる
発情期を失うことで、互いの意思を確認するためにコミュニケーションの道具として「言語」が発達し、「物語」が生まれる。耳の言語によって、人から人へと伝えられていく。物語の語り方や伝え方が言語の仕組みを作った。紀元前800年くらいに、「語り部」と呼ばれる人々が出現した。語り部は、古代ヨーロッパでも中国でも日本でも、ハンディキャップを持つ人、特に盲目の人が多かった。聴覚や記憶力が極めて優れていたから。
物語から言語の仕組みが生まれるということは、幼児の言語発達のプロセスにも起こる。ばらばらに単語を発しているだけだったのに、3歳ぐらいになると突然「物語」をしゃべれるようになる。脳の中に「自己回路」や「物語回路」が生まれる。「自分」を中心として出来事の後先や物事の関係を繋げることができるし、話したりできるようになる。いろいろ「他者」や「他人」の情報を取り込むことができるようになっていく。
②「物語」が宗教の形をとると、なぜ影響力を持つのか
人間の欲望や煩悩が、現実味を持って人間社会を脅かしはじめ、それが臨界値に達した。神々の物語を伝承しているばかりでは足りなくて、現実の世の中や未来をどうするかが問題になってきた。紀元前600年頃、原始的な宗教をまとめようとする人々や哲学や定理をまとめた人たちが現れる。
A.原始的な宗教をまとめようとする人々
a.ゾロアスター教をつくったゾロアスター
古代ペルシャのゾロアスターは、様々な物語の神々を「善」と「悪」の二つの対比で編集した。世界を二分する見方が生まれてきた。リアルな人間の世界や社会を光と闇の関係(世界を光と闇に分ける二分法)で解こうとした。イラン系の宗教の源流になっていく。
b.ユダヤ教をまとめた第二イザヤ、エズラ、ネヘミア
ユダヤの民はアブラハムという族長が率いる小さな集団。アブラハムの孫のヤコブの時にエルサレムに定住。飢饉が起きてヤコブの息子たちはエジプトに避難。紀元前13世紀前後にモーセは、リーダーとなってエジプトを脱出し、シナイ半島を40年さまよい、ヤハウェ(エホバ)の神に出会い、「十戒」を授けられ、ヤハウェとユダヤ人とのあいだで「契約」が結ばれる。ユダヤ人たちに「イスラエル」という国を保証するという契約。
ユダヤの人々は、唯一絶対神を主張し始め、一神教的世界観が芽生える。パール信仰のようなものを「闇」として排斥し、自分たちを「善」とする立場を確立する。
ユダヤ人たちはその後、再び離散の民になる。このような境遇の中で救世主への待望、渇望が生まれる。ユダヤ教は地下活動をしながら、生きながらえ、ついにエズラとネヘミアという書記官によつて、その教えが文字になる。紀元前6世紀頃から順に「モーセ五書」が成立する。これが今日のユダヤ教の基となったもので、「旧約聖書」の原型。ヤハウェの神がこの五書をモーセに与えたから「モーセ五書」と呼ばれる。「創世記」「出エジプト記」「レピ記」「民数記「申命記」。文字や言語を統一し、「聖書」を編纂し、さらにそれを翻訳することによって、ユダヤ教を確実に広げていくことに成功する。
c.仏教を起こしたブッダ
ブッダは紀元前6世紀のインドに生まれた。輪廻からの解脱を求め、苦行をし続ける。35歳の時に、ブッダは菩提樹の下に座り、瞑想を始める。21日間座り続け、ついに悟りを得る。人間の苦しみを空じるということに気がついた。「苦」を捨てるのではない。「苦」を受け入れて、それを「空」にしてしまう。「ある」と「ない」を両方一緒に受け入れる方法を悟った。
個人で守らなければならない「戒」と、集団で守る「律」とを決めた。大乗仏教は他人を救うための仏教、小乗仏教は自分を知るための仏教。キリスト教は説教、仏教は説法。
中国仏教の特徴
サンスクリット語やバーリ語で書かれたインドの仏教を全て漢字に翻訳していった。インド仏教は、人間が苦悩から解放され、悟りを得ることに重点を置いていたが、中国仏教は、治世的で、国家的な立場から仏教を捉え、体系化していった。日本に入ってきた仏教も、中国的な国家思想や治世思想と一体となった仏教。
華厳教は、宇宙の中心に超越的なビルシャナを置き、その周りに様々な仏たちを配置することによって世界観を表すというもの。古代国家が一人の帝王を置いて国を治めていく時のモデルとして、非常に使いやすかった。日本もこれを取り入れた。東大寺にビルシャナを置いて、全国に国分寺と国分尼寺のネットワークをつくった。
もう一つの浄土教は、人間の世界には汚れたものばかりではなく、美しい清らかなものもあることを強調した。汚れた「穢土」に対して澄んだ「浄土」に理想化している。「穢土」は現実の世のこと、「浄土」は理想のあの世のこと。つまり、ヒアとゼア。日本に入ってくると、法然や親鸞によってかなり独創的な日本浄土教になる。
日本の仏教&開祖たち
kojima-dental-office.net/blog/20060123-1255#more-1255
B.哲学や定理をまとめた人たち
d.「礼」と「仁」 儒教の考え方
孔子、孟子、荀子が考えた人間の社会生活についての教養を基にしている。孔子は、人間は何よりもまず「礼」を重んずべきと考えた。そして、「礼」を尽くすことで、人間の「仁」に至ることができると人々に説いた。五常「仁・義・礼・智・信」。孟子は「性善説」を唱え、帝王学に。荀子は「性悪説」を唱え、教育論に。
日本は江戸時代までは、儒教の思想を取り入れ、江戸時代は、孔子の考えを修正した朱子学をヒントにした。
e.「無」に遊んだ老荘思想
一人の君主を頂点とした強い組織だけでは窮屈すぎる。もっと一人一人の進むべき「道」に応じた人間観や人生観を持ちたい。老子、荘子、列子が、心の自由な在り方や人間の遊びを大事にする考え方を打ち出した。
老荘思想の道は、柔道や剣道の道ではなく、宇宙にある普遍的な道、「タオ」を指す。人間社会の上下関係や経験値は、宇宙の摂理に比べればたいしたものではない。宇宙の根本原理である「道」と共にあることこそ大事という考え。違いを超えなさいという意味の「万物斉同」を説く。何もない自分を「道」に向かって開いて生きなさい。「無」を重視する見方が生まれる。老荘思想は、後に「道教」になっていった。
仏教における「空」が「苦しみからの解放」を重視しているのに対して、老荘思想の「無」は「違いからの解放」を意図している。
f.古代ギリシャの哲人は、「理性」を論理的に考えた
東洋では、「悟り」などの曖昧な考え方や感覚を大事にしていたのに対し、西の思想家たちは、論理的で、実証可能なことを考えて、人間の本質を探ろうとした。そこには一神教に特有の二者択一的な思考の進行、二分法的な論理が基本になっている。
古代ギリシャの哲人は、人間がどのように「理性」を獲得し、理性的に生きるのかを論理的に考えた。人間が普遍的に共有することができる理屈を考えようとした。東洋の仏教や儒教や道教は、あくまでも個人やその集まりの修行や努力。
プラトンは、理性を基にした「理念」や「理想」を見出す。アリストテレスは、森羅万象に関する「学」というものの体系を作り出す。アリストテレスの教えを受けたアレキサンダー大王が、理想都市、アレキサンドリアに世界の知を一堂に集めた情報センターをつくっていく。そこから広まった文化全体のことを「ヘレニズム」と呼ぶ。ヘレニズムに対してユダヤ教の純粋な主義主張のことを「ヘブライズム」と言う。ヘブライズムはしだいにヘレニズムによって柔らかくなっていき、ヘブライズムからキリスト教が出てくる。
3.キリスト教の神の謎
①キリスト教の成立
イエス・キリストは、生まれてから死ぬまで、ずっとユダヤ教徒だった。31歳の時に「荒野のヨハネ」という預言者から神の世界を教えられて、35歳の時にゴルゴダの丘で十字架にはりつけになる。5年の活動。イエスの弟子たちが、メッセージを「福音書」にした。3つに分かれたユダヤ教徒の中の一つ、エッセネ派の近辺からイエス・キリストは登場する。
エッセネ派の謎を解く考古学的な大発見があった。紀元前2世紀から1世紀くらいの間に書かれた「死海文書」は、死海の西岸のクムランで作られ、ここで暮らしていた人々が、エッセネ派ではないかと考えられた。さらに、興味深いことは、その中に、次のように描かれている。「善の教師」は、神から遣わされた預言者とされ、紀元前50年頃に処刑されている。残された人々は、「善の教師」の復活を信じていた。イエスの死と復活の話は、あとから「善の教師」のイメージに合わせて作られたものとしか考えられない。“盗作”したとはキリスト教関係者は認めたくない。ユダヤ教では、救世主はまだこの世には現れていないと考えている。そこがキリスト教との大きな違い。キリスト教は、イエスこそが神によってこの世に遣わされた救世主とした。
キリストとは、救世主という意味。もともとイエスとは限らなかったが、その死後「キリスト=イエス」であることを、パウロは強調した。パウロこそが、イエスよりキリスト教の成立に深く関わった人物と考える。
②「悪」もキリスト教の産物
ルールを破ることは「罪」であって、「悪」ではない。「悪」はもともと相対的なもの。ところが多くの宗教、とくにユダヤ教やキリスト教やイスラム教では、神を絶対化したから、「神に逆らう悪」を絶対化しなければならなかった。世の中に蔓延こっている「悪」を一掃できないと、「善」や信仰が世の中の役に立っていないことになる。そこで、キリスト教は、悪のイメージを作り上げることによって、キリスト教の善を常に優位なものにした。こうして作られたのが「悪魔」。異教徒が信仰している偶像を遣って表していく。キリスト教が悪魔化した神々は、ゾロアスター教のイメージをそのまま取り入れ、黒いコウモリのような翼と牙と長い爪を持った姿で描かれている。
また、キリスト教は「魔女」というものを考え出した。小アジアなどで信仰されていた大地母神を悪魔化した。もともとあらゆる民族は最初は母系社会だった。それを後に男性たちが父系の社会へと変更した。特に、ユダヤ教やキリスト教は、女性の存在を著しく低いものとして、男性を誘惑し堕落させる汚れた存在とみなした。土着の宗教、母なる神を信仰する人々は全て異教徒とし、彼らの神を奪い、魔女にしてしまう一方で、「善」なる女性の神のイメージを作った。それがマリア様。教皇庁が何度も勅令を出して魔女を摘発させた。
4.イスラム教
中世の時代、人間文化や情報編集の最高の成果を生み出していたのは、イスラムの世界だった。東ゴート人よりずっと大きな戦闘能力と信仰力、当時の世界の情報センターといってもいいほどの文化力を持っていた。
イスラム教は7世紀初めにマホメット(最近はムハンマド)によって作られるが、世界で初めて最初から文字を持った宗教だった。すなわち『コーラン』がアラビア語とアラビア文字によって早くにまとめられていた。最初から軍隊も持っていた。
マホメットの死後、アラブ人たちを中心とする「スンニー派」と、イラン人たちが中心の「シーア派」とに分かれる。歴史的にも現在も、スンニー派が圧倒的多数派。
8世紀半ば過ぎには首都バクダードが新しく建築され、イスラムの繁栄は頂点を極める。100万人もの人口を抱え、数万カ所の礼拝所、3万もの公衆浴場があった。アレキサンドリアの「ムセイオン(ミュージアム)」に匹敵する「智恵の館」には、あらゆるギリシャ語の文献が収集されていた。アリストテレスの自然学、ユークリッドの幾何学、プトレマイオスの天文学などがアラビア語に翻訳され、研究しつくされ、さらにその上に新しい研究がどんどん蓄積されていった。イスラムが独自に深めた科学や数学の知識も多い。簿記の仕組みはイスラムが発明した。
5.中世以降のヨーロッパ
①キリスト教権力の弱体化
11世紀になると、十字軍は、イスラム勢力から聖地エルサレムをキリスト教圏に取り戻すために闘いを起こす。11世紀の終わりから13世紀の終わりまで7回にわたって送られたが、目的は果たせず失敗に終わり、それによって教皇や教会の権力が衰えていく。また遠征に参加した貴族や騎士たちも疲弊し、没落していった。
1450年にグーテンベルクが活版印刷術を発明した。それまで聖書は修道院の中で1冊ずつ写本されていた。それが印刷によって大量の聖書が、しかも各国の言葉に翻訳されて出回るようになった。そうすると、ローマ教会の在り方に疑問を持つ人が現れてきた。ドイツの修道僧マルティン・ルターが「95ヵ条の問題提起」をしたことがきっかけで宗教改革につながっていく。
人間は、古代から本を読む時には音読しかできなかった。活版印刷以降、黙読が始まった。それによって、読書のスピードが格段に上がった。しかし、古代以来の「声の文化」が次第に薄れ、かっての語り部の頭にあった劇的なものとは違った読み方の社会が生まれていった。
②「異教の知」 ルネサンスの幕開け
ヨーロッパでは「異」が中世に目立ってくる。キリスト教圏の人々がアリストテレスの成果を学びたければ、イスラム教徒から間接的に教わるしかなかった。しかし、これはメンツに関わる。そこで、キリスト教的な信仰とギリシア・ローマ的な哲学や理性とを調和させるために、ラテン語という特殊な言葉を用いて、独自の学問体系を作ろうとする。キリスト教とアリストテレス体系を両立させる特別の学問。ラテン語はそのために作られた体系言語。「異」と「同」を合わせる必要があった。一旦再統合化されると、ルネサンス様式が芽生えていった。「異」は「異」として認める。
「ゴシック」という言葉は、「ゴート人」っぽいという意味で使われた言葉で、野蛮な異教徒たちの様式。ゲルマン人の大移動に伴って、イタリアに北方から入って東ゴート王国を作った民族。キリスト教は、「異」なる外部者によってもたらされた異教的な文化やシステムを、「同」の中に取り込みながら、だんだん倫理やデザインや情報戦略を強化していく歴史が続く。
③神秘のヘルメス思想
ギリシアのヘルメス神とエジプトのトート神が習合したヘルメス・トート神の教え。紀元前後にエジプトで「ヘルメス文書」が書かれ、それがキリスト教やユダヤ教、さらにはイスラム教とも関わりを持ちながら、ずっと秘教として伝授されていった。
ヘルメス思想は、宇宙や人間の原理を知りたい人々の心を宗教の違いを超えて、つかんでいく。15世紀半ば、イタリアの哲学者マルシリオ・フィチーノが、ギリシア語で書かれたヘルメス文書のテキストの一部をラテン語に翻訳する。メディチ家がフィチーノに「プラトン・アカデミー」という学術編集センターをつくらせる。
20世紀になって発見された、ヘルメス文書の一部と思われる古文書によると、宇宙の基本原理は一つである。人間も一つのコスモスであって、宇宙を司る原理と同じ法則に基づいて作られている。こういう考え方は、キリスト教やユダヤ教にはないもので、むしろ東洋のヒンドゥー教や仏教思想に近い。
④「ゆがみ」と「ねじれ」の宇宙 バロック文化
ルネサンス時代の次が「バロック」という時代。16世紀に、世界中に一斉に専制君主が出そろった。イギリスのエリザベス女王と信長、スペインはフェリペ二世の全盛期「太陽の沈まない国」、オスマン・トルコのスレイマン大帝、ロシアのイワン雷帝、インドのムガール帝国のアクバル大帝などが君臨した。専制君主たちは、権力を握ってまもなく宗教情報を完全に押さえコントロールした、という共通点がある。そのため、人間文化を支配してきた宗教が変貌し、中心からそれていく文化になり、新たにたくさんの中心を持つ文化が生まれていった。それがバロック。
バロックは、「歪んだ真珠」という意味のポルトガル語「バロッコ」からきている。バロック文化の特徴は、必ず2つ以上の焦点がある。2つの焦点が互いに動きあって、独特のねじり感覚、ドラマ性を生み出している。ルネサンスでは焦点は常に1つ。ルネサンスの世界観では宇宙はたった1つ。
バロックでは、マクロコスモスとミクロコスモスが2つながら対比してくる。かつ、2つの世界は必ずしも完全に対照しあっていない。それぞれが動的で、それぞれが焦点を持ち始める。1つの宇宙は正円の世界。中心は一つ。一方バロックでは、円ではなく楕円になる。焦点が2つある。
バロックの時代は科学革命が起こった時代。極大のマクロコスモスと極小のミクロコスモスについて、法則や秩序が科学によって明らかにされていった。宇宙が観察によって描くものへと変貌していった。
⑤近世哲学の父、ルネ・デカルト
ミクロを扱う学問(例えば医学や化学)とマクロを扱う学問(神学や天文学)を、一つの方法によって繋いでいこうと考えた。そのために「幾何学」という数学的方法を思索にも使おうと考えた。人間の存在を世界の存在と共に、数学のように証明したかった。
「我思う」の「我」は心とか意識とか精神というもので、「我あり」の「我」は物質として存在しているもので、この2つの「我」が「ゆえに」という因果関係で結びついている。つまり、精神的なものと物質的なものを二元論的に分ける思想が色濃くでている。
⑥ブレーズ・パスカル
「パスカルの定理」や四則演算のできる計算機をつくり、積分学を発達させた人。科学者としての人生を中断して、宗教的な思索に生涯の多くを費やしていくことを選ぶ。
弱いものと強いものを考えるうちに、「人間は考える葦である」という有名なフレーズに到達する。その前に「人間は弱い一本の葦に過ぎない」とあるところが、もっと重要。折れやすく、壊れやすいからこそ考える。「考える葦」というのは、人間はマクロとミクロの両方を、二つの宇宙を考えることができるのだ、という意味。
「人間の小さな事柄に対する敏感さと、大きな事柄に対する無感覚は、奇妙な入れ替わりを示している」、事の大小や強弱に対する人間の意識は入れ替わるとパスカルは言っている。
6.日本について考えてみよう
①日本神話に戻ってみる
神様たちは、「天津神」と言い、高天原というパンテオンにいる。天津神が治めている人間世界を「葦原中津国」と言う。もう一つ、「根の国」と呼ばれる世界があり、闇の世界とされる。
根の国は、今の島根県出雲。日本神話を読み解く重要な鍵がここにある。アマテラスが象徴する光の国、高天原と中津国は「大和の側」の世界、出雲は「大和に征服された側」の世界。しかし、実際には大和朝廷を脅かす強大な力、青銅器や鉄器を作る技術を持った一族がいた。
日本神話は、8世紀初めに日本という一つの国の歴史として「古事記」と「日本書紀」に再編集された。「古事記」は、天皇家のルーツや王権の由来を、天武天皇のオーダーによって稗田阿礼という語り部の伝承を基に太安万侶が音読みした「万葉仮名」の表記と漢文調に表す方法とをごちゃ混ぜにして再編集した。「日本書紀」は、日本という国の正史を天正天皇のオーダーによって舎人親王がほぼ漢文で編集した。漢文で書かれてこそ正当なものであると信じていた。文字が持つ文化への影響力は大きかった。
②カミとホトケの戦い
日本に仏教が正式に伝えられたのは、6世紀の欽明天皇の時代。日本にはすでに天皇が祀る神々や租霊に対する信仰があったので、リーダーたちも「崇仏派」の蘇我氏と「排仏派」の物部氏の2つに割れて、政治的な対立にまで発展していた。推古天皇によって仏像を信仰して仏法を盛んにしなさいという詔がくだされ、崇仏派が圧倒的優位に立つ。推古天皇をサポートしたのが聖徳太子、その聖徳太子を経済的に政治的に応援したのが蘇我馬子。仏教国家が成立したかに見えたが、次の時代に変化する。
聖徳太子が早く死んでしまい、蘇我氏が権勢をふるい、天皇の権威を脅かすようになる。そこで「大化の改新」が起きる。蘇我蝦夷・入鹿親子が中大兄皇子と中臣鎌足のクーデターによって倒される。中大兄皇子がのちに天智天皇となって、日本で初めて全国的な戸籍を作ったり、国を治めるための組織や法令を整えた。すべて中国の国づくりにならったもの。
天智天皇が亡くなると、息子の大友皇子と弟の大海人皇子との間で、皇位継承を巡る、古代最大の内乱「壬申の乱」が起きる。圧倒的に勝った大海人皇子が天武天皇となり、仏教を受け入れながらも、古来の神への信仰も重んじ、神を祀る「神社」を次々に作る。日本は多様。
③男の漢字、女の仮名文字
朝の時間帯に政治上の会議や決済をやっていた「朝廷」では、漢字を書くことができるエリート官僚で固められ、中国至上主義が定着した。貴族のプライベートな夜の「内裏」では、「和歌」の能力が求められ、独自の日本文化を育んだ。日本で最初に作られた和歌集である「万葉集」はすべて当て字で書かれていた。「万葉仮名」と言い、文字は日本語の音に近い漢字。宮廷の女性たちは、万葉仮名で和歌を記していたが、だんだん手慣れてきてくると崩し字で書くようになり、日本独自の「仮名文字」を作り、日本の文字革命も起こした。平安時代は、女性たちの文化が大きく開花した時代。仮名文字によって書かれた「枕草子」の清少納言も、「源氏物語」の紫式部も、内裏に生きる女房である。社会的には男性優位な時代だったけど、文化面では宮廷内外で女性が男性を圧倒していた。紀貫之のような当時の一級の文化人が、女性の振りをして仮名文字だけで「土佐日記」という傑作を書くことも起きた。紀貫之が編集した平安時代最大の勅撰和歌集である「古今集」に、漢文による「真名序」と仮名文字による「仮名序」の二通りがつけられている。漢文化と和文化を並立しながら自在に扱うことができるようになったことを意味する大事件。
④日本的感覚の編集 もののあはれ
もののあはれの「もの」には2つの意味がある。一つは「物」、もう一つは「霊的なもの」。人間世界もうつろいやすいものと感じる、そのような感覚が「もののあはれ」であり、到底漢文では表せない。「あはれ」とか「もの」といった日本独特の言葉でなければ表現できない。女性たちが、日本の言葉と文字で育んだ「もののあはれ」という感覚こそが、「やまとごころ」。
⑤「あはれ」から「あっぱれ」
武士は、仏教で禁じられている殺生を生業としている。それでも浄土へいきたい。戦争に行く時には、「陳僧」を連れて行き、戦死した場で念仏を授けてもらい往生した。武士にはだんだん「仏教を覚悟としてとらえる」という見方が出てくる。武士にとって覚悟は死の覚悟であって、それがすなわち仏教の「悟り」になっていった。ここから、武士独特の美学が生まれる。公家や貴族が作った「無常観」を、さらに「死の美学」にまで高めた。
藤原道長や頼道は阿弥陀堂や平等院を造り、死や往生への準備をしたが、武士たちは自分自身が浄土になっていこうとした。合戦に赴く時の鎧や兜、刀や馬の飾りを壮麗なものにした。武士たちは「あはれ」を「あっぱれ」というふうに破裂音を使って言い替えることによって、貴族の美意識を武士の美意識にした。貴族の「あはれ」は当事者が感じている「あはれ」。ところが武士の「あっぱれ」は「あはれ」の状態にある人を「あっぱれな奴」と言い替えるという形で成立する。清く討ち死にした時に、称賛を込めて「あっぱれ」と言う。「あはれ」から「あっぱれ」への変化が、公家文化から武家文化への大きな転換を象徴していた。
⑥「座」の文化
室町時代になると、「座」の文化が出てくる。その後の日本文化に大きな影響を与えたのが「連歌」。ソロで歌っていた和歌を、集団で詠み合って次々に繋いでいくもの。日本人の美意識のようなものが洗練されていった。「座」の文化は、日本人の花鳥風月を巡る「好み」を育み、それが能や茶や生け花の「好み」にも転じて、とりわけ「茶の湯」という様式を生み出した。
⑦禅の感覚と「引き算」の魅力
連歌師の心敬は、当時世界中のどこにもなかった「冷えさび」にまで突き進んだ。冷たく凍てついた冬ざれの風物をこそ美しいと感じるような美意識を指す。この「冷えさび」という感覚は、日本仏教の大きな変革とも重なっていく。
禅宗は、それまでの中国仏教になかった老荘思想を取り込み、さらに座禅という厳しい戒律の制度を持っていたので、それが日本の武士の精神とピッタリ合った。「冷えさび」の美学と結びついて、中国にはなかった禅林文化が生まれる。その代表的なものが「枯山水」。枯山水は水を感じたいが故に、敢えて水を無くしてしまっている。つまりそこには「引き算」という方法が生きている。それが新しい美を生んだ。
「新古今和歌集」の編集に関わった、藤原定家の歌
見渡せば花ももみじもなかりけり 浦の苫屋の秋の夕暮れ
わざわざ「花ももみじもない」と言ってみせることで、それを聞いた人の頭の中には、満開の桜や紅葉の盛りが浮かんできてしまうという、恐るべき歌。心の中にあはれに思われてくる、という感覚が「幽玄」。引き算の美学。
「詫び茶」
本当は立派な唐物を揃えてもてなしたいけれど、とりあえず今は粗末な和物の道具しかない、あなたに申し訳ない、といった侘びる心をあらわしている。道具の取り合わせや茶の湯の段取りには、とことん心を配っていくわけだから、かなり意図的で自信にあふれた「侘び」。自信があるから質素にする感覚。
「負の方法」
何もないからこそ、想像力で大きな世界を見ることが可能になる。何もないからこそ、そこに最上の美を発見できる。之こそが日本独自の方法であって、身分の低いものたちが、文化の上では権力者たちと台頭に並び立つことのできる恐るべき方法にもなっている。もう一つ重要なのは、「つながりの文化」。人と人のつながりではなく、茶碗や花や庭や言葉や書が、それぞれつながっていった。
⑧禅宗から法華へ
法華はインドで編集された「法華経」の教えをもとに、中国で法華宗としてまとめていったもの。日本では日蓮が始めた日蓮宗のこと。日蓮は鎌倉時代の人で、貴族たちが信奉していた浄土宗に反発して、ラディカルな宗教を起こした。「折伏」といって、他宗教と宗教論争をやって打ち破っていくといったようなアグレッシブな布教をした。禅は公家と武家の宗教だったが、法華は経済力を蓄えた町衆の心をつかんだ。
桃山文化はアーティストの主人公が「禅」から「法華」へ移っていった時代。狩野派、長谷川等伯、俵屋宗達、本阿弥光悦も法華。
ルネサンスの利休、正円
千利休が新しい美の価値を生み出していった。自分の目利きによって国産の道具「和物」を選ぶようになった。利休のつくった竹の花入れは今も残っている。400年経ても人々の気持ちを深くつかんでいる。竹を選び出す眼、竹を一刀両断にする決断力は、当時の武士たちもかなわないと思った。
バロックの織部、楕円の世界
利休の茶の湯の精神を継承したのが、古田織部。利休の茶は究極を目指したのに対して、織部は利休を理解しながら茶の湯を開放していった。ゆがみ茶碗は、デザインの斬新さ、大胆さは驚くべきもの、ピカソやミロに匹敵する
権力者を恐れさすほど新しい価値観によって、日本を代表するトップの茶人の利休と織部が二人とも切腹している。このころの文化は、政治や経済を震撼させるほどの力を持っていた。
⑨「悪場所」の文化 新しい江戸の文化を築いた芝居小屋と遊郭
徳川が政権を握ると、最初にやったことは、武家・貴族から町民・農民に至るまで完全に掌握し、コントロール下におくための制度作り。ところが幕府にとってコントロールしにくい人々がいた。それは定住しないで日本中を動き回る漂泊の民たち、すなわち芸能者や遊女たち。そこで芝居小屋も遊郭も許可制にした。漂泊の民を定住させるためにつくった、幕府の管理システムのひとつ。
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