のぼるくんの世界

のぼる君の歯科知識

「サル化する」する人間社会

2025年01月26日(日)


山極寿一著 京都大学総長 理学博士
集英社
2014年7月30日発行
1100円
 人間社会のリーダーは、ボス化している。
 サル社会は、「上下関係」「優劣」「勝ち負け」がハッキリとしている。ボスザルを頂点としたピラミッド序列。自分の地位を脅かそうとする相手を徹底的に排除する。それも、力や地位を利用した方法を取る。食べる時は分散して、互いに目が合わないようにする。
 一方、ゴリラの社会には「優劣」がない。喧嘩に「勝ち」も「負け」もつけない。群れのリーダーがメスや子供と食物を分け合うのはごく「当たり前」のことで、しかも「向き合って食事をする」。

 絶滅の人類史
kojima-dental-office.net/blog/20181110-10692#more-10692
 6.9.22.【13】人間組織は「ゴリラ社会」から「サル社会」になりつつある
kojima-dental-office.net/20240922-7693
A.ゴリラの魅力
 a.タイタスとの再会
 2008年、26年ぶりにタイタスに会いに行く。出会った頃は6歳だったタイタスも、もう34歳。木の洞で一緒に眠るほど心を開いてくれたタイタスは私のことを覚えているだろうか。
 近年の観光客向けにツアーでは、ゴリラと対面するのは1時間だけ。しかも7メートル以上離れていなくてはならない、という決まり事が作られていた。26年ぶりに出会ったタイタスはずいぶん老けていた。動作はゆっくりしていて目に光がなかった。タイタスの姿を見つけて、1対1でジーッと目と目とを合わせる。「グッ、グフーム」と私は挨拶した。すると、タイタスも「グッ、グフーム」と答えた。少年のような顔つきになり、目がクリクリとしてきた。次に両手を上げて仰向けに寝ころんだ。大人のオスはお腹も大きく体も硬くなるので、うつぶせか横向きに寝るのが普通なのに、小さい頃の寝相そのまま。 次に、近くにいた2歳か3歳の子どもゴリラ2頭と取っ組み合って遊び始めた。しかも「グフグフグフ」と笑って。年老いたゴリラのオスはめったに遊ばないし、笑い声も立てない。タイタスは私の顔を見て、思い出すうちに昔の自分に戻っている。「子どもの頃に一緒に遊んだ、お前だな、楽しかったなあ」と私に全身で伝えてくれているようだ。人間のように言葉を持たないゴリラは、心だけでなく体全体で過去に戻るのかもしれない。タイタスは私のことを覚えていてくれた。
 翌年の2009年、寿命を終えた。亡くなる前にタイタスに再会でき、彼の記憶の中に自分の姿を確認できたことは、私にとって非常に大きな喜びだった。
 b.誰も負けず、誰も勝たないゴリラ社会
 ゴリラには優劣の意識がない。この点でゴリラは人間ともサルとも異なる。ゴリラの社会には、「勝ち負け」という概念がない。群れの仲間の中で「序列」を作らないという特徴がある。ゴリラは誰を相手にしても「負けた」という態度を取らない。そんな感情もないし、自分の立場が相手よりも下であることを示す表情も備えていない。子どもでもメスでも、体力の差によって「参った」という態度で相手に媚びることはない。また、ゴリラは、じっと相手の目を見つめる。威嚇されても相手の視線を避けない。
 ニホンザル社会には完全なヒエラルキーがある。有意なサルは肩の毛を逆立て尻尾をピンと上げてのしのしと威張って歩く。劣位なサルは、自分が劣位であることをいつも態度で示す。優位なサルに睨まれたら、「自分はあなたへの敵対心は持っておらず、恐れている」という気持ちを込めて、口を開けて歯茎を出す表情を浮かべる。また、サルの社会では、目を合わせることは敵対や挑戦を意味するから、優位なサルからの視線を避けて横を向く。
 1.食事風景
 ゴリラは、サルには見られない群れの仲間と一緒に食事をする。ゴリラには優劣の意識がないから、平和的に食事をすることができる。顔を向けあい、視線を交わしながら食事をする。ゴリラにとって視線を合わせることは大切なコミュニケーション。食事をする時にも互いの顔が確認できる距離で集まる。まるで人間が大勢で食卓を囲んでいるかのような情景。
 しかし、序列のあるサルの社会では、優位なサルの前で劣位なサルは決して食べ物に手を出さない。劣位な個体は食べているところを見られると、優位な個体に食べ物をとられてしまうから、優位な個体の目の前ではものを食べることはない。サルの社会では、相手の目を見ることは威嚇を表すから、食べる時は分散して、互いに目が合わないようにする。サルは食べ物を分け合うことはない。
  ①食べ物を分け合うという行動
 子どものゴリラが、大人のゴリラに「それ、ちょうだい」とねだって、食べ物を分けてもらうこともある。ゴリラは、相手の前にぽんと置いて食べ物を分け合う。
 チンパンジーも分け合うが、行儀のいいやり方ではなく、「物乞い行動」と名付けられている。
 人間は、ゴリラ以上に食べ物をコミュニケーションの手段として多用している。ゴリラは近親間や血縁関係のある者同士でしか食べ物を分配しないが、人間は、さらに進んで、見知らぬ相手とも食事を共にし、食べ物を分かち合うことができる。食べ物の分配行動は、人間性や、人間の社会の要となるものの一つだと言える。
 2.喧嘩
 ゴリラの喧嘩は、誰も負けず、誰も勝たない。互いに平等なところで決着がつく。喧嘩をしても、じっと見つめ合って和解する。ゴリラは仲直りする時、対面してじっと顔を突き合わせるという解決方法をとる。これを「覗き込み方法」と言う。チンパンジーのように相手と抱き合ったり、毛繕いしたりしない。ただじっと顔を寄せて覗き込むだけ。しばらく見つめ合っていると、ふっと緊張が解ける瞬間があり、気が済んだように自然に離れていく。
 もうひとつ、ゴリラの仲直りに関して興味深いのは、喧嘩の当事者だけではなく、第三者のもう1頭が喧嘩した2頭の間に割り込んで仲裁する。大人のオス同士の喧嘩には、メスや子供が介入して仲裁する。力の優劣がないので、堂々と割っては入れる。また、ゴリラの喧嘩の仲裁は平和的。第三者はどちらにも味方しない。
 多くのサルは、ゴリラとは正反対で、勝ち負けの世界を作る。サル社会は純然たる序列社会。争いが起これば、大勢が強いものに加勢して弱いものをやっつけて、喧嘩を終わらせる。
 人間は本心では相手に負けたくなくても、将来の勝ちを見越してその場では負けたふりをすることがある。ところがゴリラにはそういう面が一切なく、絶対に負けはない。平和的な性質に触れると、ゴリラが人間よりも優れていると感じる。
 【瞳によるコミュニケーション】
 目は本来急所で隠したい部分なので、類人猿やサルには白目がない。霊長類の中で唯一、人間だけが白目を持っている。黒目ばかりだと何を考えているか分からないが、白目があると、視線がどちらに向いているのか分かってしまうので、表情や行動が読める。これは、コミュニケーションには有功だが、捕食者に対峙する時には大変なデメリット。
 人間は、進化の過程で道具を使用するなどして他の動物からの脅威から身を守る術を得たから、白目のデメリットが低下した。白目を活用したコミュニケーション能力を進化させ、白目の動きを通して、相手の心の動きをつかむ。あまり近づきすぎると、逆に分からなくなるので、人間はゴリラほど顔を寄せ合わずに対面する。相手との程よい距離が必要。
 c.ゴリラは人間を受け入れてくれる
 ゴリラのすごいところは、相手を受け入れる能力。ゴリラを研究して思うことは、人間よりゴリラのほうがよほど余裕がある。私たちがゴリラを受け入れるより先に、ゴリラが人間を受け入れてくれる。ゴリラは人間の気持ちを読むことにかけては名人。これもサルとは違う。ニホンザルは、人間に馴れはするが人間を受け入れることはない。人間の気持ちを忖度しない。
 ゴリラは、私たちにゴリラ社会のルールを教えてくれる。やり方が間違っている時、ゴリラは「違う、そうじゃない。ゴリラはそんな風にしない」という目で私を見てくる。時には、「ゴホッ、ゴホッ」と咳のような声で私を叱ることもある。そうしたら、私は「すみません」と謝って、教わったとおりに行動する。そういうことを積み重ねていくと、どんどんゴリラと仲良くなっていける。こんなやりとりが成立するのは、霊長類の中でもゴリラだけ。
 ある時、雨宿りのため大木の洞に入って休んでいた。するとそこにゴリラの男の子、タイタスがやってきた。私の顔を覗き込んで中に入ってきて、私の膝に乗っかかってきた。さらには、顎を私の肩に乗せ体をすっかり預けてきた。そして私に抱かれて、いつの間にかすやすやと眠り始めた。これは私にとって貴重な体験だった。野生のゴリラがここまで心を開いてくれるとは、サルとはまかり間違ってもこんな触れ合いはない。
 例えば、日本のことをまったく知らない外国人がおかしなことをしたら、それを見て見ぬふりをする。これはサルで言う無視に近い。しかし、だんだん生活領域に入ってきたら、日本の生活のルールを彼らに教え始める。異文化の者同士で交流し合うためには、そういった作業が必要。そしてそれは、無視するよりずっと建設的。居心地を良くする方法を教えることで、互いに受け入れることができる。
 d.ゴリラは相手の気持ちを汲み取る
 ゴリラの群れは1頭のシルバーバックをリーダーとして、数頭のメスや子どもたちからなる。採食や営巣、休息や移動などはリーダーの動きに群れのメンバーが従う。
 ゴリラには「負けた」という表情はないが、「失敗した」という表情はある。ゴリラは内向的で、自分を外から見つめる能力がある。プライドもあり、仲間からどう見られるかを気にしているから、絶対に怖がっている様子は見せない。
 ゴリラは感情豊かな生き物。言葉がなければ相手を騙すこともない。ウソもない。素直な気持ちしかない。
  1.ゴリラには共感能力がある
 ゴリラとサルに見られる違いは、知能の違いではない、社会性の違い。ゴリラは相手をじっと見つめて、相手が何をしたいのか、自分が何を望まれているのかを読み取り、どういう態度をとるべきなのかと状況に即して考える。相手の目を見つめると言うことは、相手の気持ちの中に入り込むと言うこと。共感能力がゴリラ同士の関係性や社会を形作っている。
 一方、サルは、立場の優劣でとる態度が決まる。だから相手の表情を読む必要がない。
  2.ゴリラには遊ぶ能力がある
 遊ぶというのは高度な能力。相手を傷つけたら遊びにならないし、体格の差があっても成り立つようにしなければならない。どのくらいの力加減だったらいいかと判断する能力や、相手の気持ちを汲む共感能力が必要。遊びを通して、ゴリラは仲間と生きたいくための社会的な技を身につける。
 人間は霊長類の中でも一番遊び上手。次がゴリラ。霊長類では、一般的に遊びは子どもの特権で、思春期が近づくにつれて遊ばなくなる。ところが、ゴリラは思春期が過ぎても長々と遊ぶことがある。ゴリラは体の大きさにかかわらず相手と遊ぶ能力を持っている。
 笑い声は、遊びの時の力加減を伝えるためにも使われる。小さい方がよく「グコグコグコ」と楽しそうに笑う。この声を聞けば、「まだ力を入れてもいいんだな」と大きいほうが理解して、もう少し強い力で取っ組み合う。
 e.ゴリラとチンパンジーは、同じ熱帯雨林の中で共存できる
  生活圏を同じくするゴリラとチンパンジーは、食べるものがあまり変わらないが、互いに全く違う特徴を備えるように分化し、違う社会を作ったから喧嘩もせず共存している。
 チンパンジーとゴリラは食べ物は同じでも食べ方が違う。食べ方の違いは生態の違いではなく、社会の違い。チンパンジーは一頭でものを食べる。一度に食べる量が少ないので、何度でも同じ場所に来て、お腹が減った時に十分な量を食べる。一方ゴリラは集団でやってきて食事をし、食べ尽くす。だから、食べ物を求めて移動する。同じところには戻ってこない。
  1.人間にもかつては共存能力があったはず
 動物は進化の過程において、他の動物を排除するためではなく、むしろ共存するためにそれぞれの種の特徴をつくり出してきた。人間の本性も、もともと他の類人猿と共存できるような特徴を持っていた。狩猟採集民であった頃の人間は、自然や動物との間に境界を設けていなかった。しかし、人間はどこかの時点で共存をやめてしまった。いつからか人間圏というものを確立し、人間独自の社会性を育んでいった。
 f.ゴリラの分類
 ゴリラはニシゴリラとヒガシゴリラの2つに大別できる。前者はさらに西ローランドゴリラとクロスリバーゴリラ、後者は東ローランドゴリラとマウンテンゴリラの4亜種に分類される。ニシゴリラに比べ、ヒガシゴリラのほうが早くから研究が進んでいる。世界中の動物園で見られるゴリラは99.9%がニシゴリラ。発見が遅く、早い時期から保護が進んだヒガシゴリラは動物園に行かないで済んだ。
 野生ゴリラの生息域はアフリカ大陸の赤道直下の熱帯雨林に限られている。生息数はニシローランドゴリラがおよそ20万頭と最も多く、次に多いのがヒガシローランドゴリラ5千から1万頭。マウンテンゴリラは650から800頭。クロスリバーゴリラは250から300頭。
B.「サル化する」する人間社会
 人間の社会は、ゴリラ、サル、どちらの部分も備えている。もともと人間は、ゴリラと同じように負けるものを作らなかった。しかし、現代の人間はいつしかゴリラ的な価値観をなくし、加速的にサル社会化しているように感じられる。
 人間が人間らしさを保つために必要な家族をないがしろにし、個人主義が突き進んでいけば、社会は平等性を失っていくと想像できる。それは、優劣を行動原理とするサルの社会に非常に似ている。
 a.個人の利益と効率を優先するサル的序列社会
 サルの社会に近づくということは、人間が自分の利益のために集団を作ること。そうなれば、個人の生活は今よりも効果的で自由になる。しかし、他人と気持ちを通じ合わせることはできなくなってしまう。
 人間社会がサル社会になってしまったら、序列で成り立つピラミッド型社会、つまり人を負かし自分が勝とうとする社会になる。そんな社会では、人間の平等意識は崩壊する。
 今、日本では家族の束縛から離れて、自由で気ままに暮らそうとする人も増えてきた。それは、「人間が一人で生きることは、平等に生きることには結びつかない」という事実。家族を失い、個人になってしまってしまった途端、人間は上下関係をルールとする社会システムの中に組み込まれやすくなってしまう。
 今後、通信革命がすすめば、人間はどんどん自由になるが、同時にますます孤独になる。インターネットを通した繋がりが、かりそめの安心感を与えてくれることもあるかもしれないが、それは自分を無条件に守ってくれる家族的な繋がりとは全く種類の異なるもの。
 b.「家族」
 家族とは、人間の組織の中で最も古いもので、今でも機能している社会形態。私の考えでは人間性の根本を担う非常に重要な部分。
 動物全体を見渡してみても、人間のような家族を持つ種はない。鳥やオオカミ、サルは、一見、人間の家族に似たような群れを作るが、繁殖行動をきっかけの繋がりや子育て期間中のみなど、一時的なもの。それに対して、人間の家族は、一生涯にわたって続く。
 家族の起源は、初期人類が熱帯雨林を出て、草原で暮らすようになった頃。人類は進化の過程で、必要に迫られて家族という集団を生み出したと私は考えている。
  ①食事を共にする者たち
 人間の場合、食を分け合う相手は基本的には家族。何百万年もの間、人類は家族と食を共にしてきた。そこに変化が起き始めている。家族という形態が、現代社会に合致しなくなってきている。
 その習慣は今や崩れかけている。コミュニケーションとしてあったはずの「共食」の習慣は消え、「個食」にとって代わられつつある。食卓が消えれば、家族は崩壊する。家族の崩壊は人間性の喪失だと私は思う。家族同士が協力し合う共同体も消滅していかざるを得ない。家族が崩壊してしまったら、人間社会はサル社会にそっくりな形に変わっていく。
  ②家族と共同体を両立 
 人間以外の動物は家族と共同体を両立できないが、私たち人間は、この二つの集団を上手に使いながら進化してきた。この点こそが、他の動物と人間を分ける最大の特徴と言える。人類は共同の子育ての必要性と、食を共にすることによって生まれる分かち合いの精神によって、家族と共同体という2つの集団の両立を成功させた。
 人間の子ども期は2歳頃から6歳頃までの4~5年間を指す。オランウータンにもゴリラにもチンパンジーにも、子ども期はない。
 人間以外の類人猿の赤ちゃんは、母乳を与えられる時期が長く、ゴリラでは3歳頃まで、チンパンジーは5歳頃まで、オランウータンは7歳頃まで母乳で育ち、そして乳離れした後はすぐに大人と同じものを食べて生活する。一方、人間の子どもは乳離れした後は「離乳食」が必要な時期がある。大人と同じ食生活ができない子ども期には、上の世代の助けが必要になる。人間の子育てには手間も人手もいる。
C.霊長類学
 人間が人間になる以前、今とは違う動物だった頃、われわれの祖先はいかなる性質を備えていたのか。人類学は人間の根源を追究し、人間とは何かを研究する学問。人間や人間性の起源を辿り、そこから現代の社会を解明しようとしている。
 人類学と霊長類学の研究の末に、私は「人間は家族を重要視する生き物」と思うようになった。
 a.進化論と西洋社会
 1859年、イギリスの生物学者チャールズ・ダーウィンが『種の起源』を刊行。人間についての言及はほとんどなかったが、進化論から必然的に導かれる「人間の祖先はサルの仲間」という説は、教会や知識人から批判が起こり、160年前には受け入れがたい非常識だった。
 1871年にダーウィンは『人間の由来』を出版。人間と類人猿の間には、体格、生理、情緒、社会性、心理といった面で類似した特徴があり、人間の祖先はアフリカで見つかる可能性が高いことも示唆していた。
 西洋で生まれた人類学は、欧米の学士たちは、動物の生態に着目するばかりで、その社会には興味を持っていなかった。キリスト教的世界観では、人間は特別という心理があり、人間以外の動物に自分たちの祖先の姿を重ね合わせたくなかった。
 b.日本で生まれた霊長類学
 戦後の日本で、人類学に新たな視点をもたらす新しい学問、霊長類学が誕生する。それは、人間以外の霊長類を対象として人類の進化を考えようとする学問。人間とは何か、人間の本性は何に由来するのかを霊長類の研究を通して明らかにする。
 霊長類学は、京都大学の人類学者、今西錦司さんによって1948年に創始され、ニホンザルの研究からスタートした。
  1.生まれた背景
 動物と人間の間に絶対的な境界を設ける西洋的な考え方は、そもそも日本にはなかった。「人間と類人猿は祖先を同じくする」という事実に対して、西洋の社会に見られるような抵抗感も日本人は持っていなかった。また、日本には野生のサルが生息しており、昔から身近な存在。サルは中南米、東南・南アジア、アフリカに分布、北米やヨーロッパには生息していない。日本人は「さるかに合戦」「桃太郎」など文化的にもサルを受け入れてきた民族。人類学研究の根幹となる霊長類学研究が日本で生まれ、世界をリードすることとなった背景には、こういった地理的・文化的幸運があった。
  2.例外の科学
 化石を掘り起こすことで得られる情報によって、体の進化の過程は調べられる。しかし、古代人の脳や心は化石には残らない。社会を形作る人間同士の関係性も化石や遺伝子情報には表れない。したがって、人間の祖先の暮らしの歴史を知るには、ゴリラの社会、そしてチンパンジーなど他の類人猿の社会を研究し、比較することが必要だった。
 霊長類学など、生き物を扱う生物学は、他の科学と違って検証が不可能な事象を扱っているから、例外の科学と言われる。
 物理や数学なら、何度でも実験や計算を繰り返し検証できる。しかし、生物の世界では、二度と同じ出来事は起きないし、作り出せない。そして、ある形質の進化は一度しか起きない。1回しか起きなかったその事象によつて何が変わったかを探っている。現場での調査をもとに類推を重ね、複数の仮説を立てて、様々な方向から検証しながら、説得力ある推論を選び取っていく。
 動物たちのほんの一断片を見ているにすぎないから、全てが分かると思ったら大間違い。複数の種類を調査して、比較検証する必要がある。もっと言えば人類とそれ以外の霊長類学的見地や人類学的見地から比較検討していけば、これまで他の学問では明らかにできなかった進化にまつわる秘密がひもとける可能性がある。
  3.ヒト科
 尻尾がなくて、ヒトと近縁なものをヒト科と称し、ヒト属の他にチンパンジー属、ゴリラ属、オランウータン属がある。約1500万~1200万年前に共通祖先からオランウータンが分かれ、次に1200万年~900万年前にゴリラが分かれ、900万年~700万年前にヒトが誕生した。その後、250から100万年前にチンパンジーとボノボが分かれる。
c.今西錦司の思想
 1941年に発刊した今西さんの著書『生物の世界』の中で、「生物の進化とは歴史であり、種は環境との関わりによって生成、発展していく」という生物哲学の思想が著されている。「人間とは特別な存在ではなく、生物の中の一つの種にすぎない。人間社会は他の生物と同じように種社会として捉えることができ、動物と人間の間には社会的な連続性がある」という主張もなされている。人間だけを特別な存在として扱う西洋的なものの見方とは正に真逆の発想。「社会」というものは人間にしかないと考えるのが当時の世界の常識だったが、今西さんは「人間以外の動物にも社会が認められる」ことを主張していた。
  1.イモ洗いをするサル
 人間以外の動物に社会があることを今西さんはフィールドワークで明らかにした。最初の証拠は、幸島で見つかる。それが有名な「イモ洗いをするサル」。
 1953年に一頭の子ザルがサツマイモの土を落とすために小川で洗ったのが始まりといわれている。イモ洗いはそれまでサルが示したことのない新しい行動。これが次第に他のサルにも伝わり、同じ行動が見られるようになった。遺伝によらず新しい行動が仲間に伝わっていくこの過程は、文化と社会の存在を予感させるものだと今西さんは宣言した。
 「人間に社会や文化があるのは、知性と言葉があるからだ」という考え方が主流だったために、言葉を持たないサルにも社会や文化があるという主張は、簡単には理解されなかった。
  2.「ジャパニーズ・メソッド」の確立
 今西さんの功績の一つに、ニホンザルの一頭一頭に名前を付けて観察する「ジャパニーズ・メソッド」を確立したことがあげられる。世界中のどんな学者もゾウはゾウ、トラはトラと、一つの類でしか見ていなかったので、当初は大顰蹙をかった。しかし、後年には今西さんの説の正しさを認め、動物に名前を付けるジャパニーズ・メソッドという個体識別法は今では世界の標準となっている。
 1954年に、今西さんのもとで学んでいた伊谷さんは、個体に名前を付けた研究をまとめて『高崎山のサル』という著書を発表した。ニホンザルに名前を付けて動物の社会的な行為を何年も継続して観察・分析すると、サルの社会構造がはっきりと見えることが証明された。
 d.ゴリラ調査の歴史
 日本霊長類学におけるゴリラ調査の歴史は1958年に始まる。ニホンザルの研究を開始してちょうど10年。今西さんと伊谷さんは、そのノウハウを持って1958年に中央アフリカのヴィルンガ火山群に足を踏み入れ、新しい研究課題に挑むことになった。今西さんらが調査しようとしたのはマウンテンゴリラ。ゴリラは慎重で、人間の与えた餌に手を出さなかった。ニホンザルでうまく行った方法も、ゴリラには効果がなく、餌づけは成功しなかった。
 1960年7月にコンゴ動乱が起き、伊谷さんはいったんゴリラの調査を断念。代わりに、唯一平和な国だったタンザニア連邦共和国に入る。ゴリラが生息していないので、チンパンジーの調査を開始。以後、日本の調査隊の研究対象はチンパンジーに切り替わった。
D.研究生活
 伊谷さんの著書『ゴリラとピグミーの森』を手に取った私は、人類学者の生き生きとした精神と活動に触れ、伊谷さんのもとで人類学を学ぼうと決心した。大学3回生の時、「人類生態学研究会」を自主的に作り、ニホンザルの研究を始めた。
 a.屋久島のサルを人づけする
 餌づけは、野生のサルに餌を与えて警戒感を薄めさせ、間近でサルを観察しようとする方法。人づけとは、餌を与えずにひたすらサルの行動を追い、ありのままの生活ぶりを調査する方法。自分自身がサルになったつもりで、サルと共に行動する。サルのやることは全て一通り、実践し経験した。
 餌づけにはサルの生活を壊し、野生の特徴を奪ってしまう問題点があるので、屋久島の調査においても餌づけの方法はとらず、「人づけ」の方法をとった。最後に思ったのは、「俺はサルにはなれない」。サルと心が通じ合う瞬間を経験することはなかった。
 b.ゴリラの調査に乗り出す
 日本において18年もの間中断されたままになっていたゴリラ調査が、1978年に再開した。伊谷さんが私に「お前、ゴリラをやってみないか」といってくれた。私は、ヒガシローランドゴリラの生息するザイール共和国(現コンゴ民主共和国)のカフジ山に向かった。
 日本の研究者が研究から離れている間に、ジョージ・B・シャラーというアメリカの研究視野が、餌づけではなく人づけの方法で調査に成功していた。自分の姿をマウンテンゴリラに見せて、徐々に馴れさせ、近づいていった。
 私自身も屋久島でニホンザル相手に人づけをしていたので、その経験を活かして、森のことを知り尽くしている「トラッカー」と呼ばれる現地の案内人と一緒に接近した。初めてのゴリラ調査は、決してスムーズに運んだわけではなかつた。26歳の私はまだまだ未熟者で、生活をつぶさに見させてもらえるほどには近づくことができなかった。霊長類学という学問の面白さだけではなく、難しさ、厳しさをも感じた。

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