古代文明
2025年10月11日(土)
NHK3か月でマスターする
古代文明 10月号
2025年10月1日発行
NHK出版
1430円
mag.nhk-book.co.jp/article/79132
www.nhk.jp/g/ts/3JYG9W8MQ5/
ギョベックリ・テペから見つかる“古代の記録”は、これまで私たちが“常識”として考えていた文明の始まりに対して、全く異なる視点を与えてくれている。
古代文明と聞くと、「四大文明」を思い浮かべる。メソポタミア、エジプト、インダス、中国。帝国主義や進化論的見地に基づく文明観の影響を大きく受け、教科書と共になかば“常識”のように広く知られてきた。
しかし、実際には4つの文明以外にも、世界各地に文明が興り、互いに影響し合いながら、あるいは独自の道を歩みながら栄えていた。近年は、発掘技術や分析方法の進歩によって、従来の文明像を塗り替える発見が相次いでいる。例えば、トルコ南東部のギョベックリ・テペでは、これまで最古と言われていたメソポタミアより5千年も前、農耕以前の狩猟採集民が巨大な石柱群を築いていたことが明らかになり、都市や権力があって初めて文明が成立するという、それまでの西洋中心の進化モデルを根底から覆した。
トルコ大周遊15日間
kojima-dental-office.net/blog/20231207-17636
A.ギョベックリ・テペ遺跡 所在地 トルコ(南東部の都市シャンルウルファ)
栄えていた時代 紀元前9000年~紀元前8000年
発掘年 1995年から
シャンルウルファ博物館とドイツ考古学研究所、イスタンブール大学による
注目ポイント 狩猟採集民によってつくられた巨大構造物
従来の定説を覆す存在
(農耕牧畜による余剰から権力構造が生まれ、公共事業が行われた)
a.今、文明の始まりが揺らいでいる
1.世界史の定説 「文明誕生のシナリオ」
「四大文明」は、いずれも大河の流域に栄え、農耕によって生まれた豊かな余剰生産物を土台に誕生した。それまでの狩猟採集の生活から脱し、農耕や牧畜によって食料を安定的に得られるようになったことで、人々は組織的な社会を築いていった。
2.1つの遺跡が与えた“常識”へのインパクト
考古学の世界では、“常識”がひっくり返る大発見が続いている。そのきっかけとなったのが、トルコ南東部で発掘されたギョベックリ・テペ(トルコ語で「太鼓腹の丘」の意味)、世界最古の乾いた大地にある巨大な古代遺跡。しかも、それがつくられたのは、今から1万1千年ほど前、人類がまだ狩猟採集民として暮らしていた新石器時代前半のもの。
3.見直しされる文明の定義
ギョベックリ・テペからは、都市や王といった権力の関与や文字の痕跡は見つかっていない。金属の道具すらなかった時代に、巨大構造物を築くには、大人数の協力と計画、技術や知識の共有が不可欠だったはず。
ギョベックリ・テペは、狩猟採集民も社会的に複雑な営みを行っていたという事実を示している。文明は、「定住→農耕・牧畜→都市→国家(権力の発生)」という一本道を進んできたのではなく、もっと多様で、複線的に展開してきた。
b.謎を呼ぶ巨大なT字形石柱
1.規格外の大きさ
T字形の巨大な石柱が複数本、円形に配置され、その中央にひときわ大きなT字形石柱が2本立っている。石柱は高いものでおよそ5.5m、重さは15tにもなると推定される。こうした建造物が8カ所発掘され、まだ12カ所が埋まっている。同じ場所に巨石を用いた円形の巨大遺構が20もある。
2.石柱の意味
2本の巨大なT字形石柱には腕から手の様子が刻まれている他、V字状の首飾りやベルト、前掛けと思われるあしらいも見られる。T字の上部は頭部と考えられるが、顔などの表現がない。この2本の石柱は、ある特定の個人ではなく、一族の祖先を象徴する存在。
石柱の2本は、男女ではなく、どちらも男性。従来、新石器地代では女性をかたどった土偶の存在が注目されてきたが、それよりも前の先土器新石器時代では男性像が多く、狩猟採取から農耕牧畜への遺構と関係があったかもしれない。
3.刻まれた動物たちは何を表すのか
T字形石柱には、様々な動物の姿が刻まれている。専門的な技能を持った人が作業にあたっていた可能性も考えられる。石柱に彫られている動物は、キツネ、イノシシ、ヘビ、サソリ、クモ、ヒョウ、トリなど、実に多彩。一番多いのはヘビ、最も重要とされていたのはキツネ。
石柱に刻まれた動物の、最も信頼性が高い意味は、「当時の人々が抱いていた自然観を表している」という説。ヘビやサソリは毒をもっており、イノシシやヒョウは、どう猛な姿をしている。自然に対する畏怖や憧れを動物の姿を通して描くことに意味があった。彼らの信仰の体系が狩猟採集民的な自然観に深く根差していた。
動物もオスが多く、男性に偏る狩猟採取の世界観も感じられる。
c.誰がどのようにしてつくったのか
1.意外と近くにある石切場
巨石は、遺構から約300m離れた石切場から運ばれてきた。いずれも比較的柔らかい石灰岩で、火打ち石など硬い石でできた石器を使って切り出し、加工を行った。
重さ10tを超える巨大な石柱を丸太などを下に敷いて転がすコロを使って運んだ。石切場は遺跡のある丘から少し下がったところにあり、大人数が協力しなくてはとても引き上げることはできない。
また、運んだ先では、石柱を立てるための土台作りも行われていた。これは床の部分の岩盤を四角く掘り残して土台とし、中心部は石柱をはめ込んで立てるための溝が掘られていた。遺構の土台部分は半地下になっていて、平地に比べれば立てるのが楽だった。
2.共通の世界観を持つ人々の存在
人々はほぼ平等な関係性の中で、お互いの合意のもと自発的に動いていたと考えられる。それは血縁や地縁を母体とした、共通の世界観によって支えられた共同体だった。
遺跡から出土した植物の種子を分析してみると、ピスタチオやアーモンドなど木の実の他、小麦や大麦、レンズ豆など見つかっているが、基本的にすべて野生種。農耕が始まる以前を示している。
d.ギョベックリ・テペは聖地だったのか?
1.地域の祭祀センター
ギョベックリ・テペができたのは、今から1万1千年ほど前のこと。それから1千年近く大切な場所として守ってきた。
集団の合意のみで巨大建物の完成を成し遂げ維持するには、彼らがこの大事業に納得して参加するためのモチベーションとなる物語が必要だった。当時、同じ祖先を始まりとする地縁や血縁を母体とした1つの集団が形成されていたとするならば、皆で力を合わせて壮大な建物を造り、盛大に祖先を祭ることで、自らの集団に対する誇りや愛着のような感覚が生まれたと想像される。集団の心と精神を一つにする、まさに聖地として機能したと考えられる。
2.半径40kmの信仰の中心地
ギョベックリ・テペから約30km離れたカラハン・テペ遺跡や40kmほど離れたネヴァル・チョリ遺跡など周辺地域からも類似した構造を持つ巨石遺構が続々と発見されていることから、近くに暮らしていた集団によって支えられていたと考えられる。
水の確保も容易ではない、標高約800mの丘の上にあえてつくられたのも、共同で祭祀を執り行う場所と考えれば、この遺跡の立ち位置が見えてくる。
e.農耕牧畜の始まりと共に姿を消す
1.なぜ遺跡は埋められたのか
およそ1500年間続いたギョベックリ・テペは、狩猟採取社会から農耕社会への変化を境に人々の価値観や社会構造は大きく変わり始め、祭祀センターとしての役割を終える。
ギョベックリ・テペの構造物は、そのまま打ち捨てられたのではなく、建物ごとに丁寧に人の手で埋められた上で放棄されている。
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