人生はそれでも続く
2022年11月23日(水)
著者 読売新聞社会部「あれから」取材班
新潮新書
2022年8月20日 発行
820円
新聞の視点は「今」であることが多いが、物事には「その後」がある。ニュースの当事者たちのその後をたどってみよう、という発想で始まったのが、読売新聞の人物企画「あれから」。2020年2月から原則月1回のペースで朝刊に掲載。徹底的に人選にこだわり、「ぜひこの人に話を聞いてみたい」という人物を捜す。取材期間は短くても3ヶ月、長い場合は1年近くをかけた。取材を始めてみて、特異な体験をくぐり抜けた人が語る言葉というのは、何ともいえない奥行きや心を揺さぶる切実さがある。
本書には、2022年4月までに読売新聞に掲載した「あれから」の記事22本を、ほぼそのまま収録している。このたび、新書として発行して頂くにあたり、タイトルを「あれから」から「人生はそれでも続く」に変えた。ここでは、6本を抜粋。
人々の記憶に残るような体験をした当事者たちの、その後の生き様と、人生を噛みしめて紡ぎ出された貴重な言葉の数々が、今を生きる読者の皆さんにとって、「生きていくための手がかり」のようなものになるとすれば、大変うれしく思う。
1.山で「13日間」の死線をさまよった30歳(2010)
2010年の夏、埼玉県両神山(1723メートル)で遭難し、あめ玉7個でたった一人、13日間を生き抜いた多田純一さん(当時30歳)。お盆休みを使って、一人で両神山に入った。登山例1年。
2つの大きな間違い。登山道入口にあるポストに登山届けをいつもなら必ず出していたが、この時はなぜか見落としてしまった。二つ目の大きな間違いは、「下りには違うルートを通ってみよう」と判断したこと。
未整備の荒れた道に入り、焦りながら歩いていると、傾斜に足を取られた。体が崖を転げ落ち、沢の近くで止まった。痛みはなかったが、左足がぶらんと力なく垂れ下がっていた。太い骨が皮膚を突き破って飛び出し、傷口から血が噴き出していた。突然、激痛が走った。「死ぬかもしれない」。持っていたシャツを裂き、携帯灰皿の紐で縛った。携帯電話は圏外。歩けない。助けが来るまで耐え抜くしかなかった。
2日目。「ここに自分がいる」と伝えようと、ポリ袋に免許証や保険証を入れて沢に流した。左足の血が止まらない。映画で見たシーンを思い出し、ナイフを火で炙って傷に当てた。絶叫しながら繰り返して、ようやく血は止まった。
3日目。左足に巻き付けたタオルの中に数十匹のウジ虫が集まっていた。持っていたあめ玉7個は、この頃までには食べきってしまった。空腹に耐えられず、アリやミミズも口に入れる。乾きが限界に達し、ペットボトルに自分の尿を溜めて飲んだりもした。左足は真っ白になり、腐敗臭が漂う。
同じ頃、多くの人が必死で探していた。手がかりは、母が覚えていた「くさり場のある、秩父の百名山に登ってくる」だけ。秩父には百名山が3カ所、それぞれに複数の登山ルートがある。登山届けもない。埼玉県警の山岳救助隊は広大な範囲を捜索したが、手がかりのないまま1週間が過ぎた。「死体にはカラスが沢山集まるはずだけど、今は山にはそれほど飛んでいない。たぶん、まだ生きている」
捜索から9日目。防犯カメラの映像と交通系ICカードの記録で、両神山に向かったとことが判明。
10日目。雨で増水した沢の水に浸かり、溺れかけていた。必死で岩場に這い上がったが、枕代わりのリュックが流されてしまった。このあと、記憶はぷつりと途切れている。
13日目。「前日のカラスがたくさん鳴いている」沢に狙いを定めて捜してみると、人が倒れていた。それまでの常識を覆す「13日間」を山の中で一人、生き抜いた青年がいた。「生きていてくれたことが、どんなことがあっても、捜索を諦めてはいけないと教えてくれた」。
多田さんの左足は、完全に腐っていた。切断が当然と思われたが、埼玉医科大学国際医療センターは、腐敗した左足の太い骨を取り除き、右足から細い骨を20㎝分とつて二つ折りにして代わりに入れる選択肢を示してくれた。右足も動かなくなるリスクもあったが、多田さんはその提案を選んだ。
9回の手術と1年以上のリハビリを経て、奇跡的に左足は残った。左足は右足より1.5㎝短いが、自分の足で歩くことができる。
あれから、多田さんは一度も山には登っていない。遭難当時の恋人とは32歳で結婚し、2人の子供に恵まれた。遭難前と同じところに住み、同じ会社で働いている。「周りに人がいてくれることが、どんなに幸せでありがたいか。それに気づける自分になった」。普通の幸せを今、かみしめている。
2.日本初の飛び入学で大学生になった17歳(1998)
千葉大学が全国で始めて導入した入学制度。中央教育審議会がこの前年6月に制度化を答申していた。1998年1月、「飛び入学 3人合格」。
合格者の一人に選ばれた佐藤さんは、17歳の春、「大好きな物理の勉強に没頭できる」と意気揚々と大学の門をくぐった。あれから22年、佐藤さんは今、大型トレーラーの運転手になって、夜明けの街を疾走している。
飛び入学で入った3人は「特別待遇」。専用の自習室が用意され、担当の大学院生がついて、個別に学業や生活の相談に乗ってくれた。夏には米国の大学で1ヶ月間の研修も。「存分に勉強ができて、ただうれしかった」と佐藤さんは言う。大学院にも進み、修士号も得た。
大学院を出ると、研究機関の職を得た。働きながら論文を書いて、博士号も取りたい、科学者への道は前途洋々かと思われた。しかし、初任給を受け取った佐藤さんは目を疑う。「手取りが15万円」。就職した前年に中学の同級生だった妻との間に長女が生まれていた。仕事はやりがいがあったが、「食べていけない」現実はつらかった。
30歳を超えて2年過ぎた時、現実を受け入れる決断をする。「世の中には、プロを目指してもなれない人はいる」。学生時代、車好きが高じてトレーラーの運転手のアルバイトをしていた。大型免許とけん引免許は持っている。2013年の春、研究者の道に見切りをつけ、運送会社に就職する。研究職に未練はない。でもやっぱり物理が好きで、教えるのも好きだ。だから今も知り合いの子供の家庭教師を引き受けている。
「今の日本では1年、2年という、先の見える小さな実験で結果を出さなければ研究職に就けない。佐藤君はもっと大きなところ、『海のものとも山のものとも分からない』という世界に興味を持っていた」。
「飛び入学」のその後。佐藤君と同じく初代合格者となった梶田さんはトヨタ中央研究所に入った。「ポストや生活が安定せず、研究を諦める人は多い。自分も大学では厳しいと感じ、民間の研究機関に入った。このままだと日本の科学技術はどうなるのかという思いはある」と語る。もう一人の松尾さんは大学で宇宙物理学を専攻していたが、大学院時代に千葉県の政策提案に関わったことで社会科学分野に転向。現在は、千葉市の生活自立・仕事相談センターで相談支援員として働いている。
参考に
歯科関連ニュース 4.9.14.
kojima-dental-office.net/20220914-6535
【7】「飛び入学」合格した3人のその後
4.「演技してみたい」両腕のない、19歳の主演女優(1981)
サリドマイド薬害のため両腕がない状態で生まれた女性の日々を活写した映画「典子は、今」(松山善三監督)は、1981年に公開された。主人公の典子さんは、熊本県に暮らす実在の人物。足を使って冷蔵庫を空け、お茶を飲む。足の指で書をたしなみ、ミシンで洋裁もこなす。本人にとっては、普通のこと。典子さん自身が主演した映画は大評判となり、当時の皇太子ご夫妻(現在の上皇ご夫妻)もご覧になった。女優体験は気持ちよかった。ただ、あまりにも大きな反響によって、「自分は障害者なんだ」と思い知らされた。
熊本市の職員採用試験に合格してから1年余り。1981年、白井のり子さん(当時は辻典子さん、19歳)のもとに、プロデューサーと名乗る人物から電話があった。「あなたの映画を作りたい」と言う。最初は断った。すると、今度は、松山善三監督本人が熊本に尋ねてきて、「同じ境遇の人が元気になるような映画を作りたい」と熱心に説得された。当時は障害者は表に出ず、「隠れて」生きた時代。母の目の前で、監督に「私、出ます」と答えた。
のり子さんは1962年、「サリドマイド薬害」の被害者として生まれた。生まれつき、両腕がない。1950年代から60年代にかけて世界で販売された鎮静睡眠薬・サリドマイドは、妊婦が服用すると、生まれてくる子どもの手や足などに重い障害が出る事例が各地で報告された。看護師だった母、英子さんは、夜勤で不規則な生活の中で、サリドマイドが配合された睡眠薬を飲んでいたようだ。
英子さんは「泣いても手は生えてこん」と言って、のり子さんを特別扱いせず、何でも自分でやらせた。食事も勉強も、足を使えばできるようになった。「私には手がないだけで足がある。自分を障害者だと思ったことはなかった」。何でもできたのり子さんだが、トイレだけは一人では無理だった。下着を下げることはできても、上げることができない。英子さんは毎日、昼休みに学校に通い、用を足す手助けをした。学校に通っていた12年間、母が来てくれたその昼の1回だけが、のり子さんのトイレのチャンスだった。
養護学校(当時)への入学を断られた帰り道、二人で大声を上げて泣いたこと。一転して普通学級入りが認められ、晴れやかな笑顔で入学式を迎えたこと。映画には、母子で刻んできた足跡が随所に盛り込まれた。
映画「典子は、今」で主人公・典子の母親役を演じた女優の渡辺美佐子さんは振り返る。撮影中にふと、のり子さんの腕をつかもうとしてはっとした。俳優である前に、人間としての自分が問われる現場だった。
完成した映画は、大ヒットした。その配給収入は13億円に上り、年間5位。高倉健さん主演の「駅 STATION」(7位)を上回り、全国の学校でも次々と上映された。映画の公開から5年ほどたった頃、「のり子」と名乗ることにした。
市役所時代の上司だった西島さんも、「映画を観たら特別な人だと思ってしまいそうで、敢えて観なかった」。配慮はするが、特別扱いはしないと決めていた。
結婚して2児に恵まれ、入庁以来、福祉畑で仕事に邁進した。だが40歳を超えて責任ある立場となり、沢山の書類を持参して庁舎内外を回るには助けが必要。同僚に迷惑をかけることが、何よりも許せなかった。2006年春、26年間勤めた熊本市役所を44歳で退職した。退職後、講演活動を始めた。12年の夏、ロンドンパラリンピックのニュースを見て、「障害は一つの個性と捉えられ、障害者も自分をアピールし、力を発揮できる社会になった。私の役目は終わった」。8年間でおよそ40都道府県を訪れ、14年に講演を終えた。
今、のり子さんは熊本県合志市でIT関連の個人事業所を構え、仲間とソフトウェア開発などを手がける。足指でマウスを操る。仕事を終え、仲間や家族とお酒を飲み、焼き肉を食べるのが至福の時。のり子さんは、あれから40年近くたった今の社会をこう表現する。「『典子は、今』のような映画は、今の時代、話題にもならないと思う。世の中変わりました」。
今も多くの人に観てもらいたい映画だと思う。平凡で当たり前の生活は当たり前ではないと実感した。
5.延長50回、「もう一つの甲子園」を背負った18歳(2014)
松井さんが、125キロを投げ岐阜県の選抜メンバーに選ばれ「高校で甲子園を目指そうかな」と考えていた時、中京高の平中亮太監督が中学校を訪ねてきて「軟式で、一緒に日本一を目指さないか」と言った。監督がエースにこだわったのにはわけがある。軟式は硬式に比べ、「点が入りにくい」という特徴があり、1点の重みが圧倒的に大きい。ゴム製で中が空洞の軟式球は、硬式球と違って打球は遠くに飛ばない。硬い守備に加え、ピンチでも動じない、絶対的なエースが必要だった。
2014年8月31日、「もう一つの甲子園」と呼ばれる軟式野球の全国高校選手権の準決勝が兵庫県の「明石トーカロ球場」で行われた。この大会のマウンドで、中京高(岐阜)のエース・松井大河さんが延長50回を一人で投げ抜いてきた。709球、35個目の三振で4日間の死闘は終わった。この一戦は、後に高校野球のルールの見直しにつながった。その日のうちに行われた決勝戦でも、4回途中から登板し、2-0で勝ち、胴上げ投手となった。
卒業後、中京大(愛知)の準硬式野球部に進んだ。右腕を痛めて半年ぐらい投げられない時期もあったが、4年時にはエースとして再び日本一をつかんだ。高校でも大学でもプロ野球から声がかかることはなかった。それでも、野球をやめようとは思わなかった。今は、愛知県内の会社で、軟式野球チームで仲間とミスをせず、愚直に丁寧に白球を追う。「1点をもぎ取り、守る野球」の奥深さをかみしめている。
2013年春の選抜で、済美(愛媛)の安楽智大投手が3連投を含む5試合で772球を投げ、議論が再燃。翌14年の「延長50回」も契機となり、15年以降、硬式・軟式とも延長タイブレイク制が順次導入され、20年春からは「投手1人で1週間に500球まで」の球数制限も決まった。
日本高野連の「投手の障害予防に関する有識者会議」のメンバーでもある正富隆医師は「感動の蔭で泣く選手を生んではならない。指導者の育成、練習でも意識する環境づくりが必要」と指摘している。
6.断れなかった 姿を現したゴースト作曲家
2014年2月6日、記者会見に臨んだ新垣隆さん(当時43歳)は、「耳が聞こえない作曲家」として話題を集めた佐村河内守氏のゴーストライターであることを明らかにした。曲が世の中に受け入れられた喜びは大きかった。だが、「聴覚を失った佐村河内氏が作った」というストーリーがあってこその評価だとも分かっていた。だから、「曲だけを渡して、偽りのストーリーは見ぬふりをして、自分には関係ないと思いこもうとしていた」と当時の心境を説明する。「もう音楽に関わることはできないだろう」と覚悟した。
出会ってから5年がたっていた2001年、いつもはシンセサイザーなどの音源があったが、この時は曲のイメージを文章や図で示した「指示書」を手渡された。これに沿って、交響曲を作って欲しいと言う。「断るのが苦手だった。でも、心のどこかにクラッシックではない『現代の交響曲』を作ってみたいというという思いがあったのも事実」と振り返る。彼からの依頼は「困りごと」であると同時に、作曲家としての創作意欲をくすぐる要素が確かにあった。
交響曲第1番は、当初は全く注目されなかったが、07年、佐村河内氏が「被爆2世として、聴覚を失いながらも交響曲を作った」とする自伝を出版。作曲時に被爆地・広島への思いを込めた覚えは全くないのに、いつの間にか「HIROSHIMA」という副題がつき、全国各地で演奏されるようになった。「これはまずい」と自覚した。
騒動後、非常勤講師の職も辞した。しかし、人生は意外な方向に転がり始める。幅広いジャンルの音楽を手がける新垣さん本人の存在に、世間が気付いた。仕事が次から次へと舞い込んだ。そのいずれも全力で引き受けた。あれだけの騒動を起こした自分が、この仕事を受けてあれは受けない、と判断するのは難しかった。
記者会見の直後から、寛大な処分を求めるオンライン署名が開始され、約2万筆が集まった。2018年に桐朋学園大非常勤講師に復帰、20年から大阪音楽大学の客員教授も務める。
あれから6年余り。今、自分の名前で音楽の道を突き進んでいる。新垣さんは、楽曲の著作権を佐村河内氏に譲渡しており、現在ゴーストライター時代の曲を演奏することはできない。
9.松井を5敬遠、罵声を浴びた17歳(1992)
「5連続敬遠」と言えば、1992年8月16日、夏の全国高校野球選手権大会2回戦、星陵(石川)対明徳義塾(高知)戦。星陵の4番・松井秀喜さん(当時18歳)を相手に、マウンドに立った明徳義塾の投手・河野和洋さん(当時17歳)は、ランナーがいてもいなくても、とにかく全て、5打席連続で敬遠した。対戦する前の晩に、河野さんは、馬淵史郎監督から「松井は相手にせえへんから」と言われていた。松井選手は「隙あらば打つ」という気迫に満ちた構えを崩さず、敬遠されてもふて腐れることもなく淡々と一塁に向かった。松井選手が一度もバットを振らなかったその試合は、明徳義塾は1点差で辛勝した。勝利の校歌斉唱は、甲子園球場全体に広がった「帰れ」コールでかき消された。ここから〈松井秀喜を5敬遠した男〉の、長くて苦しい野球人生が始まる。
専修大学に進学した河野さんは、4年後のドラフト会議で自信はあったが、最後まで名前は呼ばれなかった。社会人野球のヤマハに進み、2年ほどしてプロテストを受けたが声がかからなかった。ついには米国へ渡り、独立リーグからメジャーを狙うことにした。だが、肩を痛め、帰国を余儀なくされた。古巣の専修大でコーチをし、29歳で再び渡米。松井選手が大リーグのニューヨークヤンキースで4番を打っていた頃、独立リーグなどでプレーしたが、メジャーには全く手が届かなかった。30歳を過ぎて帰国。クラブチーム「千葉熱血MAKING」で監督兼選手になり、41歳まで現役を続けた。38歳で引退した松井選手より少しだけ長く選手生活を送れたことが誇りだった。
当時の星陵の山下智茂監督が、ドラフト会議で松井選手を一位指名した読売巨人軍の長嶋監督から言われた言葉をよく覚えている。「全打席でタイミングを待ちながら立っていた、相手をにらむこともなく冷静だった、あの姿を僕は評価した」。
松井選手は、「『5敬遠されるのもうなずけるバッターだ』と言ってもらえる選手にならなければ、と言うのが自分の頑張るエネルギーになった」と振り返り、「お互いが、あの出来事を人生の中でプラスにできた。つまり、どちらも勝者だと思う」。
昨秋、河野さんは帝京平成大の硬式野球部監督についた。いつか高校野球の監督もやってみたい。「スタンドからは『帰ってくるな』と言われたけど、監督として甲子園に立ってみたい。勝ちにこだわって、一生懸命やる選手を育てたい」そして「僕には5敬遠を指示する度胸はないです」と余裕の笑顔で言った。
- カテゴリー
- 生き方