もしも義経にケータイがあったなら
2008年11月11日(火)
鈴木輝一郎著
新潮新書
2005年6月20日発行
680円
歴史を裏返していろんな角度から検証するのは必要であろう。義経を現代の経営・人事理論で読み解くところがおもしろい。現代のわれわれにも、学ぶところが大きいと思う。果たして自分は転換期に気づけるだろうか。
人事とは常に不公平なものだということを忘れてはならない。窓際族は、無能だから窓際にいるわけではない。運に恵まれなかっただけだ。自分の評価は直属の上司がするものであって、これは功績や実績よりも、こまめな「ホウレンソウ(報告・連絡・相談)」による場合が多い。それでも自負心を持ち続け、いつまでも、多方面にチャレンジしていきたい。
明治以前は日本も夫婦別姓の国
北条政子 政子は嫁いだ先の源とは違う苗字を名乗っている
kojima-dental-office.net/blog/20210627-14782
1.なぜ平清盛は頼朝を殺さなかったのか
「勝利しすぎて生じるリスクより、納得させて敗者を併合するメリットが高いため」と考えた。独占しすぎ、追い込みすぎることは、常にリスクを伴う。敗者を完全に潰すより、敗者をまとめて自分の勢力に呑み込んだ手法のほうが、勝者にとって効率がよい。清盛が生きている間は源氏も復帰できなかった。清盛の手法は、成功だったといえよう。
2.頼朝の戦略
「清盛の天命が尽きるまで生き残ること。それまでは無害な人物と思わせること」であった。また、京都と関東の言葉は意志の疎通すら困難であった時代に、頼朝は読経を続けることで、京ことばを維持した。宮中の評価基準を遵守するのは、モラル以上に重要であった。そして、頼朝が采配を握ったら、確実に敗北するのを頼朝自身が知っていた。弱点を自覚し、義経に任せた。平清盛との対決を避け、自分より下位の者を標的とし、吸収して一位より大きくなり、優位に立つのが基本戦略である。
【ランチェスター戦略「弱者の戦略・強者の戦略」】
業界一位の者と争わない---平清盛との対決を避ける
「三一の法則」とは、「1つの局面で相手の三倍の経営資源を投入すると必ず勝利する」というもの。論理的にはシェアが73.9%を超えると、あとは失敗さえしなければ自動的に勝ち続ける。戦略的には一位を叩くより、自分より下位の者を標的とし、吸収して一位より大きくなり、優位に立つのが基本戦略である。
3.頼朝の人事管理
経営者にとって最も重要な資質とは、「有能な人材を見抜くこと」である。頼朝は、創業期には、ゼロから積み上げてゆくために、多少の失敗よりも成功が必要な開拓者を、また、安定期にはいかに失敗しないかが重要な管理者を評価した。最大の特徴は、その容赦ない人員整理にある。
頼朝の判断ミスは、創業期の功績者からすべてを奪いすぎたことである。かっての功労者を、時代の流れや会社の都合で閑職に追いやらねばならない局面があるのは認めよう。しかし、窓際まで追いつめたとしても、窓から突き落としてはならない。権限を与えられなくとも、名誉だけは尊重することが重要である。
【マクレガー アメリカの社会心理学者】
①「X理論」とは「人間は本来働くのが嫌いで、可能な限りサボろうとする」といった見地に立った者である。統率者は金銭や地位などを与えることで、意欲を維持する。
②「Y理論」とは「労働は、心理的・肉体的にみて、遊びや休憩と同列の消費行動である」とした見地に立ったもの。組織内の人間にとって、組織の戦力であると実感させ、魅力ある目標を設定し、創造力と問題解決の裁量権を尊重すると、実際の投資以上の能力と結果をみせることになる。
4.一ノ谷の合戦
平氏側は忠誠を誓う「家子・郎党」固定給を保障された正社員集団に対して、頼朝側は君臣の関係にない「方人」完全歩合給のフリーター集団である。平氏の兵力は2倍以上あったと推測できる。義経の郎党は山師集団であり、ハイリスクにはハイリターンがつきものだと経験的に知っていた。数で圧倒しているのであれば、奇襲をかける必要はない。創業期の会社では、限られた資本を一極に集中させて独占をはかり、成功することはよくある。一ノ谷の合戦は、義経の鵯越(ひよどりごえ)だけで平氏を敗走させたわけではない。しかし、これをきっかけに義経も勘違いした。
【義経は任官をなぜ受けていけなかったか】
①人事権の二元化を招く
少なくとも義経には、人事権の二元化に加担したことに対する反省はまったくみられない。
②総務や経理など間接的業務を視野に入れていない
③「会社の信用」がそのまま自分の信用だと間違えてしまう
5.屋島合戦
義経はいかなるリスクを負うが、最も高いリターンを目指したのに対し、梶原影時は最小のリスクで得られる最大限のリターンを求めた。また、義経は真の目的である「安徳天皇の身柄確保と三種の神器の奪還」を自覚せず、手段である平氏討伐を目的と勘違いをした。そして、強引な戦術が、同行している武士たちにとって、どれほど迷惑だったかを理解していなかった。
【マーフィーの法則】
「失敗する可能性のあるものは、必ず失敗する」
「失敗は最悪のタイミングで発生する」
6.なぜ義経が失脚するのか
屋島合戦から壇ノ浦合戦の1ヶ月で鎌倉源氏は一気に同族企業から巨大企業になり、顧客からの評価ではなく社内での評価で出世が決まる変化する時期であった。義経ただひとりがこの転換期に気づかなかった。頼朝の意向を汲むよりも、勝利による自己実現を優先させたために失脚する。頼朝は、血統主義に能力を加味して評価したが、義経は徹底した本人の実力主義で評価した。
あれほどの英雄だった義経が、たった2通の書状で失脚し、誰も助けようとしなかった。義経が、同じ御家人たちからいかに嫌われていたか、よくわかる。
【義経の『腰越状』の特徴】
①長い
②悪いとは思っておらず、とりあえず謝ってその場をしのごうという意図が明白。
③反省していないことを明示している
④自慢話と功績を連綿と続けている
【始末書の基本】
①簡潔に書く(長く書くとグチがでる)
②失敗を明示する(失敗だと思わなくても書く)
③反省する(本心はどうでもかまわない)
④再発防止を誓う(誓うだけでいい)
- カテゴリー
- 生き方