のぼるくんの世界

のぼる君の歯科知識

数学を使わない数学の講義

2019年12月25日(水)


img183小室直樹著
ワック株式会社
2008年2月3日発行
920円
 多民族からなる欧米社会にとって、民族的、個人的感情を超越した明確な社会的規範の存在は不可欠であり、その根底にあるのは「数学の論理」である。契約社会・欧米の「契約の精神」は、数学の「集合論」そのものだ。
 論争のルールがしっかりしている国では、ある主張に対して客観的な反証が挙がれば、それだけでその論争のけりがつく。論争に破れたからといって、その人間の人格まで否定されることはない。ところが日本では、意見が否定されたとなれば、その人の人格まで否定されることになる。討論を自由に行う土壌が用意されていないから、前近代的国家と非難される。
1.近代数学の始まりは、ギリシャ
 ギリシャ数学の公理主義が素晴らしい。ユークリッドの幾何でいえば、全ての定理が、5つの公理で説明できる。この点が、古代ギリシャと他の古代国家で発展した数学との決定的な相違。もう一つ大事なことは、使用される論理学が特定されているため、証明できたか出来ないかが、客観的に誰の目にも明らかに分かること。曖昧さは微塵もない。
 デカルトが座標軸を、ニュートンが微分学を発明する。
 数学と科学との決定的な違い
kojima-dental-office.net/blog/20080824-1293
2.存在問題
 中学校試験に“次の図形で対角線が直交するものを挙げよ”という問題が出された。いろんな図形の中に三角形もあり、それを生徒が選んだ。教師は当然のこととして不正解とした。しかし、三角形には元々対角線というものが存在しない。だから、存在しないものについて何を言っても正しい。つまり、直交するといっても、しないといっても正しい。そもそも、初めから数学的には、問題の体を成していない。何事かを言う場合には、まずそれが存在するかどうかを確かめることが最初である。数学の基本命題をまるで知らない数学の教師が、大手を振って闊歩している。
 方程式は必ず解を持つとは限らず、むしろ解を持たないほうが普通。教科書には、解のある方程式だけが選ばれているので、必ず解を持つと思っている学生が圧倒的に多い。解けない方程式に出会った時、右往左往するばかりで、どう対処すればよいのか分からなくなる。中学一、二年生の段階で、方程式が必ず解を持つとは限らないということをきちんと教えるべき。
 ドイツの天才数学者ガウス(1777~1855年)は、定規とコンパスだけを用いて同じ形で体積を二倍にする作図法や、与えられた任意の角を定規とコンパスだけを用いて三等分する方法は存在しないことを証明した。また、正17角形を初めて作図した。しかも、正n角形のうちで、定規とコンパスだけで作図できるものとできないものがあることをきちんと証明した。n次方程式は、どんなものでも、複素数の範囲内で必ず根をもつということも証明した。解があることを証明するだけでも大変なことなのに、その解は複素数の範囲内だという特定までした。
 ガウスに次いで現れた天才がフランス人のガロア。任意に与えられたn次方程式が代数的に解けるか解けないかを見抜く定理を見つけた。
 ノルウェーの数学者アーベル(1802~1855年)によって、一般的な五次方程式を解く代数的方法(係数の加減乗除やルートを開くだけのやり方)は存在しないということが証明された。
 19世紀終わりに、フランスの数学者コーシーは、微分方程式に解があるかどうかを見抜く方法を見つけた。数学や物理の世界では、解があることが分かっただけでも大変なことであり、そこが存在問題の面白いところ。
3.「論理」の国と「非論理」の国
 論理=数学にまで繋がったのは、古代ユダヤ教(ヘブライズム)と古代ギリシャ(ヘレニズム)である。それに対して論理ないしは数学的考え方が見事に欠落しているのが日本である。
 現代においては、数学=集合学であり、集合学=論理学である。かっての数学は数字しか取り扱わなかったのに対し、現代の数学ではいかなる対象も取り扱う。ただし、集合として成り立つものだけを扱う。ある要素が集合に属しているのかどうかが一義的に分かることが必要。分からなければ集合とは言えない。マフィアの集団は仲間かどうかの区別が非常に厳格に規定しているから集合となり、「駅前の大衆」は、どこからどこまでか、そうでないかの区別が誰にもつけようがないから集合ではない。
4.日本には、そもそも契約という考え方がない
 日本流の契約書には、いろいろ取り決めた最後に“以上、取り決めたことについて異議が生じた場合には、双方が誠意を持って交渉に入ることを誓約する”と必ず書いてある。欧米における契約の場合には、“以上、契約する、この契約に違反した場合にはああする、こうする”とビシッと規定されている。破ったか破らないかが一義的に分かり、しかも破った場合にはどのような保障措置をとるのか一義的に決まっている。
5.外交交渉の鉄則
 交渉のプロセスにおいては、脅したりすかしたり、時には裏取引をしても構わないが、一旦契約が交わされたとなれば絶対に厳守する
 日本人が外交音痴なのは、契約という考えがないことに起因する。日本では、契約よりも話し合いが重要視される。話し合いの場合には、合意に至るプロセスとそのプロセスを通じてできあがった人間関係こそが大事である。細かに規定することも水臭いといって嫌われる。日本人の実生活における人情の機微を外交交渉の場に持ち込むから、欧米首脳が目を白黒させる。
6.「法の精神」の根底にも数学がある
 罪刑法定主義とは、刑法に規定されていることについてのみ刑罰を科すことができ、逆に刑法に規定されていないことについては、いかなる行為も刑罰を科せられることはないという考え方で、これは明らかに、きっちりとした集合論である。
 日本の場合には、集合論の考え方が分からないから、ハイジャック事件で犯人の要求に従って赤軍派の連中を獄中から出す時に、規定されていないことは分からないということで超法規的措置という言い方をするしかなかった。それに対して、アラブで西ドイツ赤軍がハイジャック事件を起こし、西ドイツ政府が特殊部隊を導入した際に、超法規的措置とはいわず、国家主権の発動と言っただけだった。そもそも国家主権とは、包括的なものであるから、全集合である。その中には、法律で禁止されている一つの集合がある。こういう集合論で西ドイツ政府が動いた。そういう観点のない日本の動きとは好対照を見せた。
7.敵と味方を直和分解して考えない日本社会
 日本の広告代理店は、ウイスキー2大メーカーのサントリーとニッカの広告を共に扱っている。アメリカでは、ある広告代理店が2大メーカーの一つA社の広告を引き受けたとすれば、敵となるB社の広告も受けることは絶対にあり得ない。敵の代理人も同盟者も同じく敵。
8.「死ねば成仏」 日本人の恐るべき仏教誤読
 日本人は、論理がないばかりに、仏教に関しても恐るべき誤読をする。仏教では、悟りを開くことが救済のための必要十分条件であり、仏教は悟りを開くための宗教。悟りを開けば、輪廻の法則の外に飛び出す。そういう状態を「成仏」と呼ぶ。仏は、生きているか死んでいるかは関係ない。生きているうちでも、うまく悟りを開けば仏になれる。
 しかし、日本人には、こういう仏教の論理がまるで分からない。だから、成仏とは死ぬことだと考え、死んだ人に対して仏という言葉を使う。死んだら自動的に悟りが開けることになったら、仏教思想は、その根底から崩れてしまう。
 日本の仏教&開祖たち
kojima-dental-office.net/blog/20060123-1255#more-1255
 輪廻の思想では、死んで地獄や極楽に行くのではない。死んでから次に、地獄に生まれ変わったり、極楽に生まれ変わったりするのであって、死んだ状態では、地獄も極楽もあり得ない。
9.宗教戦争は、なぜ残虐になるか
 ユダヤ教では外面的な行動こそが全て。キリスト教は、その逆で内面こそが問題である。したがって、いくら外面的に神を信じるふりをしていても、内面で信じていないのでは、キリスト教徒ではあり得ない。そういう輩は、ぶち殺そうと焼き殺そうと構わない。
 あるグループから見て、違う解釈をしているグループは神との契約をしていないグループと見なされることになる。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の契約概念によれば、神との契約は絶対的なものであり、神との契約を結んでこそ、初めて法的権利の主体たる人間として認められるのだから、その神との契約をしていない者は「人間ではない、非人間」ということになる。そして非人間なら、殺したって何をしても構わないという論理になる。自分の解釈が絶対的に正しいとすれば、正しくない解釈をする者たちは、神との契約を曲解し、神の教えを曲げているから、悪魔の手先に等しい。宗教戦争においては、できるだけ残忍な方法で、できるだけ多くの者を殺すのが正しいということになる。「ドイツ30年戦争」では、ドイツの人口が半分にまで減ってしまった。
 宗教
kojima-dental-office.net/blog/20191209-13481
10.初めて宗教の自由を認めたウェストファリア条約の意義
 ドイツ30年戦争を経て、1648年に君主の宗教が民衆の宗教であるという「ウェストファリア条約」が結ばれた。これによって複数のキリスト教が認められたことになり、宗教の自由化を認めたことになる。このウェストファリア条約によって得られた宗教の自由があったからこそ、欧米諸国の近代化があり得た。宗教の自由こそが、近代デモクラシー国家において、良心の自由すなわちイデオロギーの自由に繋がる源となった。言い替えれば、いかなる主義主張を持っていようとも、それが人間の内面にとどまっている限り、国家権力は一切これを問わないという精神を確立させた。

世界の歴史観の最新記事