蔦屋重三郎と田沼時代の謎
2025年03月15日(土)
安藤優一郎著
2024年7月26日発行
PHP研究所
1050円
2025年大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」
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TSUTAYAと蔦重とは全く関係ない
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成り上がり者・蔦屋重三郎や田沼意次でも世襲が当たり前であった江戸時代に時流を読み取ることで一代でそれぞれのトップに立てたことが、現代に残した一番の遺産であり、教訓である。
蔦屋重三郎は、出版という異業種に飛び込み、世襲に抗うように一代で江戸のメディア王にまでのし上がった。まさに奇跡。吉原の貸本屋に始まり、わずか10年ほどで江戸の出版界を牛耳る書物問屋・地本問屋が軒を並べる日本橋に進出する。江戸の出版界で成功した理由は、才知が非常に優れ、度量も大きく、人と接する際には信義を持って臨んだ人間性と、巧みな構想と優れた計画で出版界を牽引したビジネス力の為せる業にある。20数年に渡って、江戸の話題を呼ぶ刺激的な作品を世に問い続けた。田沼意次が幕政を握っていたことが追い風となる。田沼時代は、享保改革と寛政改革の時代に挟まれた20年ほどの期間で華やかで享楽的な時代。そんな社会の余裕を背景に割合自由な雰囲気の中、経済も文化もが著しく発展した。田沼時代の終焉を迎えても、時流を読むことに長けた重三郎は路線転換を苦にしない柔軟さも持ち合わせていた。そこで世に出した作品こそ、歌麿や写楽の作品。
田沼意次は、600石ほどの小身旗本に過ぎなかったが、時の10代将軍・徳川家治の厚い信任のもと5万7千石の大名に取り立てられる。さらに、幕府トップの老中に抜擢されて権勢をふるい、田沼時代と呼ばれる一時代を築いた。それまでの幕政の原則にとらわれず、自由な発想で幕政に臨んだ。意次は、年貢米に依存する従来の財政構造に、江戸経済の発展を踏まえて運上・冥加金を組み込み、商業活動への課税を強化した。幕府は商工業者からの申請を受けて株仲間という同業者組合を公認し、営業を独占させる代わりに営業税を賦課した。
松平定信は、2人とは対極的な人生を歩んできた、いわば世襲の代表格のような人物。徳川吉宗の孫であり将軍の座に就くことも夢ではなかったが、田沼意次によって将軍レースから脱落させられた。意次失脚後、定信が幕政のトップに立ったが、寛政改革は田沼時代を否定したイメージが強いが、実は意次の政策を踏襲したものが少なくなかった。また、出版界をリードする存在に成長した重三郎の存在を脅威に感じ、言論統制を行い、文化人に深刻な影響を与えた。
A.蔦屋重三郎とは
a.重三郎生まれる
1750年1月7日に江戸の華・吉原で生まれた。本名は柯丸(からまる)、通称は重三郎。江戸幕府の中興の祖、前将軍・吉宗が1751年に68歳の生涯を終え、時代は大きく変わろうとしていた頃。
7歳の時に両親の離別を受けて重三郎は、喜多川氏が経営する蔦屋に養子にはいる。喜多川氏の菩提寺である浅草の正法寺には、重三郎の墓碑が今も建つ。墓碑銘「喜多川柯丸」。幼少期に生き別れた両親を、27年経った1783年吉原から日本橋へ転居した際、重三郎はその新居に迎えている。
b.貸本屋として実績を踏む
貸本屋は得意先を足繁く通うことで、読者の好みを知ることができた。人脈の構築にも繋がり、出版の企画力や営業力が培われ、後に話題作やヒット作を次々と出版できた。
1.江戸の読者を支えた貸本屋
本の購買層は経済力がある者に限られ、貸本屋が江戸の人々の読書を支えた。江戸の幕末、かけ蕎麦1杯16文の時代に本のレンタル料は、1冊につき6~30文。
貸本屋は、町屋だけではなく、大名屋敷にも行商人のように出入りし、本のレンタルに応じた。江戸の大名屋敷には、参勤交代で藩主が江戸在府中の時だけ、単身赴任の家臣が大勢住んでいた。彼らは屋敷内の長屋で共同生活を送っていたが、屋敷の外に出ることは厳しく制限された。「お上りさん」で江戸の事情に疎かったので、江戸市中でトラブルを起こすことが少なくなかった。屋敷内での生活を強いられた家臣の楽しみは囲碁・将棋、そして貸本を読みふけることに限られた。
2.下りもの
江戸中期までは、経済や文化面で江戸(関東)が上方(関西)に後れを取っていて、上方の出版業が江戸の出版業を完全にリードしていた。江戸の人々は、京都や大阪など上方圏で製造された品を、何であれ「下りもの」と称して重んじた。嗜好品の大半を下りものに依存していた。江戸の書物問屋のほとんどが、上方資本が設立した店舗、もしくは上方の本屋の出店だった。
3.地本
江戸が百万都市となった江戸中期にはいると、巨大人口を背景とした需要の拡大が追い風となって、江戸の出版業は急成長を遂げる。ついには、上方での出版点数を超えた。
この急成長を牽引したのは、大衆向けの草双紙(絵入りの娯楽読み物)、浄瑠璃本、絵本、錦絵(浮世絵)などの1枚刷りの出版物。これらは江戸生まれの出版物、すなわち地物という意味で「地本」と呼ばれた。地本を取り扱った地本問屋も、書物問屋と同じく版元としての顔を持っていた。
c.書店耕書堂の開店
1772年、重三郎、23歳は、茶屋を営んでいた重三郎の義兄・蔦屋次郎兵衛の援助のもと、吉原の入口に書店耕書堂を開店した。「書物を耕す」という屋号には、出版界に刺激を与えて新機軸の書物を刊行したい、さらには出版界そのものを変えたいという、重三郎の熱き志が込められている。
当時の書店は、本を売るだけでは経営は苦しく、並行して貸本業を展開することで経営を成り立たせていた。重三郎は、貸本屋として遊郭や茶屋などに足繁く出入りすることで更なる事情通として吉原にコネクションを張り巡らせた。貸本業を通じて得た情報やコネクションを、出版業で最大限に活用していく。
1.開店当時は小売業のみ
1773年より「吉原細見」を販売。「吉原細見」は、江戸の隠れたベストセラー。吉原の各町ごとに、遊女や、遊女の源氏名・位付け・揚げ代、芸者や茶屋の名前、さらにはイベント日、名物なども紹介された、春と秋の年2回刊行される情報誌。
2.改め役
重三郎は遊郭に詳しいことが決めてとなり、1774年に鱗形屋孫兵衛版「吉原細見」の改め役、最新情報を盛り込む役割を委託される。
遊女の等級には名称があり、時代と共に変遷がある。当初は太夫、端女郎の2階級制だったが、吉原移転後に格子女郎、局女郎、切見世女郎、散茶女郎が加わり6階級制となる。その後、呼出、昼三、付廻し、座敷持の高級遊女を指す花魁と、部屋持、切見世女郎の新造の6階級制に変わった。
揚げ代は、呼出が一番高くて昼と夜の通しで金1両1分。階級が下がるにつれて安くなり、座敷持は金2分。夜だけの場合は半額。
3.吉原と持ちつ持たれつの重三郎
重三郎のバックボーンであり、飛躍の決め手ともなった吉原は、江戸の一大文化街。
①吉原の利権を脅かす岡場所のにぎわい
江戸では吉原でのみ遊女商売が公認され、それ以外では一切禁止されているはずだった。しかし、それは全く守られていなかった。非合法な遊女商売が行われた場所を岡場所と呼び、寺社の門前や江戸4宿(品川、板橋、千住、新宿)で半ば公然と行われていた。岡場所の魅力は、揚げ代の安さ、吉原の半額以下。面倒な手続きも不要。
②吉原のメディア戦略を担う
吉原は宣伝に力を入れ、出版物を通して集客アップを目論む。吉原からすると、重三郎は頼りになる版元だった。重三郎は、吉原をテーマとする出版物によるPR活動を通じて、集客アップに貢献していた。重三郎が出版した山東京田の洒落本は吉原を舞台にした小説だから、ヒットすればするほど吉原の宣伝になった。
③文化サロンとしてのイメージを発信する吉原
吉原は単なる遊興の場ではない。江戸の文化人の社交場、サロンとしての顔を持つ江戸有数の文化街だった。重三郎は、そんな環境を最大限に活用し、文化人との人脈を拡大し、書籍化へと繋げた。吉原で文化人との交流を深めることで重三郎の出版事業には追い風が吹いたが、かたや吉原は、重三郎のお陰で文化サロンとしてのイメージアップになった。いわば、重三郎と吉原はウィンウィンの関係だった。
d.日本橋への進出と問屋株の取得
「吉原細見」が独占状態となった1783年9月に、日本橋の通油町にあった地本問屋・丸屋小兵衛の店舗とその蔵を買い取る。丸屋が持っていた地本問屋の株を掌中に収めた。「吉原細見」を販売していた吉原の入口の店は徳三郎に任せ、重三郎は日本橋に耕書堂を新規開店した。一介の書店・版元から江戸の出版界を牛耳る地本問屋へとジャンプアップを遂げる。
江戸には「日に千両」1日に千両もの大金が落ちた場所が3カ所あった。朝に日本橋の魚河岸、昼に日本橋など(後に浅草)の芝居町、夜に茶屋などの飲食店も含めた吉原遊郭。
e.書物問屋株の取得
寛政の改革では、出版物の取り締まりが強化されたが、全てのジャンルが冬の時代だったわけではない。学術書や教訓を説く出版物の需要は高まっていた。
重三郎は、1791年に処罰され、改革路線を風刺する作品は出版できなくなるが、改革路線に沿ったジャンルの強化を迫られることを予期していたかのように、処罰される直前に書物問屋の株を手に入れていた。
本を出版する場合、学術書など堅い内容の本は書物問屋、黄表紙などの柔らかめな内容の本は地本問屋の許可をとる必要があった。学術書の売り上げを伸ばすには、書物問屋となるのが一番の早道。
f.志半ばで人生を終える
1797年5月6日夕刻i旅だった。享年48。重三郎は、江戸のメディア王と呼ぶにふさわしい事績の数々残したが、それは田沼時代であったことを抜きに語ることはできない。
g.出版界にデビュー
重三郎にとり異業種だった出版業を始めるに際しては、堅実な経営手腕が確認できる。ハイリスク・ハイリターンな出版物は自重し、着実に利益を上げようとしている。先ずは、生まれ育った吉原に関する本からスタートした。遊女屋の注文を受けて製作した『一目千本』や年2回の定期刊行物である「吉原細見」は、リスクの少ないものであり、吉原関連本は経営の柱の一つとなる。次に、安定した売り上げが見込める富本節の正本・稽古本と往来物の2つのジャンルに手を伸ばし、経営基盤を固める。
1.『一目千本』を出版
重三郎が最初に出版した書物は、1774年7月刊行の遊女評判記『一目千本』だった。吉原の遊女を挿し花に見立てて紹介する絵本形式の書物だが、店頭に並べて購入を期待するものではなく、遊客への贈答用として、遊女屋、引手茶屋、高級遊女からの注文を受けて製作した。この方式は売れ残るリスクを回避できるメリットがあった。
2.「吉原細見」の出版
鱗形屋は、1776年に手代が起こした重版事件で処罰され、経営が不安定となり、この年の秋の「吉原細見」も刊行できなくなる。重三郎はその間隙を突く形で、1776年に「吉原細見」の出版に乗り出す。機を見るに敏な重三郎の本領が発揮された最初の事例だった。蔦屋重三郎版の「吉原細見」は人気を呼び、蔦屋の主力商品となる。
7年後の1783年には独占状態となり、鱗形屋版は駆逐された。その人気の理由は2つ。1つは、他に比べて分かりやすく見やすい内容だった。吉原の内部を各町ごとに上下に分けた上で、遊女屋の並びを記したスタイルに変更した。もう一つは、サイズを大きくし紙の枚数を減らした分、経費を安く抑えられ安価で販売できた。
版元たちは、同じものを出版する重版、類似したものを出版する類版の禁止を申し合わせ、版権を互いに認め合っていた。どんな書物でも作者と版元の実名が奥書に記されていた。
h.蔦屋重三郎が世に送り出した文化人
名プロデューサー。作家では山東京伝など。若き日の曲亭馬琴や十返舎一九も重三郎の店で働いていた。浮世絵師としては喜多川歌麿、東州斎写楽たちを世に出した。若き日の葛飾北斎にも注目し、その作品を出版している。
1.重三郎が改革を風刺
出版界の動向をしっかりリサーチし、経営基盤を固めた1780年より、攻めに転じ、黄表紙の出版を開始した。黄表紙は、草双紙(庶民向けの絵入り読み物)の一種。
重三郎が総合出版社としての版元に成長したきっかけが、1780年以降に参入した黄表紙の出版、そして、人気作家の朋誠堂喜三二と恋川春町を専属的な作家としたこと。
春町も喜三二も、当初は地本問屋の鱗形屋から出版していた。経営を立て直せず出版界から退場した鱗形屋に代わって、重三郎はその遺産を受け継ぎ、2人を専属作家のような立ち位置とすることに成功した。そして、世渡りがうまく、作家から目をかけられ、ビジネス力が抜きんでていたので、次々とヒット作を出版することができた。
その後、寛政改革の時代に入り、改革政治への不満が噴出し始めると、タイムリーな話題を取り上げる黄表紙の特長を活かし、文武奨励の方針を茶化す2つの作品を出版する。重三郎の見込み通り、寛政改革を風刺した黄表紙は、ベストセラーとなる。しかし、代償は大きかった。定信に睨まれて朋誠堂喜三二は筆を折り、恋川春町はこの世を去った。
①朋誠堂喜三二
朋誠堂喜三二はペンネームで、その正体は秋田藩士留守居役の平沢常富、れっきとした武士。1788年1月に『文武二道万石通』を執筆した。
源頼朝が重臣・畠山重忠に命じて、大名や小名を文雅の士と武勇の士にふるい分け、どちらにも入らない「ぬらくら武士」に対しては文武二道に精進するよう諭すストーリー。ぬらくら武士が慌てふためく様子が面白おかしく描かれた作品。表向きは鎌倉時代の話しだが、頼朝が少年として描かれ、畠山重忠が梅鉢紋の袴の姿で描かれている点がミソ。梅鉢紋は定信の紋所であり、畠山重忠は定信なのだと読者が連想できる仕掛けが施されていた。
江戸市中に流れていた風聞としての話し。定信が秋田藩佐武候に会った時に、そこもとの後家来で草双紙を作っているものは小説の執筆の才は非常にあると聞くが、家老の器ではないとお話しになった。そのため、佐武候は国元に帰らせた。喜三二は家老ではなく留守居役の間違いである。実際、喜三二は帰国まではしていないが、執筆活動の自粛を余儀なくされる。文芸活動までやめたわけではなく、手柄岡持の狂名で狂歌などを作り続けた。
②恋川春町
恋川春町も、喜三二と同じく武士で、その正体は駿河小島藩士の倉橋格。
1789年1月に『鸚鵡返し文武二道』を刊行。平安時代、天皇を補佐する管秀才(菅原道真の子)は武を奨励した。武勇の競い合いが行き過ぎ、京都の町では騒動が起きてしまう。そのため、文を奨励して聖人や賢人の教えを学ばせたところ、今度はその教えを勘違いしてたこ揚げが流行ったり、鳳凰が姿を見せる現象も起きるという滑稽な物語。文武奨励の方針に鸚鵡返しのように愚直に従ったところ、社会に混乱が生じたというストーリーであり、管秀才は定信がモデル。定信には『鸚鵡詞』という著作があり、これを意識したタイトル。
内容的には過激で、幕政批判の作品と解釈されても仕方なかった。そんな作品が世間の喝采を受けることは、定信にとり到底受け入れがたいことであった。その年の4月に主家を介して定信から出頭命令が下った。春町は病気を理由に拒否する。しかし、繰り返し出頭を求めたため、対応に苦慮し、7月に春町は突然この世を去る。享年46。
2.浮世絵師
浮世絵師でいえば喜多川歌麿と東州斎写楽が双璧。写楽の作品は、浮世絵に限られるが、歌麿は、重三郎の主力作品となった狂歌本や黄表紙の挿絵も数多く手がけており、重三郎の出版活動においてなくてはならない存在だった。
①喜多川歌麿
浮世絵界は、北尾重政と勝川春章が牽引していた。重三郎が頼りにしていたのは、北尾重政。重政には、政演と歌麿の2人の弟子がいた。重三郎は、当初、政演の画才を評価していたが、文才を発揮させたいと目論み、山東京田として文章がメインの洒落本を執筆させた。京田は、洒落本の第一人者となる。
一方、歌麿は政演に代わり、1770年にデビューし、蔦屋の出版物のメイン絵師となる。重三郎は歌麿に市井の看板娘を描かせた。歌麿が描いた娘たちは一躍江戸のアイドルになる。一目みたい者たちが店に押し寄せた。定信は風俗の乱れにつながることを危惧した。1793年8月、モデルとなった女性の名前を浮世絵に書き入れることを禁止した。モデルを特定できず、アイドル化することもないと考えた。歌麿はこれに対し、判じ絵で対抗する。重三郎のアドバイスを得て、絵でモデルの名前が分かるように工夫し、規制の網をくぐって描き続けた。判じ絵も封じられ、市井の娘がアイドル化する現象も終焉を迎える。
②東州斎写楽
重三郎は美人画では歌麿をプッシュし、役者絵では写楽を売り出そうと目論んだ。写楽は浮世絵界に彗星の如く登場したが、10ヶ月後には忽然と姿を消した。活動期間は1794年5月(この年には閏10月がある)から翌年1月までの10ヶ月に過ぎない。作品数は140点を超える。9割以上が役者絵で、相撲絵と武者絵が若干。全て重三郎が出版している。
重三郎は、物量作戦で無名の絵師の作品に注目を浴びるように仕向けた。また、光沢感やグラデーションを演出する効果がある黒雲母摺の手法を用いた。描き方は、眉、目、鼻、口の表情がデフォルメされていることが特徴。浮世絵界に新風を吹き込む。写楽の特長は真に迫った描写にあったが、美化することなく、その役者のありのままの容姿を描き、リアル過ぎたため、描かれた役者やファンから反発を買う。役者やファンの意向に忖度したことで、写楽の作品から個性が失われ、写楽自身も創作意欲を失い、デビューから10ヶ月で浮世絵界から消える。
B.蔦屋重三郎が活躍した田沼時代とは
田沼意次は、賄賂政治家のイメージが今なお強いが、実像は改革者そのもの。
a.将軍の厚い信任
1.父の代に幕臣となる
田沼家は紀州藩に仕えていた。1705年に吉宗が藩主の座に就くと、父・意行は吉宗の側近くで警護に当たる小姓に取り立てられる。1716年に紀州藩主・徳川吉宗が8代将軍の座に就いたことにより、意行は紀州藩士から幕臣(旗本)に編入され、将軍の小姓となる。
吉宗は、将軍就任に伴い、205名の紀州藩士を幕臣に加えた。なかでも、隠然たる政治力を持つ御側御用取次などの御側衆、将軍の警護に当たる小姓衆、将軍の身の回りの世話をする小納戸衆といった側近団を、紀州藩主時代からの気心の知れた者たちで固めた。意行は、1734年8月、小納戸頭取に昇進する。将軍の御手許金を管理し、将軍が鷹狩りなどで場外に出る時は現場責任者を務めた。この抜擢には吉宗からの厚い信任が読み取れる。だが、同年12月18日に47歳で死去。
2.田沼意次は9代将軍・家重の側近として重用される
意次は1719年に旗本・田沼意行の長男として江戸で生まれ、1734年3月13日に次期将軍・家重の小姓に取り立てられる。家督相続前のことであり、意行に対する厚い信任が背景にあった。
1735年、父の死去に伴い、17歳の意次は家督を相続する。父と同じく600石を家禄として与えられる。父と同じく主君から厚い信任を得る。
1745年9月、吉宗は将軍職を家重に譲る。意次は引き続き家重の小姓を努め、1746年7月に小姓頭取に昇進する。
1747年9月、御側御用取次見習に抜擢され、吉宗が創設した「足高の制」に基づき2千石が与えられる。1752年7月、御側御用取次に昇格し、1755年9月には5千石の大身旗本となった。
【足高の制】
この時代、幕臣も藩士も幕府や藩から保証された家禄で、任命された役職をこなすための出費を賄うのが原則だった。それでは家禄の少ないものは能力があっても、出費が大きい重責を努めることができない。そのため、1723年に吉宗は人材登用の一環として「足高の制」を採用する。役職別に役高を定め、家禄が役高を下回る場合、在職期間中は不足分を支給した。
【御側御用取次】
御用人は、5代将軍・綱吉の時に新設された。分家から将軍の座に就いたため、館林時代からの側近を起用することで、将軍の権力を強化しようと目論む。本来、老中との伝達役に過ぎなかったが、牧野と柳沢は将軍の権威を後ろ盾に政治力を発揮した。御用人政治のはじまり。吉宗は、反発の強かった御用人を廃止し、御側御用取次の役職を新設したが看板を変えるだけだった。
3.9代将軍・家重の特命により意次が評定所での審理に加わる
1758年に、老中、若年寄、大目付、寺社奉行、勘定奉行を巻き込んだ疑獄事件が発覚し、事態を重大視した9代将軍・家重は、1758年7月に幕府の最高意思決定機関たる評定所での審理を命じ、9月3日には意次に審理に加わるよう指示した。評定所は3奉行(寺社・町・勘定)や大目付・目付が構成メンバーであり、御側御用取次が加わることは前例がなかった。同時に家重は、箔をつけさせるために大名に取り立てた。それだけ意次に対する信任が厚かった。40歳の意次は1758年9月に遠江国相良藩1万石の大名となる。
家重の特命により意次が審理に加わった結果、事件に関係した老中・若年寄たちは改易、逼塞、罷免などの厳罰に処せられた。この疑獄事件を手際よく処理したことで、意次の政治力に注目が集まり、幕府の実力者として認められていく。
4.10代将軍・家治から政治の全権を委ねられる
1760年5月、家重は大病のため将軍の座を嫡男・家治に譲った。これに伴い、家重の側近団は本丸御殿を去った。ところが、親孝行な家治が家重の指示に従ったから、意次は本丸に留まり、18歳年下の新将軍・家治の御側御用取次を努める。これは異例なこと。その後も重用された意次は、1767年には御用人へ昇進し、石高も2万石となった。
1769年8月には御用人から老中格に昇進する。注目すべきは御用人ではなくなったにもかかわらず、その職務を続けるように命じられた。1772年1月には老中に昇格する。老中でありながら、御用人も事実上兼任した。これこそが意次が権勢を振るうことが出来た一番の理由であり、田沼時代が到来した背景でもあった。
老中は政治向きについて決裁を仰ぐ際、直接将軍には拝謁できないシステムとなっていた。しかし、老中と御用人を同一人物が努めれば、思いのままに政治を動かすことは可能であった。老中に昇任した意次は、御用人としての職務も家治から許されることで、政治の全権を握った。まさに将軍から受けた絶大な信任の賜物だった。
b.時代の先端を行く財政政策
1.年貢米からの脱出
老中として幕政のトップに立った意次の最大の課題は、幕府の財政難を克服すること。年貢米に依存する財政構造をそれ以外の財源に目を向ける。意次は、商工業者による株仲間の結成を積極的に認めることで運上・冥加金の賦課対象を拡大し、歳入の増加を図った。株仲間に所属する商人や職人は営業を独占でき、その株を所有していないものはその商売や職業に関われない仕組みを構築した。独占権を認められる代わりに、冥加金の上納を義務づけた。事実上の営業税。合わせて、流通や物価のコントロールによる物資の確保を目指した。
【国産化政策の推進と産業育成】
吉宗が産物の国産化に力を入れた背景には、金銀の国外流失問題があった。1648~1708年の間に金239万7千6百両と銀37万4千229貫目が中国産の生糸や絹織物を購入するための支払に消えた。また、1601~1708年までの107年の間に幕府が鋳造した金貨の4分の1が銀貨の4分の3が国外に流失した。
c.意次につきまとう賄賂政治家の風説
1.規制緩和と利権
意次は、規制を緩和することで幕府の財政難に対応しようとした。民間の献策を積極的に取り入れ、幕府財政の構造改革を目指し、江戸の社会が活性化したのは間違いない。自由な雰囲気に包まれた時流に乗って、出版人としての能力を存分に発揮したのが、意次と同じ成り上がり者の重三郎だった。
改革者の顔を持っていたが、当時の社会は規制も緩く、関係部局への働きかけの過程で賄賂が横行したのもまた事実である。利権を見出した商人が賄賂を頻繁に贈ったため、政治の腐敗が進行してしまう。結果、賄賂政治家という意次の悪評が定着することになる。
2.付け込まれた新興大名・田沼家
一代で老中にまで上り詰めたこともあり、意次の家臣団は寄せ集めにならざるを得なかった。家臣団のトップたる家老の井上寛司や用人の三浦庄司にしても農民から取り立てられたものだった。田沼家は、厳格な身分制の縛りとは無縁な大名家であった。
意次は、家臣団を十分コントロールできないまま、補佐役の家老や用人が商人たちにつけ込まれてしまう。その結果、賄賂政治家として歴史に名を残すことになった。
d.なぜ田沼時代は終わってしまったのか?
1.天明の大飢饉(1781~89年)
庶民が天変地異や物価高騰に苦しんだ時代。社会や政治が混迷を深める中、田沼意次は幕政のトップの座から転げ落ちて失脚し、田沼時代も終焉を迎える。
2.嫡男・田沼意知刺殺事件
意次にとり、嫡男・意知にその身代を受け継がせることは悲願だったに違いない。そのため、意知の地位を引き上げた。まだ家督を継がない部屋済の身分だったにもかかわらず、1781年12月、33歳の時に奏者番に起用し、1783年11月に若年寄に抜擢した。その上、意知は意次と同様に御用人を事実上兼務する立場とした。こうして、意次・意知親子は揃って権勢を振るうことになった。意知が老中に昇格する道が引かれ、田沼政権は親子2代に渡って続くことが見えてきた。意次は正に絶頂の時を迎える。
1784年3月24日、意知が旗本の佐野善左衛門に突然斬りつけられた。意知は、喧嘩両成敗の対象となるため脇差しを抜かずに、鞘で受け止めたが防ぎきれず、手傷を負った。佐野は、桔梗の間に逃げた意知を追いかけて深手を負わせる。これが致命傷となった。世間の同情は、不慮の死を遂げた意知には集まらなかった。
3.将軍・家治の急死
意次より18歳年下だった家治は、1786年8月に入ると俄に重い病気に罹る。快方の兆しが一向に見えず、意次は奥医師の交代を決める。ところが急激に悪化し、25日に生涯を閉じる。享年50。
家治が死去すれば、意次は権力の源泉を失い、老中辞職に追い込まれた。意次の意を受けて、新たな財源づくりや新規事業の推進役となっていた勘定奉行の松本秀持も罷免されたことは、田沼主導の幕政に誤りがあったと、幕府が認めたことを意味した。これらの処罰の裏には、徳川一門による強い申し入れがあった。
4.失意の死
意次にとり、自分を敵視する政敵・定信が老中に起用されたことは大きかった。これ以上の処罰はないと思っていたが、定信が意次に1787年10月2日、在職中の不正を理由に2万7千石の没収、隠居、蟄居謹慎が申し渡した。幕府は意次の政治に対し、はっきりNOを突きつけた。1788年7月24日、意次は失意のうちに70歳でこの世を去る。
C.松平定信はなぜ蔦屋重三郎を処罰したのか
a.松平定信
定信は、1758年12月27日、田安家初代当主・宗武の7男として生まれた。吉宗の孫にあたる定信は将軍の座に就くことも夢ではなかったが、1774年3月に譜代大名の白川藩主・松平定邦の養子に迎えられた。ところが同年9月に実家田安家の当主だった兄の治察が死去。田安家では定信を白川藩から戻そうとするも、田沼政権はこれを認めなかった。田安家は当主不在となり、将軍レースから脱落する。
その後、家治は、嫡男・家基の急逝を受けて、一橋家当主・治済の長男・家斉を養子に迎えることを決める。養子選定に関わったのは意次。家治、定信、治済はいずれも吉宗の孫にあたり、いとこ同士の関係。定信は、田安家に戻って当主になっていれば、将軍継嗣候補として11代将軍も夢ではなかった。その夢を砕いた意次に激しい敵意を抱いていた。
実家の田安家に戻れなかった定信は、1783年26歳の時に松平家の家督を継ぐ。おりしも、天明の大飢饉により東北各地では餓死者が続出するが、定信が藩主を務める白川藩では餓死者を一人も出さなかったため、名君としての評判を得る。
b.松平定信の台頭
1.意次失脚後の激しい政争
家治の死を受け、家斉が将軍の座に就く。まだ14歳であり、家治の遺言として、徳川一門の御三家と御三卿に後事が託されていた。幕政に関与しないのが原則であるものの、家斉が若年ということで特別に参与することになる。9月6日、御三家に、7日、御三卿の一橋家と清水家に遺言が伝えら、御三家と一橋家が幕政に参与した。
2.徳川一門による松平定信の擁立運動
宿敵・意次の失脚を受け、定信は老中の座を目指した。1786年12月15日に御三家が定信を老中に推挙したが、1787年2月28日に幕閣から拒否される。幕政に参与させたとはいえ、老中人事にまで介入することを拒んだ。
3.江戸の米騒動が引き起こした政変
江戸では、1786年7月以来の米価高騰が続いていた。幕府は事態打開の方策が立てられず、町人たちの恨みが爆発する。天明の打ち壊し。1787年5月12日に大坂で、20日に江戸で、米問屋の居宅や蔵などが壊される事件が起きた。江戸の治安を預かる町奉行所は、手をこまねくばかりで何ら対応できなかった。そのため、数日間江戸は無政府状態に陥る。
前月、4月15日に将軍の座に就いたばかりの家斉は、江戸の異変を御庭番からの報告で知る。御側御用取次を務める横田準松は、平穏無事と答えるばかりだった。真実を伝えなかったことに激怒し5月29日に横田を罷免する。定信の老中起用を強硬に反対していた横田の罷免により風向きが変わり、幕府は定信の老中起用を受け入れた。
6月19日、30歳の定信は老中に起用され、その首座を務めることになる。7月6日に勝手掛を兼務し、幕府の財政を握る。老中に就任した直後の定信は、意次の政治を全否定することで、世間の期待感は非常に高かった。
4.緊縮財政と文武奨励による社会の引き締め
定信は強い危機意識のもと改革に臨む。米騒動によって幕府の支配体制が大きく揺らいだ以上、社会の統制強化は待ったなしの課題だった。吉宗に倣って幕府の歳出に大なたを振るう。聖域だった大奥の経費も3分の1にまで減らした。祖父の亨保改革に倣い、寛政改革を断行する。幕臣を対象に学力試験や武芸の試験が行われ、優れた人材を登用した。
定信は田沼時代に認められた株仲間や運上・冥加金の徴収を廃止する姿勢を示す。吉宗が善で、意次が悪という図式。だが、実際のところはポーズに過ぎず、廃止はごく一部に留まる。むしろ、田沼時代以上に商業資本と癒着することで、幕府の財政難を克服しようとしている。寛政改革は意次の政治との連続性が際立っていた。
江戸の町については、華美な風俗に事細かく規制を加えた。当初は歓迎していた武士も、町民も、農民も、日常生活にまで立ち入って規制したため、窮屈な政治への不満を募らせ、反発した。
c.言論統制の強化
1.出版統制の強化
定信は、黄表紙や狂歌などを通じての寛政改革を皮肉る動きに対して断固たる姿勢を示す。それだけ出版メディアの力を恐れた。その影響を最も受けたのは、売れっ子作家に改革政治を風刺する作品を書かせて売り上げを伸ばした重三郎だった。
出版界に対する引き締めは、追い打ちを掛けるように出版取締令を次々と布告する。1790年5月に書物問屋仲間に向けて新規出版禁止、どうしても出版したければ町奉行の指図を受けよとの出版取締令を発した。町奉行が出版統制の根拠となる基本法を提示し、書物問屋に検閲業務を委託した。10月には地本問屋仲間でも一連の検閲業務にあたることになった。
2.萎縮する出版界
①太田南畝にも危機が迫る
重三郎の見込み通り、寛政改革を風刺した黄表紙は、ベストセラーとなる。しかし、代償は大きかった。定信に睨まれて朋誠堂喜三二は筆を折り、恋川春町はこの世を去った。
もう一人の売れっ子作家、狂歌界を牽引した太田南畝も失う。
禄高の少ない御家人である太田南畝が、吉原などで交流を深めた田沼派の役人の一人、旗本土山宗次郎がいたから遊興できた。また、重三郎も、南畝たち人気作家と交流を深めることで出版へと繋げた。その際の遊興費は必要経費として負担していた。
ところが、1786年8月に意次が老中を辞職し、処罰を受けると、土山宗次郎も左遷され、公金横領により斬首となる。大きな衝撃を受け、身の危険を感じた南畝は、狂歌を読むことを一時止めてしまい、学問に励んだ。幕府からの危険視されることを避けると共に、時流に乗って立身出世する狙いもあった。1794年に人材登用のために実施された学問吟味で、御家人部門において首席の成績を収めた。
3.幕府に挑戦した重三郎
重三郎のプロでユースにより洒落本会の第一人者となった山東京伝を、説得して断筆の意思を撤回させる。発禁本と見なされても仕方ない洒落本の出版に踏み切ったことが、町奉行に幕府への挑戦と受け取られた。
1791年3月に北町奉行所が出版取締令違反として京田の洒落本3冊に絶版の判決を下す。作者の京田、版元の重三郎、出版を許可した行事役の地本問屋の吉兵衛と新右衛門、監督不行届として父の5人が処罰された。
重三郎にとつて身代が傾くほどの罰金ではなかったが、江戸の出版界としても、洒落本の自重などの出版活動に影響が出た。
d.老中退任後の定信の意外な顔
1793年7月に定信が老中を退任した後も、定信が抜擢した老中や実務を執った役人たちはそのままで、改革政治の方針は変わらなかった。
定信が幕府トップの座を退いた時はまだ36才で、その後の人生で意外な顔を見せている。文化事業を展開し、後世に貴重な遺産を残す。幕政にタッチしていない無役の定信は、寛政改革では要注意人物とされた南畝、京田、喜三二の3人の才能を評価し、文化事業に活用した。
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