のぼるくんの世界

のぼる君の歯科知識

北里柴三郎

2022年08月16日(火)


よみがえる天才7
海棠 尊 著
ちくまプライマリー新書
2022年3月10日発行
920円
 座右の銘は「任人勿疑、疑勿任人」(人を疑うに任ずるなかれ、人を任じて疑うなかれ)
 あだ名は「ドンネル(雷)」
 医学は、誤解と誤謬を是正しながら築き挙げられていくもの。彼の人生を理解することは、現在の衛生行政の誤謬を理解する一助となる。北里が直面していた問題は、決して過去のことではない。
 後藤新平が台湾に伝えた公衆衛生
kojima-dental-office.net/blog/20201211-14352#more-14352
 祖母の祖父、山田武甫
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 近代医学は誤解と誤謬を是正しながら築き上げられている
kojima-dental-office.net/blog/20220704-15498
 2020年、新型コロナウイルスが出現し世界を席巻しパンデミックになった。衛生学の基本「感染者を見つけ隔離する」に従って対応すべきだが、当初、日本政府は「PCRを実施すると医療崩壊する」などという風評を流布し,検査体制の構築を怠り、衛生学の基本から外れている。その意味で現在の日本政府、及び厚生労働省は明治時代より退歩している。現在の社会のていたらくを空の上から北里柴三郎や後藤新平はどんな思いで見ているだろう。北里なら今の政府に雷を落としたかもしれない。(海堂尊)
A.プロフィール
B.恩師、上司に恵まれた
 a.「公衆衛生」の概念も教えたマンスフェルト(1832~1912/オランダ)
 b.長与専斎(1838~1902)という理想的な指導者
 c.ドイツではコッホ(1843~1910)に指導を受けた
C.盟友に恵まれた
 a.後藤新平(1857~1929)
 b.緒方正規(1853~1919)
 c.中浜東一郎(1857~1937)
D.出会い
 a.山田武甫(1831~1893)
 b.松尾乕(とら)と結婚
 c.永井久一郎(1852~1913)、作家・永井荷風の父
E.感染症
 a.コレラ
 b.天然痘
 c.赤痢
 d.ペスト
 e.脚気
F.研究
 a.コレラ菌を日本で初めて同定 1885年(明治18年)
 b.破傷風菌純培養 1888年(明治21年)
 c.破傷風血清療法確立
 d.学術領域で陰り
G.日本の医学と医療、公衆衛生
 a.「医道論」を吠える
 b.「大日本私立衛生会・伝染病研究所」設立
 c.「北里-後藤-長谷川」という「三角同盟」
 d.医政家

A.プロフィール
 1853年(ペリー米艦隊の来航の年)熊本県の阿蘇山中の寒村・北里村の庄屋の四男五女の長男として生まれる。軍人か政治家を志すも両親に反対され、熊本の医学校に入学。そこでマンスフェルトという師と出会い本格的に医学を志す。その後上京して東大医学部に入学すると、「同盟社」なる弁論部を作り、主将として社会における医師の役割を説き、「医道論」という、今日でも通用する論文を残す。
 卒業後は内務省衛生局に入局して衛生行政に尽力し、日本で初めてコレラ菌を同定し、内務省の官費留学生の第一号に選ばれた。ドイツ、ベルリンの、当時世界最高の細菌学者ローベルト・コッホの研究所に6年半留学し、コッホ四天王のひとりとして世界に名を轟かせた。その時の業績が破傷風菌の純粋培養に世界初で成功したこと、破傷風毒素の抗血清を見出し、今日の血清学と免疫学の基礎を打ち立てる論文を発表した。
 帰国後、福沢諭吉の援助で作られた「私立衛生会・伝染病研究所」を引き継いだ「内務省伝染病研究所」の所長を務め、医政家の立場を強め、日本の衛生学、医療制度の土台を構築するために尽力する。公益性の高い「社会貢献」という視点が常に中心に置かれていた。
B.恩師、上司に恵まれた
 a.「公衆衛生」の概念を教えたマンスフェルト(1832~1912/オランダ)
  ①長崎医学伝習所
   1866年明治維新の混乱期に、頭取として任命された長崎大村出身の長与専斎が長崎医学伝習所を立て直した。第三代外人医師に赴任した29歳の軍医マンスフェルトの協力で 、処方箋を写し取る旧来の医学伝習から理化、解剖、生理、病理と基礎から組み立てる医学教育へ転換した。
  ②古城医学校
 1870年(明治3年)熊本では藩主の細川護久が、熊本出身の横井小楠の弟子を登用して抜本的な改革が始まった。歴史ある藩校「時習館」と「再春館」を廃し、蘭医・吉雄圭斎(1822~94)を招き西洋医学の「古城医学所兼病院」を新設した。吉雄圭斎はモーニッケが痘苗株を日本にもたらした時に長崎で直接指導を仰ぎ、日本初の種痘を施した人物である。吉雄圭斎はマンスフェルトを推薦し、「古城医学校」が開校すると、優秀な生徒が集まってきた。17歳の緒方正規と浜田玄達が入学し、半年後の1871年6月に北里も入学した。彼らは「古城三羽烏」と呼ばれ、緒方と浜田は後に東大医学部の教授、学長になった。
  ③ゲオルゲ・ファン・マンスフェルトの教育
 マンスフェルトは膝関節リュウマチの持病があり病院では杖を使って回診し、3年間授業を一度も休まず行った。解剖学、組織学、生理学、病理学、内科学、外科学、手術実習、物理学など系統立てた医学教育を組み、彼自身が全て講義した。全員卒業させることを目指し、「東京医学校」へ転学も勧め、緒方と浜田は中退し受験・入学している。一方、北里は熊本に残り、マンスフェルトの教育を受ける道を選んだ。マンスフェルトは北里を気に入り授業が終わると私邸に招き、地理学や博物学など医学以外の学問も教えた。個人授業はオランダ語で行われたため、北里の語学力は格段に進歩した。
 マンスフェルトは、日本語を話せなかったため、通訳が授業を訳し、書記がノートに筆記したものを配布し、補修の材料とした。通訳は医学の素人なのでしばしば誤訳したが、オランダ語力をつけた北里が通訳も務め講義のまとめ役になると、問題は解消した。
 マンスフェルトは北里に、人を治す医療だけではなく、民衆が病気に罹らずに済む社会制度を確立することで国を治す、「公衆衛生」の概念も教えた。その話に心が揺らいだが、北里の気持ちを決定的に変えたのは顕微鏡。マンスフェルトが実習で皮膚の標本を顕微鏡で見せると、こんなに小さな標本に細胞があり、身体を作り上げていると知り、北里が本気で医学に取り組もうと決意した瞬間だった。その時、彼が熱心に見た顕微鏡は、ドイツ人のレーエンフックが発明し、ローベルト・コッホが改良を重ねたものだった。ここに柴三郎とコッホの縁が生まれた。
  ④帰国前に恩師マンスフェルトと再会
 帰国前にオランダに寄り、恩師マンスフェルトと再会した。ハーグ大学で講演会になり、医師や職員が大講堂に集まった。北里は流暢なオランダ語でマンスフェルトの薫陶を語った。「マンスフエルト先生は私たちに医学の神髄をたたきこんでくださいました。先生の教育法と方針、勉強法の手引き書の最後の一文を今も私はそらんじています」。『多くを学ぶより少しを十分学ぶべし、基礎ができて初めて広範な勉強ができ、医家にとって一生涯継続する、医学上の深い研究時間が到来する。教訓は、学生を医者に仕立てるにあらず、将来の行くべき道を示し、自ら研究すべき方法を教えるものなり』。
 b.長与専斎(1838~1902)という理想的な指導者
 1.内務省衛生局
 1883年4月、北里は内務省衛生局に出仕。衛生局のトップ、長与は、長崎医学伝習所を立て直し、北里が学んでいた頃の東京医学校の校長でもあった。衛生局には、「保健」「医事」「報告」「照査」「庶務」の5課があり、北里を外国文献を調査、翻訳する「照査」に配属した。1880年に長与はコレラ対策「伝染病予防規則」を結実させていた。
 衛生学は、日本全体の制度に関わる、重要な学問だった。それ故に陸軍、内務省、大学の公益性の高い3つの組織で研究された。その組織を代表する2名、陸軍の森林太郎(鴎外)と東大の緒方正規は就業していて、第三の男として内務省衛生局から北里柴三郎が名乗りを上げた。北里が内務省衛生局を代表する存在になる前に立ちはだかる二人が、同期で内務省衛生局に入省した後藤新平と中浜東一郎
 2.伝染病研究所の創設
 1892年、日本政府、文部省、帝国大学は、世界的医学者となって帰国した北里を冷遇した。内務省の休職期限が切れた北里は無職になっていた。そこで長与は伝染病研究所の創設を中央衛生会に打診した。6月22日、北里は「大日本私立衛生会」の例会で「伝染病研究所設立の必要」を訴え、7月内務省の中央衛生局の委員に任じられた。
 その時、文部省が細菌学の研究機関を帝大に置く設立予算を計上し、またも文部省と東大の横やりが入る。ところが、自前の研究所を寄付するという救世主、福沢諭吉が登場した。7月末、長与は、北里と帰国直後の後藤新平を適塾の盟友、福沢諭吉に引き合わせていた。
 c.ドイツではコッホ(1843~1910)に指導を受けた
 1.ローベルト・コッホ伝・「細菌ハンター」
 炭疽菌、結核、コレラという三大疾病の病原菌を次々に短期間で確定した。その都度、相応しい研究施設や地位が魔法のように用意され、新たな高みへと導かれていく。北里が出会ったのは、2番目の衛生研究所の所長たるコッホ。
 ①王立保健庁(1880~84)
 ②衛生研究所、ベルリン大学教授(1885~91) 
 ③伝染病研究所(1891~1900)
 ④コッホ研究所(1900~1910)
 2.炭疽菌の発見
 最初の勝利は1875年12月23日に始まった。炭疽病に感染した家畜の血液を家兎に接種し、2日後に死んだ家兎を解剖し炭疽菌を発見し、29日炭疽菌芽胞を家兎の角膜に感染させた。1月3日、死んだ家兎を見て眼房水培養法を思いつき、分量が多い牛の眼房にして実験を続けた。スライド培養で、光を屈折する小球と長い繊維状体を観察し、繊維状体が壊れた後に小球が列を成すのを確認した。その休止中小球を「永久芽胞」と命名した。僅か1ヶ月弱で炭疽菌の全生活環を解明し、炭疽病は微生物により起こされることを証明した。プレスラウ大学のコーンハイム教授が結果を供覧したことも幸運だった。彼は枯草菌の芽胞を発見したところで、コッホの偉業を理解できる、世界でただ一人の人物だった。
 1880年7月、コッホは細菌研究所所長に就任する。研究所には、1884年にジフテリア菌の純培養を成し遂げた、陸軍省本部から派遣されたフリードリッヒ・レフレル(1852~1915)、84年にチフス菌の純培養に成功した、王立プロシア医療団のゲオルグ・ガフキー(1850~1918)、92年にインフルエンザ桿菌を発見するブファイフェルなどの俊才がきら星の如く集まっていた。
 3.「細菌学の聖書」
 1881年の年末、細菌学の基礎となる業績を「王立保健庁報告第1巻」にまとめた。これは「細菌学の聖書」として崇められた。コッホの純培養法は培養液にゼラチンを用い、ガラス版の上で固め、集落から菌を採取して培養するという手法。細菌を分離する平板培養法や海藻のテングサ由来の多糖類を用いた寒天培地の製法、リカルド・ペトリが開発したペトリ皿についての論述、滅菌消毒に関する重要報告、顕微鏡写真に関する広範なセクションまで細菌培養技術の全てが網羅されていた。
 4.結核菌発見
 1881年8月、「第7回国際医学会議(ロンドン)」が開催され、パスツールに接したコッホは闘争心に火がつき、帰国後人類最大の宿痾、結核へ挑んだ。1882年3月24日、ベルリン生理学会で結核菌培養結果を発表し、4月10日に「ベルリン臨床週報」に講演内容の論文が掲載された。8ヶ月の電光石火の早業。病原菌説を頑なに拒絶していたドイツ医学会に君臨していた重鎮への忖度から生理学会での発表になった。6月27日、コッホの発見が公式に承認され、皇帝ヴィルヘルム一世は彼を王立顧問官に任命した。この日は人の細菌学が始まった記念日とされている。
 5.コレラ菌の発見と純培養に成功
 1883年12月11日、コッホの40歳の誕生日に、ドイツ調査隊はカルカッタに上陸、コレラ菌を発見し純培養に成功、翌年2月2日に報告書を本国に送った。これも3ヶ月の早業だった。
C.盟友に恵まれた
 a.後藤新平(1857~1929)
 1.高野長英の甥
 後藤新平は岩手県水沢生まれで幕府の逆賊、高野長英の甥。1876年、福島県の須賀川医学校を卒業、1880年に愛知県病院長兼愛知医学校長になった。愛知県立病院には語学の天才、司馬凌海もいてドイツ語の手ほどきを受けた。校長のオーストラリア人軍医ローレッツに高く評価され、衛生学と裁判医学の手ほどきを受けている。1882年(明治15年)4月、岐阜で遊説中の板垣退助が暴漢に刺されたのを治療した逸話が有名。
 2.あだ名「大風呂敷」
 1883年1月、長与局長が直々に招聘した切り札。上品な長与専斎の弱点を、献策が現実離れし「大風呂敷」というあだ名の後藤が補完し、「長与局長の聡明を後藤の胆略によって強化し、長与局長の調和性を後藤の戦闘力で補いつつ、多くの事業を成した」と言われた。1885年12月、内務省衛生局の御用掛(嘱託)から正式な内務省職員(内務4等技師に任命)となった。
 3.日清戦争帰還兵の大規模検疫をやり遂げる
 日清戦争の前線の小池正直と森鴎外からコレラ患者発生の報告があった。
 野戦軍医長官の石黒忠悳は西南の役の時の苦い経験があった。石黒は、あの失態を繰り返したくないと考え、1896年1月20日、凱旋兵24万人に対する検疫を内相に進言した。2月1日、内相から石黒の建言書を回付された中央衛生会は、広島大本営への派遣人員に後藤を任じた。後方勤務を一任された児玉源太郎・陸軍次官は帰還兵の検疫の責任は陸軍に在りと即決したため、軍隊検疫責任者の石黒は後藤を現地責任者に推薦した。
 後藤が児玉次官に会いに行くと、いきなり必要額を尋ねられたので、「100万ですかね」と即答した。すると児玉次官は「ならば150万を用意する」と答えた。後藤が「軍人になるのはイヤだ」と駄々をこねると、児玉は「臨時陸軍検疫部を創設し、貴殿を文官事務長に任命し、自分が部長に就任して全責任を負う」と断言した。北里は全面支援を約し、懐刀の高木友枝を後藤に同行させた。こうして北里は、伝研の総力を挙げた後方支援で盟友・後藤を支えた。
 検疫所は似島(宇品)、彦島(下関)、桜島(大阪)の3つの小島に設置した。検疫は沖合の輸送船に検疫官が乗り込み、伝染病患者や死者を臨検、患者は運搬船で避病院、遺体は安置室に送り、船内の消毒を行った。臨検後、健康なものは艀で検疫所に送られ風呂に入り身体を消毒する。船内に感染者がいたら停留舎入りし、5日間の間に発病者が出ればさらに4日滞留を延期する。噴出する異論は児玉が抑えた。6月1日に検疫が始まり、7月10日までに患者300名、死者70名となった。だが後藤の徹底した検疫設計のおかげで、市中蔓延は防げた。検疫船舶687隻、消毒船舶300艘、検疫人数23万人、消毒人員15万人、停留人員5万人。臨時検疫所がフル稼働したのは6~7月の2ヶ月間で、検疫事業は8月に収束し、10月まで残務処理に追われた。
 検疫事業の終わりが見えた7月10日、後藤は伊藤首相と面会し、戦傷した兵士を援助する法案「明治恤救基金案」を提案した。即座に同意した伊藤を生涯尊敬した。後藤が終生敬称を付けたのは、長与専斎と児玉源太郎、そして伊藤博文の3人だけだった。「名を求めず、利を追わず、一意国の大業に邁進せん」というのが後藤の心境だった。
 1895年9月7日、後藤新平は内務省衛生局長に復職した。
 4.伝染予防法
 1897年4月の「伝染予防法」は後世に残る後藤の業績である。窪田静太郎を抜擢し、北里の全面協力を得て作成された全文24条は清潔法、摂生法、隔離法、消毒法の4項でコレラ、腸チフス、赤痢、ジフテリア、発疹チフス、痘瘡の指定伝染病6種の届出を義務づけ、強制収容を可能とし、現在も骨格はそのまま通用する、優れた法律だった。
 1898年3月2日、新任の台湾府総督・児玉源太郎が招請を決め、後藤は台湾総督府民政局長を拝命した。後藤はそれを皮切りに明治39年に初代満州鉄道総裁、明治43年以後は逓信大臣、内務大臣、外務大臣を歴任し、関東大震災の時には東京市長として、大規模復興を果たした。
 b.緒方正規(1853~1919)
 1.「古城医学校」三羽烏
 熊本県八代郡河俣村に生まれる。北里と同い年、代々医家。1870年11月「古城医学校」に入学し浜田、北里と三羽烏と呼ばれた。翌年上京し「東校」に入学、1880年に東大の第2回卒業生となる。首席は浜田玄達、次席は親友の小金井良精、緒方は3席だった。
 1880年11月14日、親友同士の小金井と緒方は揃ってドイツ留学のため日本を発った。ライプチヒのカール・ルードヴィヒ生理学教授、衛生学のフランツ・ホフマン教授に師事し、2本の論文を来独1年で仕上げ、生理学教室の助手役になる。1884年8月、コペンハーゲンの「万国医学会」でパスツールの演説、「科学に国境はないが、科学者には祖国がある」を聞く。1884年12月、世界最先端の衛生学と細菌学を修得して帰国した。
 2.緒方が直接指導
 長与専斎は帰国した緒方を1885年1月、衛生局東京試験所所長に任じた。緒方の下に、各省から有望な若手が集まってきた。内務省衛生局からも北里が派遣され、緒方に直接指導を受ける。
 3.北里と緒方の二人は日本の衛生行政を支えた
 北里と緒方は、学術上では争う場面も多かったが心情的には和していた。北里は緒方の門弟第1号だが、帝大との確執や「脚気菌」論戦があった。緒方正規教授の帝大在職25周年祝賀会の時に門弟総代で祝辞を述べている。また、緒方臨終前日、見舞いに訪れた北里に「子供をよろしく頼む」と手を握った。北里は「君たちの親父殿のツツガムシ病の病原体は間違いだったから、君たちが奮発して本当の病原体を見つけたまえ」と言い、長男の緒方規雄はその言葉を胸に後年、千葉大学でツツガムシ病の研究に励んだ。北里と緒方の二人は日本の衛生行政を支えた、車の両輪だった。
 c.中浜東一郎(1857~1937)
 幕末、遭難し米国に行き通訳として重用されたジョン・万次郎の息子。東京医学校では森鴎外と同期で3席で卒業し、金沢医学校校長兼病院長で高給取りだった。
 1885年、内務省からドイツ留学に派遣する人物に選ばれた。長与局長は中浜を内務省に勧誘するため、内務省枠の官費留学を交換条件にした。
 1892年7月1日、中浜は衛生試験所所長を辞職し、長与局長に衛生局に招聘されたが断った。その後、衛生学者として、冷静で中立的な、優れたコメントを発し続け、北里に対する批判を強めた。「土筆ヶ岡養生園で賄いの利は福沢、席料の利は長与、薬価は北里の利としているために、利を守るために中立公平な自分が煙たいのだ」と喝破した。また、ジフテリアとコレラに対する伝研のデータは捏造であるとも指摘した。実際、北里が主張する治療成績は再現性がないことが多かった。日清戦争後の検疫で使用した、コレラ治療血清が期待はずれに終わったのが象徴的だった。
D.出会い
 a.山田武甫(1831~1893)
 熊本藩に生れ、横井小楠の高弟、明治期の政治家。明治7年、大久保利通に手腕を認められ内務省に入る。
 1874年(明治7年)6月にマンスフェルトが任期満了で熊本を去り、北里は「熊本医学校」を卒業。7月に熊本を出て、東京の山田武甫家で書生をしていた。苦学生で、学費捻出で借金を重ね、内務省に出仕後に返済した。
 北里は1875年11月に「東京医学校」に入学し、「東京大学医学部」(1883年改称)を卒業した。医学校入学は15歳から18歳までとされていたが、当時は戸籍制度が整備されておらず、年齢をごまかしての入学がまかり通った。柴三郎は23歳だが、18歳と4つ下と偽り、森鴎外は年齢が足らず2歳上に年齢を詐称して入学している。鴎外に年齢詐称を示唆したのは西周で、北里に抜け道を教えたのは山田武甫と、どちらも新政府の役人だった。
 b.松尾乕(とら)と結婚
 北里の成績はさほど良くなく、卒業時の席次は8席だった。大学時代、北里は「長養軒」という牛乳販売店でアルバイトをしていた。内務省衛生局に出仕が決まった直後1883年、北里31歳の春、「長養軒」の社長の兄、松尾臣善の次女、乕(とら)と結婚した。北里は強力な後ろ盾を得た。岳父の松尾臣善は大阪府外国局会計課長から大蔵省に入省した政府高官だった。後の1903年10月、第6代日銀総裁になり7年8ヶ月同職にあり、男爵に叙せられた名士である。
 1895年頃、北里の私生活には緩みが見えていた。北里は伊藤博文と競った末、新橋のトンコを身請けした。スキャンダルは似ていたが、コッホは糟糠の妻と別れ若い女優と結婚し、北里は新橋芸者と別れ妻と添い遂げた。
 c.永井久一郎(1852~1913)、作家・永井荷風の父
 1883年8月から11月の3ヶ月、北里は衛生局全国衛生巡視で、7等秦任官の永井、准秦任御用掛の太田実書記官の小間使いの随行員として東北、北海道に出張した。秋田新聞の主事が一行に、衛生学の市民講義のお願いを申し出た。それを永井が断ると「講演ひとつできないとは、視察は税金を使った物見遊山ではないか」と主事は噛みついた。この主事が福沢諭吉の門下生で民権運動の中心人物、後に第29代首相となり、5.15事件で軍人に暗殺される犬養毅だった。焦った永井は、それまで雑用係として扱っていた北里にその任を頼んだ。北里は「今後は自分の身の回りのことは自分ですること、この地では上席者とすること」を条件に受け入れた。講演会は好評で、その後は永井の提案で行く先々で北里の講演を実施し、以後、北里と永井は信頼関係を結ぶ。
E.感染症
 a.コレラ
 コレラはインド土着の風土病で19世紀まで他の地域では見られなかったが、航海術の進歩により世界各地で流行するようになった。コレラは不意に出現し数人の犠牲者を出すと、瞬く間に社会に広がり、数週で頂点に達し、襲った人の半数を死なせ、その後は衰えて、いつの間にか消え失せた。
 コレラの世界的流行は数度ある。第1次コレラ世界流行は2波あり、1817年から23年にかけて欧州国境に達し、日本を初めて襲った1822年の流行。もう1波は1826年から28年にかけ西欧を襲ったが、1838年、唐突に終息した。1832年から33年アイルランド移民によりカナダと米国へ飛び火し、北米からキューバ、メキシコへ伝播した。
 第2次流行は1840年頃インドで発生し1847年に欧州に到達、10年後に消滅した。この流行時にジョン・スノーが特定の井戸が原因と突きとめた。生活用水で汚染されない上流で取水した水道会社の客はコレラにならず、1853年飲料水による伝染説を発表したが無視された。この時、イタリアの医学者バチーニが患者の小腸内に無数の細菌を見つけ病原菌と主張したが、承認されなかった。
 第3次流行は1865年頃欧州に出現し1875年に終わった。この時パリでのコレラ禍ではパスツールも研究に参加。
 第4次流行は1881年に始まり83年にエジプト、84年にフランス、イタリア、スペインに達した。1883年、パスツール研究所のフランス調査団がエジプトに派遣されたが空振りに終わった上に俊英チェイリエ医師がコレラの犠牲になり、撤退した。かたやコッホ調査団はカルカッタに足を伸ばし、そこでコレラ菌同定と分離培養に成功した。前年の結核菌の発見に続く大発見で、コッホは世界的な名声を手に入れた。
 日本では、最初は1822年で、2度目は1856年、3度目は1858年で大阪から江戸に及び、死者は10万人に達した。この時、熊本では北里の弟妹や横井小楠の母が亡くなっている。「安政のコレラ流行」。1861年に全国で56万人が感染し、江戸だけで死者は7万人に達した。
 1877年、「西南戦争」中に清のアモイで発生し、長崎や横浜に伝播した。陸軍軍医部の石黒忠悳は大々的な検疫を行おうとするが軍人を制御できずコレラを蔓延させてしまう。この時の悔いが日清戦争の大規模検疫の実施につながる。初のコレラ禍で衛生局は船舶検査手続き、避病院設置、検疫停船規則を制定したが、「日本には中央衛生会のような機関もなければ海港検疫法もなく外船検疫の方法もないのに、外船に束縛を与えるのは不当だ」と英国公使に猛反対されているうちに大流行になった。その8月に「中央衛生会」を設置した。
 1879年の東京大流行は患者16万人、死者11万人に達した我が国最大のコレラ流行。1880年に長与がコレラ対策「伝染病予防規則」を結実させた。1882年には患者5万2千人弱、死者3万4千人弱に達したが、1883年には患者969人で死者434人、1884年に患者900人、死者415人と鎮静化した。
 1883年カルカッタでコッホが菌同定と分離培養に成功したコレラ波が日本に到達したのが2年後の1885年(明治18年)、そして長崎に上陸したコレラ波を迎え撃ったのが北里だった、患者1万2千人弱、死者7千人余。1886年には患者15万5千人弱で死者が1万2千人弱に達した。
 b.天然痘
 光学顕微鏡は「細菌」のサイズの1ミクロンまで見える。ところが人類が最初に見つけた伝染病は「天然痘」で、病原体はウイルス。光学顕微鏡では見えない。後に電子顕微鏡が発明されようやく視認されたが、天然痘の病原体は長い間発見されなかった。しかし、「種痘」という予防法は確立された。つまり、近代医学は「原因は不明だが経験則で見出した有用な予防法」から始まった。
 天然痘に最初に戦いを挑んだエドワード・ジェンナー(1749~1823/英国)は24歳で医師を開業。酪農所勤務の女性に「牛痘に罹ると天然痘に罹らない」という言い伝えを教わった。1795年5月、8歳の浮浪児に牛痘を摂取した。すると回復後、少年は天然痘に罹らなかった。その結果を王立協会に送ったが無視された。だが、1798年、1799年、1800年と3冊の小冊子論文を自費で刊行した末に、ようやく英国アカデミーは彼の正しさを認めた。「ワクチン」の語源の「ワッカ」は雄牛のことで、ジェンナーに敬意を表し、「ワクチン」開発者のパスツール(1822~95/仏)がそう命名した。
 最初に導入された西洋医学は「種痘」。牛痘の膿にあるウイルスは、長い船旅の間に感染力を失ってしまうため、日本にはなかなか伝わらなかった。佐賀藩主・鍋島閑叟に痘苗の取り寄せを依頼された、出島蘭館の医師モーニッケ(1814~87/ドイツ)が、1849年ジャワのバタビアから長崎に痘苗をもたらした。それを京都の蘭医、日野鼎哉が入手し、痘苗を求めた福井の笠原良策と大阪の緒方洪庵(1810~63)に分与し、1850年2月、京都の日野、大阪の緒方が種痘館を設営し、福井には1851年10月に設置された。種痘館では、子供を集めて種痘を摂取し、宿泊させて経過観察する。牛痘の摂取後に発症すると膿が出て、それを次の子どもたちに摂取し、継代する。感染力を保つ牛痘の維持には、摂取後1週間で膿が出た時に次の子に継代しなければならない。洪庵は「命を救う治療法は全ての人々に施されるべき」と考え、利益を全て種痘の継続に注ぎ込んだ。
 江戸では皇漢医の居城・医学館が足を引っ張ったために西に遅れること7年、1858年に洋方医82名の私的拠金で「お玉ヶ池種痘所」が設置された。種痘の普及により言い伝えや秘伝を主とする非科学的な皇漢医は衰退した。
 c.赤痢菌
 志賀潔は東大医学部を卒業後、1896年に伝研入りした。最初は北里に培養基の作り方から染色法、動物試験の基礎を学んだ。半年の初期研修を終えた1897年6月、赤痢が大流行した。1880年から1897年のコレラ患者は35万人、赤痢患者は91万人で死者も赤痢のほうが多かった。赤痢は北島が担当予定だったが、ドイツ留学を控えていたため、新人の志賀にお鉢が回ってきた。
 志賀は研究所に寝泊まりし、文献を当たった。「ヴィルダー現象(罹患患者や回復期患者の血清に菌を入れると凝集し、他の血清では凝集しない)」というコッホ三原則を補強する検査法を見つけ出し、これを使った。志賀が赤痢菌を発見すると、北里は論文に仕上げよと指示した。大学卒業直後の志賀が書き上げた論文を北里は丁寧に添削し、次にドイツ語で書くように命じた。それを北里は志賀の単名の論文にした。驚く志賀に「第一等の功績は志賀にある。俺にはもう業績は必要ない」と北里は笑った。こうして1897年12月25日、私立伝研の医学誌「細菌学雑誌」に志賀の赤痢菌発見の論文が掲載され、翌年1月にはドイツ語の論文が欧米誌に掲載された。
 コッホは、結核とコレラ以外の業績は担当した部下のものにした。そのためレフレル、ガフキー、ブリューゲルに北里を加えたコッホ四天王が生まれた。「北里四天王」を生みたいという願いは、北島多一、志賀潔、秦佐八郎、宮島幹之助が現れて叶い、北里は「東洋のコッホ」と呼ばれるようになった。
 d.ペスト
 1894年日清戦争が始まる直前、ペストが発生した香港に、政府調査団が派遣される。文部省と内務省の確執が噴出し、5月28日に41歳の伝研技師・北里柴三郎と35歳の帝大教授・青山胤通の両名に、全く同じ文言の調査命令が出された。北里は石神亨と細菌学を、青山は助手の宮本叔と医学生の木下正中と病理解剖と臨床を分担し、呉越同舟になった。6月12日に香港に到着し、調査隊派遣期間は28日までの2週間だった。
 6月18日、北里は人とマウスの脾臓、リンパ節、血液から同一細菌の培養に成功した。患者の家にネズミの死骸が多いと気づき、ネズミの血液からペスト菌を検出した。同時にペスト菌の抵抗検査に着手し、乾燥、日光暴露、高温などペスト菌死滅条件を調べた。ペスト菌は通常の培地で生育し確認は容易だった。彼はペスト患者の血液をマウスに接種し感染を確認し、死骸から同様の短桿菌を確認した。翌19日、調査開始から5日で、解剖体の5臓器と重症患者30名の血液を調べ全例から同様の短桿菌を検出した北里は内務省に「黒死病の病原を発見せり」と打電した。
 15日、日本隊の調査開始の2日後、パスツール研究所のエルサン調査隊が香港入りした。32歳のエルサンも20日に発見し、ペスト菌発見の栄誉は、コッホの弟子の北里とパスツール門下生のエルサンが仲良く分け合った。
 しかし、日本とフランスでは、ペスト菌の発見者はフランスのパスツール研究所のエルサンだとされている。でも他の国では北里とエルサンの両名とされ、「キタサト=エルサン菌」と呼ばれていた。北里は東京大学医学部出身でありながら、母校に反発し続けた異端児であり、東大閥の敵なので、北里の評価は不当に貶められている。
 青山は6月14日から2週間で19体を解剖し、45名の患者を診察した。解剖には石神が立ち会い、香港で開業していた中原富三郎が手伝った。28日、青山と石神、中原は40℃の熱を出し腋窩リンパ節が腫れ、英国病院船に入院した。石神は錯乱し、青山の症状も重篤で、中原医師は7月4日に死亡した。北里は内務相の帰国勧告を無視し、他のものが快方に向かったのを確認した7月30日に帰国した。1ヶ月の延長期間に北里は重病人の看病、論文執筆、香港の衛生改善調査をした。
 e.脚気
 1.緒方正規が「脚気菌」を発見
 緒方正規はドイツから帰国して直ぐに衛生局東京試験所にて実験を始めた。3ヶ月後の1885年3月にいきなり「脚気菌」を発見したと発表した。
 2.高木兼寛の栄養説
 これに異を唱えたのが海軍軍医総監・高木兼寛だった。その2週間前、大日本私立衛生会主催の講演会で練習艦「筑波」の画期的な疫学的研究を既に発表していた。前年末、軍艦・龍驤の演習航海で9ヶ月で乗組員378名中、150名が脚気になり、25名が死亡した。解析の結果、米食が原因とあたりをつけ、「食料改良之義上申」を明治天皇に上奏、実証すべく軍艦「筑波」を龍驤と同じ航海を取らせ、食事の中身だけを変えるという、大実験をした。明治17年2月3日、乗員333名の「筑波」が横浜を出航した。9ヶ月後の11月に帰港した時、脚気患者は14名、死者はゼロだった。
 石黒忠悳は「大学は学理を以て進む。学理に符合しない説は一切採らない」として黴菌説に固守し、高木の栄養説を真っ向から否定した。陸軍と海軍の間で長く続く脚気論争の始まりとなった。
 森鴎外は、この年の8月「日本兵食論」というドイツ語論文を著し、脚気病原菌説を支持した。この論文に対し後年、コッホ研究所に留学中の北里が細菌学的に批判し、緒方、森、北里の間で論戦となる。
 3.北里が脚気菌研究を批判
 北里は抄読会でパタビア東印度会社の勤務医ペーケルハーリングが現地で流行する風土病「ベリベリ」の病原菌を発見したという論文を読んだ。「ベリベリ」は「脚気」と同じ病気。だが「コッホ三原則」を満たさず培地上のコロニーの形状記述がなく、脚気患者の血液や内臓も使わず、細菌学の基本を無視したものだと気づいた。すると北里の指導医レフレルは批判を論文にせよと勧めた。細菌学の基本から外れた論文を正すのも衛生学研究所の責務だと言われた。その時その批判が、旧師・緒方の論文にも当てはまることに気づいた。師に恩があると言い訳をする北里を「君は私情で医学の真実をねじ曲げるのか」とレフレルに一喝され、緒方の論文も批判することを決意した。1888年「細菌学中央雑誌」でペーケルハーリングの実験では、脚気の原因菌と断定できないと批判した。北里はペーケルハーリングから送ってもらった細菌株を再試するとブドウ球菌と判明した。後日ペーケルハーリングは北里を訪問して謝意を伝え、二人は親友になった。
 1889年は脚気論争で幕を開けた。東大の加藤弘之綜理は「旧師を土足で踏みつける文は、師弟の道を解せざるもの」と激怒し、森鴎外も「北里は、識を重んずるあまり情を忘れただけだ」と北里を攻撃した。「情を忘れたのではなく私情を制したものだ。情には二つあり、公情と私情である。学術の世界では公情を以て私情を制せねば真理を究めることはできぬ」と一撃で退けた。
F.研究
 a.コレラ菌を日本で初めて同定 1885年(明治18年)
 4月下旬、麹町のお屋敷で家鴨が大量死した。その死体を東京試験所で調べると、5年前にパスツールが発見したニワトリコレラ菌が検出された。菌を培養し接種するとニワトリコレラ感染症状が出て「コッホ三原則」を満たした。北里は直ちに論文を書き5月の官報に掲載した。その論文は緒方名義であり、北里は「介助」だったが、北里が関わった記念すべき初論文となった。
 8月末、長崎にコレラが上陸、調査任務を拝命した。師である緒方から、コッホのコレラ菌発見の論文を入手していた。長崎県医学校の解剖室で患者の便を培養して、論文に記載された方法で実施してみると、試験管内にスクリュー上の線維が出現し、コッホが「コンマ菌」と命名した細菌を顕微鏡で確認することができた。この時北里に、コッホの下で細菌学学びたい、という強い気持ちが湧いた。
 9月20日から僅か4日間の長崎滞在で日本の細菌学史に偉大な業績を残した。調査結果を論文「長崎県下ノ虎列刺(コレラ)病因ノ談」とし、「大日本私立衛生会雑誌」31号に掲載し、「中外医事新報」には「痰中ニ在ルコグ氏結核黴菌試験法」というコッホ論文を訳出した。因みに「コグ氏」とはコッホのこと。
 日本で初めてコレラ菌を同定し、内務省の官費留学生の第一号に選ばれた。1885年11月4日、北里は長与局長から辞令「衛生学のうち、伝染病に関する事項についての調査と伝習をすべし。出発は11月14日、派遣期間は3年」を渡された。北里は就学先をコッホ研究所に絞り、1886年(明治19年)1月、北里は念願のコッホ博士との面会を果たした。われわれが国民を健康な生活のためにやらなければならないことは何かねと聞かれ、「衛生学と細菌学を直結させ、社会の基盤を整えることです」と即答した。ドイツ語が堪能で日常会話に難なく、実験の初歩は東京試験所でレフレルの弟子の緒方正規から手ほどきを受けていた。つまり北里は既に、完全に準備ができていた。コッホ43歳、北里34歳。
 b.破傷風菌純培養 1888年(明治21年)
 破傷風菌は1884年、ドイツの医学者アルツール・ニコライエルが発見した。世界中の土壌に存在し、兵士に多く発病したため軍隊の関心事だった。
 だが菌の純培養は成功せず、必ず別の菌が混在していた。コッホの盟友フリュッゲは「破傷風菌は分離培養できない、他菌との混在で発育する特殊菌」で「ジンビオーシス(共生)」という概念を提唱した。
 留学3年目の北里はこれに異を唱え「純培養できない細菌はない。実験のやり方がまずいだけだ」と断じた。北里は「コッホ三原則に合わないのは実験が間違っているからだ」と言い張った。そこでコッホは「フリュッゲの実験を追試し間違いを証明せよ。破傷風菌の純培養に成功すれば、細菌学最高の栄誉になるだろう」と命じた。課題として破傷風菌を与えられ、高弟たる資格を得た。
 菌を培養するとフリュッゲの報告書通り他菌の中に破傷風菌芽胞が混在した。嫌気性のガス壊疽菌と同じ性質だと気づき、嫌気にするため、酸素の代わりに他の気体で満たそうと考えた。そこで水素発生装置を構築し「北里式亀の子コルベン(フラスコ)」なる実験器具も作製、嫌気性菌の純培養法を完成させた。水素ガス発生時に酸素が混じると爆発し、北里は3度失敗した。北里のあだ名の「ドンネル(雷)」はこの時つけられた。この時、同じ嫌気性だが人に感染しないガス壊疽菌を使うという北里の用心深さが彼を救った。もし破傷風菌なら落命していたかもしれない。3度の失敗を経て「水素封入嫌気性菌純培養装置」を完成させた北里は、ついに破傷風菌の純培養に成功した。
 c.破傷風血清療法確立
 1.「抗毒素」の確認
 1890年留学5年目、「血清療法」と「免疫学」につながる研究に着手した。破傷風菌培養と動物実験を繰り返すうち、コレラに罹患するとコレラ菌は全身に観察されるが、破傷風菌は感染局所にしか見られない、という奇妙なことに気づいた。破傷風菌は菌体ではなく、菌の分泌物が症状を引き起こすのではないか、という考えが浮かんだ。培養濾過液を注射すると破傷風が発症し「北里式濾過器」で分泌毒素を継代した無菌濾過液をマウスに注射すると、症状が出現後回復し生き残る個体が出てきた。その個体に大量の濾過液を注射しても症状は出ない。そこで毒素を数万倍に希釈し徐々に増量してみると致死量を注射しても発症しなくなった。「耐性」を獲得した動物の血清と毒素を混じて注射しても無症状だった。こうして破傷風免疫動物の血清中に毒素を無毒化する「抗毒素」が確認できた。それは「免疫血清療法」が打ち立てられた瞬間だった。北里は後に論文の冒頭でこのことを「破傷風患者を治療することも、破傷風に罹って死なぬよう免疫で予防することに成功した」と誇らしげに報告している。
 北里の報告を聞いたコッホは、ベーリングにジフテリア菌で同様の実験をせよと命じ、ジフテリアでも同様の抗毒素が得られた。細菌には菌体自身が持つ「菌体毒」と、毒素を産生する「分泌毒」がある。偶然、破傷風とジフテリアの2種は、血清ができる「分泌毒」だった。後に、「菌体毒」では血清はできないことが判明する。後年、北里は腸チフスやコレラの血清療法を試みるが、それらは「菌体毒」だったので、ことごとく失敗している。
 2.血清学研究に無関心
 1890年(明治23年)、北里が発見した「抗毒素」は血清学の出発点になった。
 1894年、コッホ研究所の同僚のプファイフェルが、免疫血清を注射したモルモット腹腔内にコレラ生菌を入れると溶血反応が生じる「プファイフェル現象」を発見した。
 1896年には、ヴィダールが、患者血清を用いてチフス菌凝集反応ののチフス診断法の「ヴィダール現象」を発見した。これらは翌年の志賀の赤痢菌発見・同定に寄与した。
 1898年にはボルデーが、免疫動物の血清が赤血球を破壊する現象を発見し、「溶血反応」と名付けた。血清中の易熱性の因子を後に「補体」と呼び、免疫血清中に存在して反応に預かる物質を「抗体」と呼び、抗体の産生を促す物質を「抗原」と呼んだ。抗体は誘発した抗原と特異的に結合し、細菌を材料とせずとも同じ現象が起こる。
 これが今日の免疫学の基礎となった。一連の研究は北里の破傷風抗毒素の発見から始まったものだが、北里本人は血清学研究に無関心で惰眠して過ごした。北里は血清療法に関して、学理よりも実際の応用を重視した。彼は「学理を講究する必要はない。理論は後世の学者が拵える。実際にできることを世に示すのが我々学者の義務である」と述べていた。だがそれは、何よりも学理を重んじていた師コッホの方針とは齟齬があった。
 果たして北里には医学者として研究センスはあったのだろうか。北里はコッホに命じられた実験を徹底的にやり遂げ、成果を挙げた。だが、彼自身が研究方針を立て新たに乗り出した研究は結実したものは少ない。
 d.学術領域で陰り
 コレラ菌には亜種があり、「一病一病原菌」というコッホ原則は修正が必要になっていた。この問題を指摘した二木謙三は、馬血清での凝集反応ではコッホ菌との区別はつかないが、ウサギの免疫血清で区別がつくとした。そしてコレラ菌多種説を唱え翌年、赤痢でも志賀菌と違う駒込A・B菌を発見した。それは北里が、細菌学研究の最前線から取り残されていた実態を浮き彫りにした。衛生学者としての手腕に疑問符が付き、細菌学者・北里の凋落が始まった。
 従来のコッホ細菌学で治療に対応できたのは、血清毒の破傷風とジフテリアの2菌のみで、菌体毒の細菌に当てはめた試みは悉く失敗した。コレラ血清、赤痢の原因アメーバなど私立伝研時代の業績は後世誤謬と判明した。1893年夏に発見したツツガムシ病のプラスモジウムは、伝研ではペスト菌に並ぶ大発見と自画自賛したが、結局病原菌はリケッチアであり、その発見は間違いだった。
G.日本の医学と医療、公衆衛生
 a.「医道論」を吠える
 1877年、東大医学部2年生になると「同盟社」なる雄弁会を立ち上げ主将となった。明治11年4月執筆の「医道論」は、格調高い論で、現在でも北里大学医学部では現代語訳を教本に採用している。予防医学の考えが色濃く、衛生学と細菌学の領域に向かうことを予見させる内容になっている。病を未然に防ぐことが基本。そのために病の原因と治療法をしつかり研磨せねば実現できない。「今日の医家は病を治すことのみ努め、他事を顧みない。そればかりか天下に病が減じるを望まず、むしろ増えるを欲す。これは医賊と言うべきである」。
 b.「大日本私立衛生会・伝染病研究所」設立
 1892年11月19日、芝区芝公園5号3番地、御成門交差点の南東角の福沢の所有地に、建坪10余坪、2階建て6室の小さな研究所が完成した。「大日本私立衛生会・伝染病研究所」の創設メンバーは長与専斎、石黒忠悳、高木兼寛、金杉英五郎などの北里シンパで固め、委員長は長谷川秦を任命した。12月3日、「大日本私立衛生会・伝染病研究所」が開所した。所長の北里は内務省内務技師(兼職)として伝研内で研究することが許された。海軍軍医の石神亨が軍勤務を待命して伝研へ移籍し、北里門下の一番槍になった。彼を皮切りに俊英が続々と集結してきた。
 c.「北里-後藤-長谷川」という「三角同盟」
 1893年1月28日、福沢が用意した研究所は手狭になり、「大日本私立衛生会」は、移転増築拡張のため研究所附属病室建設用地として芝区愛宕町の内務省用地500坪余の10年間の無料借用を願い出た。
 文部省は医科大学に伝染病研究室と病室の予算を要求し、伝染病研究室を作ろうと目論だが、予算委員会主査の長谷川泰議員は「玉がなく大黒柱がおらず芝居にならん大学に金をやるなぞ、冗費の極みである」と満場の議会で吠えた。これで文部省案は否決され、大日本私立衛生会は、国庫から創立補助費2万円、研究補助費年1万5千円の3年間拠出という満額回答を得た。これを受けて、2月23日、議会で激しく議論された。帝大前総長の渡辺洪基議員が、私立に任せるのは国辱だからと、国立に修正を要求すると、共同提案者の島田三郎議員は「官吏組織は学識のない人物が権力を持ち学者が自由に技量を発揮できないため国立にしない」と断じた。政府は3月13日付で「伝染病研究所」を伝染病の原因・予防法を研究する国家衛生法の審議機関とした。それは後藤が描いた構図だった。
 北里はこの件で内務省の後藤新平衛生局長や医政家の長谷川泰と固く結びついた。後藤新平と長谷川泰は終生北里の強力なサポーターとなり、「北里-後藤-長谷川」という「三角同盟」は帝大の最大の障壁となった。
 1914年に伝染研究所が内務省から文部省に移管されると、「伝研移管騒動」が勃発し、世間を騒然とさせた。職員全員が辞職して、「北里研究所」に移籍した。日本の衛生行政は整備されたが、皮肉にもそのため伝研の必要性は低下した。
 d.医政家
 北里を学術の世界から遠ざけたのは、福沢が結核治療院を設立し、そこから上がる莫大な収益に身を浸したこと。ツベルクリンや血清薬を売りさばく事業家になっていった。ドイツから帰国後の北里は次第に、医学者ではなく医政家になっていった。学会や有識者の間に不信感が蔓延したが、皮肉なことに門下生の活躍は帝大を圧倒し、大衆の人気を博し、北里と伝研の社会的地位は向上した。学術的な土台は崩れていくのと反比例して、北里の社会的影響力は増大していった。北里の小事に囚われない、大度量が、明治、大正の動乱期に衛生学で国家を導いた。
 慶應義塾大学医学部の創設や医師会運営に関しても右腕の北島多一に任せきりだった。だが日本医師会の初代会長を務め、死ぬまで在位し、その存在感は抜群だった。
 北里は栄華を極め、栄光を独り占めしているかのように見えた。だが遺族は北里の遺品を「北研」に相談せず競売にかけた。死後の資産整理を任された金森英五郎は「人間死んでみて、思ったよりないものは金で、持ったより多いのは厄介事」という意味深な言葉を残している。

 

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