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情熱でたどるスペイン史

2019年02月17日(日)


情熱でたどるスペイン史 なぜ、ヨーロッパの「異郷」なのか?
池上俊一著
岩波ジュニア新書
2019年1月22日発行
960円
 スペイン、ポルトガルの旅
kojima-dental-office.net/blog/20190227-11172#more-11172

スペインの気候風土による「アフリカ性」と「情熱」
 フランスの作家アレクサンドル・デュマの言葉として(ナポレオンの発言とする説もある)「アフリカはピレネーから始まる」がある。言い換えれば、スペインはヨーロッパではない、アフリカの一部。中世以前には、北方ヨーロッパよりもアフリカとの通交が容易だった。ジブラルタル海峡を越えて、つぎつぎ諸民族がやってきて、国を建て住み着いては、また引き上げた。異民族のるつぼとして、民族共存と文化交流の場になり得たのは、スペインの「アフリカ性」がもたらしている。
 荒涼たるむき出しの原野、そして乾燥、暑熱と酷寒の厳しい自然が支配する生活は、極端から極端へと移る心性を醸し出している。厳しい自然環境は、スペイン人特有の「情熱」の源泉になったように思われる。情熱が燃え上がるには、様々な歴史的できごとの刺激が必要だった。

1.ローマ属州から西ゴート支配へ 先史時代~中世初期
 ①イベリア人とケルト人
 紀元前3000年代にアフリカからハム系イベリア人がやってきて、半島東部・南部に住み着いた。農業、陶磁器類、銅・青銅の技術をもたらした。古代エジプトやクレタ文明に親近性がある。
 紀元前900~650年に中央ヨーロッパからピレネー山脈を通ってインド・ヨーロッパ系のケルト人が半島北部や内陸部に入ってきた。祖地であるドナウ川縁辺の鉄器文化を広めた。幾何学模様と精緻な細工が特徴。先住のイベリア人と混血・融合していって、ケルト・イベリア人と呼ばれるようになる。
 その後、前8世紀頃にアフリカからフェニキア人、やや遅れてギリシャ人も到来。フェニキア人らを引き継いだカルカゴ人が、ローマが到来する前3世紀まで西地中海交易を独占した。

 ②ローマの一属州として
 地中海の派遣をかけた共和制ローマとのポエニ戦争(前201年)に敗北したカルタゴは、アフリカ北岸の本土以外、海外領土全てを失う。イベリア半島はローマの領土となり、ヒスパニアと呼ばれ、前200年から600年間にわたりローマによる支配が続く。ヒスパニアは、ローマ帝国の中でも先進的な属州となっていき、皇帝になる前にヒスパニアの統治者となる例も多かった。
 ローマは、地域の中核となる「都市」建設に取り組む。フォルム(中心広場)を中心に碁盤目状に街路を延ばしていった。水道橋や橋、防備のための市壁の建設を行う。
 ローマの支配下に入って初めて、文化的・制度的な統一体ができた。先ずは、言語。すなわちラテン語が公的な言語として広まった。第2には、キリスト教。第3には、ローマ法。中世以降も立法の中心となり、司法制度もそれに基づいて構築されていく。
 古代ヒスパニアの民は、現世の生に無関心で、情けない生よりも死後の名誉ある生を信じる情熱的な人たちだった。

 ③西ゴート時代とその遺産
 418年にゲルマン民族系西ゴート族が建国。都市の衰退と農村化傾向は阻止できなかったが、ローマ文明に敬意を表し、栄光を取り戻そうと精一杯努めた。
 ラテン人とゴート人の差を無くし平等に扱う法典を作成。たびたび改定され、西ゴート王国滅亡後も受け継がれ、中世末まで継続した。
 西ゴートは、新制王国としての性格を明瞭に主張するために、反ユダヤ人立法を相次いで成立させた。スペイン史を汚す暗い要素として語られている。第17回トレド公会議では、「イスパニアでは全ユダヤ人を永久に奴隷とする」とされた。アフリカのベルベル人のイスラーム勢力がジブラルタル海峡を渡り、半島全体を席巻し、711年、西ゴート王国は滅亡。

2.国土回復運動の時代 8世紀~15世紀
 ①イスラーム時代(後ウマイヤ朝時代)のスペイン
 諸文化交流の果実として、イベリア半島に輝かしい独特の文化が栄える。とりわけ首都とされたコルドバでは、東方イスラーム世界とアンダルシア独自の文化的伝統が交流し混淆して、著しい文化的隆盛があった。 コルドバのメスキータ(モスク)はイスラーム建築の最大のモニュメントの一つ。メッカのモスクに次ぐ大きさ。
 モスクは宗教に加え、知的・芸術的センターにもなった。コルドバの大学では、宗教の如何を問わず、何千という学生に、世界最先端の医学・法律・文学・数学などが教授された。アラビア語に訳されてスペインに持ち込まれたギリシャ哲学は、当地のユダヤ人やイスラーム教徒がラテン語に訳した。コルドバには7つの巨大な図書館があり、モサラベ(イスラーム支配下のキリスト教徒)は、イスラーム文化とキリスト教文化の交流を促進する。
 それまでヨーロッパにはなかった物産(米、さとうきび、オレンジ、イチジク、綿花など)が到来。イスラームの技術による農地灌漑や鉱山開発、織物、陶器、武器、ガラス、紙、皮革などの産業も都市部に興り、地中海を通じたイスラーム国同士の交易が盛んになった。王宮や離宮の見事な噴水や泉、イトスギ、ハイビスカス、ブーゲンビリアなど派手な花卉は、明るく華やかな文化を象徴している。
 アルハンブラ宮殿造営。アンダルシアへと限局していったイスラーム文化。ナスル朝下にグラナダの丘に創られたイスラーム建築の粋というべき傑作建築。たんなる宮殿ではなく、素晴らしい庭園や浴場、モスク、防衛塔、城壁、学校、図書館を備えた王宮都市とでも言うべき複合施設。

 ②レコンキスタ(国土回復運動)の進展
 イベリア半島北方に追いやられたキリスト教勢力による、800年にわたって展開された、イスラーム教徒からイベリア半島全体を奪還する征服戦争をレコンキスタ(国土回復運動)と呼ぶ。
 寛容な政策を実施したため、キリスト教徒、ユダヤ人、イスラーム教徒三者は、商業面でも文化面でも交流して共存し、トレドは文化・学問の中心となった。ユダヤ人の功績は大きく、政治や学問、専門職で厚遇されて社会生活や都市整備にリーダーシップを発揮した。
スペイン人を特徴づける、戦闘欲、冒険心、名誉感情も燃え上がった。いわば情熱のるつぼとしてのレコンキスタ。
 スペインの政治・社会体制は「フェロ(地方特別法)」と「封建制」。レオンとカスティーリャに11世紀初頭から登場する初期フェロの存在。スペインに特徴的な多様にして柔軟な法・行政制度。フェロというのは、国王や貴族・司教から特定の都市や町村に与えられる自治特権。住民の伝統的な権利・義務・慣習などの追認も含まれる。
 封建制は、土地などの「封」の授受を媒介とする主従関係。ローマ帝国末期の恩貸地制度とゲルマン人の従士制度の結合によりできたもの。カスティーリャには三種類の「封」第一は「所領」、すなわち都市や城、そして土地。軍役奉仕を伴う。第二は、「金銭」、第三は、「栄誉」。カスティーリャでは、「封」は父から息子へ伝えられ、息子たちの間で分割されるという特徴がある。他の地域と大きく違うのは、家臣はいつでも自由に主従関係を解消して別の主君を選ぶことができた。つまり、貴族はそれぞれの領地の小王というべき存在で、その力・権利が大きかった。
 アルフォンソ王は、イスラーム教徒とキリスト教徒を融合する意思を協調するため、「二つの宗教の皇帝」と宣言した。イスラーム教徒にも寛容。キリスト教徒ばかりか、ユダヤ人、イスラーム教徒も重用された。
 トレドは、西洋の一大文化拠点となる。万巻の書物を蔵する巨大図書館があり、また一種の「翻訳学派」が成立した。トレドに多数いた多言語を扱う優秀なモサラベやユダヤ人ないしコンペルソ(ユダヤ教からキリスト教への改宗者)が協力してくれた。アラビア語になっていたギリシャ語文献のラテン語訳を推し進めた。古典の哲学・科学文献を初めてヨーロッパの学者が読めるようにした。翻訳活動によって、ギリシャの医学、数学、論理学、哲学、錬金術、天文学、占星術、宇宙論などがアラビア語経由で西欧に知られるようになる。「12世紀ルネッサンス」のまさに中心地こそ、トレドだった。
 イスラーム教徒を論駁するために、まず敵の考えを知らなければならないと確信して、コーランをはじめマホメット言行録、そのほかマホメットとその後継者たちの生涯についてのテクストなどを、西欧の学者たちにラテン語訳させた。
 13世紀から、カスティーリャ、アンゴラ、バレンシアには別々のコルテス(議会)があった。それは聖族有力貴族が参加していた封建会議に都市代表を加えたもの。王が通常の慣習となった税金以上に金銭が必要な時、徴収を承認してもらうために開かれた。ヨーロッパで初めての意義深い代表制度。
 スペイン文化や社会はキリスト教徒だけが創ったものではなく、アラブ人、ユダヤ人もスペイン文化の創造者だった。キリスト教諸王国でも15世紀までは異教徒に対してかなり寛容で、イスラーム教徒らも税金を納めれば住み続けられた。諸民族が交流することで、学問や文化が発展した。
 身分の平準化傾向は、近代になっても変わらない。スペインでは、いくら身分が高いものでも、下の者とも普通に会話し、逆に下層の者でも誇り高く自尊心に満ちていて、高い身分の者を往来で呼び止めのに躊躇しない。つまり、この国では、皆が民衆的であるし、また皆が気高さに満ちている。フランスやイギリスのように、貴族と平民がハッキリ分かれていることはなく、同じ仲間の中のちょっとした上下関係に過ぎない、といった感じ。中世スペインのキリスト教諸国の王は絶対権力者ではなく、将軍たちあるいは貴族たちの第一人者に過ぎない。王権は、一定の法的な制限下におかれていた。
 どの男たちにも名誉第一という行動基準があった。安全を確保しつつ賢明に戦ったり、必要に応じて退却したりするよりも、無謀を承知で野獣のように突進し、敵になぶり殺しにされることを望むスペイン人、あるいは自陣の戦死者が多ければ多いほど名誉だと考えるスペイン人、「名誉」は生命と同等の価値があり、命をかけて守るべきもの。

3.スペイン黄金世紀 16・17世紀前後
①「太陽の沈まぬ国」として世界に君臨
 新航路開拓にいち早く参入し、アメリカ大陸に植民地を築いて富と資源を本国に持ってきたことが勝因。
 1492年は、重要な年。一つは、グラナダ陥落によるイベリア半島の統一。もう一つは、イザベル女王が援助して行われた大西洋を西進する航路で、コロンブスがアメリカ大陸(実際はハバナ諸島の一つ)を発見したこと。新天地にキリスト教を布教することこそ神の意志に沿うことになる、という信念があった。
 メキシコ、ペルー、ボリビアなどからの大量の銀の流入によってヨーロッパで価格革命が起き、物価上昇、商工業の発達、領主層の没落を招いた。またそれまでヨーロッパになかった食物(トマト、トウモロコシ、ジャガイモなど)がヨーロッパの食文化を一変させた。
 エンコミエンダ制、先住民から収奪した土地経営の特殊な形態、インディオからの貢租徴収と労働力搾取を認める身勝手な制度。素晴らしい古代文明が破壊され、おびただしい先住民が虐殺されてしまった。征服前の人口1100万人が1600年には十分の一に激減した。
 イギリスやオランダ、フランスなどの植民地経営者とは違い、スペインの冒険家は一財産築いて故郷に錦を飾るのではなく、移住して土地を獲得しそこに御殿を建てることを目指し、先住民とも積極的に結婚して、子孫がメスティーソ(白人とインディオの混血者)になることをためらわなかった。土着文化とカトリック文化の混淆した興味深い文化を生み出している。
 中世末から近代初めにかけ、スペインではカトリックの純化と血の純化が結合され、社会の遅れをもたらした。空疎な誇りばかりを追い求め、商業、技術、科学、知識などを軽視してはブルジョワは育たず、学問の進歩もなかった。

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