ドナルド・キーンの東京下町日記
2022年11月16日(水)
ドナルド・キーン著
東京新聞
2019年9月26日発行
1600円
日米開戦直後、ラジオで「日本語ができる米国人は50人」と聞いた。実際には米本土に日系人が数万人いて、間違っていたが、私は信じてしまった。海軍語学校の面接を経て1942年2月に入学した。同期生は30人ほど。日系人はおらず、語学の習熟能力で選ばれた有名大学の上位5%の学生ばかりだった。クラスはレベル別に6人以下の少人数制。教師陣はほとんどが日系人で授業は1日4時間。休みは日曜日だけ。予習、復習で1日4,5時間はかかる猛特訓だった。
欧州戦線で活躍した日系部隊まであった陸軍とは違い、海軍は日系人を信用せず、入隊を許さなかった。しかし、日本語が分かる人材が必要なので、日系人ではない日本語の通訳を養成していた。
入学当時、私は日本語をほとんど話せなかった。だが、性にあったようで、11ヶ月後には、総代として日本語で告辞を述べ、ハワイの真珠湾の基地に派遣された。最初の指令は「回収した日本軍の文書の翻訳」だった。米軍は情報流出を恐れて、兵士が日記を書くことを禁じていた。一方、日本軍は毎年元日に日記を支給。日本兵は上司検閲の下、破竹の勢いの時には勇ましい文章を書かされていた。だが、戦況が悪化し、戦友がマラリアにうなされ、飢餓で動けなくなり、大敗したガダルカナル島からの日記には、押し殺していた死への恐怖、望郷の念、家族への思いがあふれ出ていた。初めて心通わせた日本人だった。
A.人との出会い
1.角田柳作
①私の「センセイ」 2013年4月7日
コロンビア大学には、三島由紀夫や司馬遼太郎ら多くの作家が訪れてくれた。面白く思い出されるのは、1964年の安部公房。初対面だった安倍は、私が日本語をしゃべれるのに、若い女性の通訳を連れてきた。それが私には不快で、通訳を無視した。後に親しくなり、その女性がオノ・ヨーコだったと聞いた。
コロンビア大学で深く思い出されるのは角田柳作先生だ。1877年生まれで学生としてお会いした時に既に60代だった。質実剛健で日本的美徳をまとった人だった。コロンビア大学在学時、彼の「日本思想史」を受講したことがある。太平洋戦争前夜で対日感情の悪化もあり、受講希望者は私だけ。「一人のためでは申し訳ない」と辞退を申し出た。だが、角田先生に「一人いれば十分です」と諭された。角田先生は、私のために講義前に黒板にビッシリと書き込んで準備した。ノートを見ずに空で講義した。教壇の机にはたくさんの本を置き、どんな質問にも答えられるようにしていた。日本について学ぼうとした学生たちからは尊敬され、引退の機会は何度かあったが、その都度、学生たちの要望で留まり、87歳で亡くなる直前まで教え続けた。コロンビア大学では日本語で「センセイ」と言えば、彼のことだった。
専門は日本思想史だったが、日本に関することは何でも教えてくれた。私が『おくのほそ道』を初めて習ったのはセンセイ。『方丈記』や『徒然草』も教えてくれた。
恩師の角田柳作先生は、米国で多くのジャパノロジストを育てた「日本学の祖」であり、もっと評価されるべき教育者である。
2.三島由紀夫
①三島由紀夫からの手紙 2012年12月2日
私が三島と初めて会ったのは東京。1954年11月に編集者の計らいで共通の趣味の歌舞伎を一緒に鑑賞した。京都大学大学院の院生の私が32歳、三島が29歳だった。私たちは意気投合し、それ以来親しくさせてもらい、手紙でやりとりした。
三島は「気楽な言葉で話そう」と提案したが、本で日本語を覚えた私はくだけた表現が使えず、断ってしまった。三島とは、手紙で頻繁にやりとりしたが、ある時から「怒鳴門鬼韻どなるどきいん様」と当て字で書いてきた。そこで、私は仕返しに「魅死魔幽鬼夫みしまゆきお様」と書いたりもした。
三島は70年11月25日に自決した。その直後、ニューヨークで翌26日の消印が付いた三島からの航空便を受け取った。自決直前に書き、机の上に置いてあった封書を夫人が投函してくれた。そこには「小生たうとう名前どほり魅死魔幽鬼夫になりました。キーンさんの訓読は学問的に正に正確でした」。その命名の痛みは、未だに癒えない。
②ノーベル賞と三島、川端の死 2013年10月6日
三島は海外で最も有名な日本人の一人だった。だが、その証が欲しかったのだろう。最高の栄誉、ノーベル賞が欲しいのだと私は直感した。三島は自分の作品が数多く翻訳されれば、されるほど賞に近づくと信じていたようで、私にしばしば自著の翻訳を依頼した。
戦後の混乱から落ち着いた60年代は、日本文学が世界的に注目された時代だった。『金閣寺』を読んだ当時の国連事務総長ダグ・ハマーショルドが三島を高く評価し、61年にノーベル賞の選考委員会に推薦した。その影響は大きく、三島は毎年、候補者として名が挙がるようになっていた。
68年に日本人初めての文学賞を受賞したのは川端康成だった。川端の受賞で次に日本人が受賞するには20年待たなければならないと落胆した三島は、『豊穣の海』を集大成として書き残し、70年11月に自決した。三島の文壇デビューを支え「自分が名を残るとすれば三島を見出した人物として」と話していた川端が葬儀委員長だった。川端は受賞後思ったような作品を書けず、72年に4月に自殺が報じられた。大岡昇平によれば、ノーベル賞が二人を殺したのだ。
③ニューヨークでの三島 2015年5月6日
三島由紀夫もニューヨークの舞台芸術が好きだった。三島の近代能も素晴らしく、私が英訳したそれらがニューヨークで評判となり、三島は上演を望んだ。三作が演目となった。プロデューサーが近代狂言を間に挟むことを提案した。私は難しい注文だと思ったが、三島はいとも簡単に書き上げた。加えて、「三作の近代能を1つの芝居に書き換えてくれないか」と言い出した。私は、三作とも登場人物は異なるし、ストーリーがかみ合わないから「無理だ」と思った。ところが、三島は何食わぬ顔でやり遂げた。私は、難しいことをたやすくこなせる人が天才だと思っている。私の周りで当てはまるのは、日本に来たこともないのに『源氏物語』を名文に英訳したアーサー・ウエリーと三島ぐらいだ。
④同じ歳の寂聴さん 2015年11月8日
瀬戸内寂聴さんが三島由紀夫にファンレターを書いたところ「三島さんが『いつもは出さないけれど、あなたの手紙は面白いので』と返事をくれた」そうだ。そこで小説を読んでもらうと「『手紙は面白いのに、小説はなんてつまらないんだ』と言われた」と秘話を打ち明けられ、大爆笑。
⑤最後の晩餐 2016年2月7日
三島は私が天才と認める数少ない一人。三島が原稿を書くところを見たこともあるが、スラスラと書き連ね、それでいて誤字脱字はほとんどなく、まるでモーツアルトの楽譜のようにそれ自体が芸術。
三島の行動は計画的で手帖に詳細な予定を書き込み、それが狂うことを嫌った。
3.谷崎潤一郎
①富士山に導かれて 2013年1月1日
再び日本の地を踏んだのは、1953年。奨学金で京都大学大学院に留学した。憧れの地で日本文学研究は進み、夢のような2年間だった。留学生活は、谷崎潤一郎が開いてくれたお別れの会で締めくくられた。帰国便で永井荷風の『すみだ川』を読み、その美しい日本語に涙を流した。
②日記は日本の文化 2016年1月10日 日記は日本の文化である。毎年、年末には書店に日記帳が並ぶ。私も何度か書こうと思ったが、大人になってからは書いた試しがない。だが、それで後悔することがある。例えば以前、谷崎潤一郎の自宅に招かれた時に志賀直哉がいて、大作家二人との対談に参加した。二人の姿は覚えているのだが、話の内容を思い出せない。当時、私は記憶力が抜群で「忘れるはずがない」と思っていた。ところが、年を取って忘れることを覚えた。せめて日記に残していれば、と思うが後の祭りである。
4.永井荷風
①荷風のまなざし 2014年2月2日
東京の下町を愛した作家の永井荷風が再評価されていると聞いた。
全財産を持ち歩いた、気むずかしい変わり者といった印象を持たれているが、彼より美しい日本語を操った人を私は知らない。
1955年5月、日本での留学を終え、米国に向かう機上で、私は荷風の『すみだ川』を読んだ。「これぞ日本語の美」と感動した。古典が専門の私が最初に英訳した近現代文学が『すみだ川』だった。
所用で出版社を訪ねた時、編集者から荷風に会いに行くが、一緒に行かないかと誘いを受け、喜んで同行した。風采の上がらない老人だったが、話し出すとよどみのない清流のような日本語。荷風が59年に79歳で亡くなるまでの42年間、書き続けた日記『断腸亭日乗』の57年3月22日に「キーン氏訳余の旧作すみだ川を読む」と確かにあった。
荷風は恵まれた家庭に生まれた。エリート教育を受け、留学もした。だが、敷かれたレールを逸脱し、自分で道を選んだ。72歳で文化勲章を受章してからも浅草の踊り子と酒を楽しむ享楽家だった。
当局を批判すれば逮捕され、拷問が当たり前の太平洋戦争当時、「奇人の年寄り」とでも思われてか、特高が近寄らなかったことを幸いに、荷風は軍部批判を繰り返した。政府が主導した言論統制の一環で設立された作家組織は拒否し、硬骨漢ぶりを発揮した。昨年、表現の自由を制限する特定秘密保護法が成立した。今、荷風が生きていたら間違いなく反対しただろう。
参考に
北里柴三郎
kojima-dental-office.net/blog/20220816-15525#more-15525
出会い
永井久一郎(1852~1913)、作家・永井荷風の父
5.司馬遼太郎
①司馬のメッセージ 2016年6月5日
作家、司馬遼太郎と私の対談本『日本人と日本文化』の英訳本が先日出版された。
対談はある出版社の発案だった。日本文学とはいえ古典が専門の私は彼の本を読んだことがなく、気乗りしなかった。それでも、司馬が「キーンさんが前もって自分の小説を読んでこないこと」を条件にしたと聞いた。迷いはなくなり、お引き受けした。
司馬は歴史に造詣が深く、博識だった。その対談がきっかけで、司馬との長いつきあいが始まった。忘れられない思い出がある。
82年にある大手出版社が主催した宴席。酔った司馬が、その新聞を「ダメだ」とこき下ろし始めた。「明治時代に夏目漱石を雇うことでいい新聞になった。今、いい新聞にするにはキーンを雇うしかない」。1週間ほどして連絡があり、私は客員編集委員になり、日本の日記文学などについて連載した。それで複数の文学賞も受賞した。
司馬の小説にはメッセージがあった。敗戦と伝統的な価値観の断絶という二つの挫折で落胆していた日本人に「日本の歴史と偉大な先人たちを誇るべき」と訴え続けた。国際化とは外国に行くことでも、外国を知ることでもない。「日本文化とは」「日本文学とは」と誇りを持って話し、外国で理解してもらうことである。今回の英訳は、何よりも日本の国際化が目的である。
6.小澤征爾
①「世界のオザワ」を見習う 2015年9月13日
世界的な指揮者の小澤征爾さんと先日対談した。2008年に小澤さんと私が同時に文化勲章を受章してから、親しくなった。共通点は、話し合い、議論できる知己が世界中にいること。対談で小澤さんは、最近の日本について、戦争を知らない政治家ばかりなっていることを懸念していた。
小澤さんも若い世代を大切にしている。特筆すべきは充実した教育プログラム。
教育者としての私が、最近、大学で文学部にあまり人気がないことを気にしている。日本文学の素晴らしさは世界中が認めている。むしろ、海外での評価の方が高い。
日本の大学では、日本文学を学ぶ中国などからの留学生が増え、欧米では日本文学の専攻生が増えている。ところが、日本文学を専攻しようと志す日本人の減少が続いている。そのうち外国人が日本人に日本文学を教えるのが当たり前になるかも知れない。
私は日本の古典の専門家として「日本の学校教育は間違っている」と主張している。外国語でも教えるかのように、最初に原文で文法を暗記させるのでは味気ない。まずは文学としての面白さを教えるべき。私は『源氏物語』の英訳で日本文化の素晴らしさに気づいた。英訳があるように日本には優れた現代語訳がある。
②超一流の二流芸術国 2015年10月4日
世界的指揮者、小澤征爾さんは「本物に触れれば、何かを感じて音楽を志す人が必ず出てくる」と若い世代に積極的に音楽を聴かせている。
最近気になっているのが人文社会学系学問への冷淡な風潮。日本の存在感がなくなってから、効率化や短期的利益ばかりが求められている。だが、日本の経済発展は豊かな文化という土壌に支えられていることを忘れてはいないだろうか。
太平洋戦争後から驚異的な復興を果たした背景には、日本の教育水準の高さと同時に、日本人の教養の高さもある。私は日本を「超一流の二流芸術国」と評している。誰もが俳句や短歌、生け花や書道といった芸術を気軽に楽しんでいる。これほど教養レベルの高い国は他にない。芸術には批判精神も必要で、健全な社会の証でもある
7.高見順
①被災地を思い続ける 2013年3月3日
大震災で家を失い、家族を亡くした被災者たちが、泣き叫ぶ出もなく、静かに辛抱強く、支え合って生きている姿は、私に太平洋戦争前後の人気作家、高見順の言葉を思い出させる。高見は1945年3月の東京大空襲直後の上野駅で、全てを失った戦災者が、それでも秩序正しく、健気に疎開列車を待っている様子に「こうした人々と共に生き、共に死にたいと思った」と日記に残した。被災者に私も、その当時の高見と同じ気持ちになっていた。57年に東京と京都で開かれた国際ペンクラブ大会で私は高見と知り合った。高見は、戦災者に感銘を受ける一方で権力を持った日本人の傍若無人ぶりには失望していた。それにも、私は共感する。
高見は敗戦について「今日のような惨憺たる敗戦にまで至らなくてもなんとか解決の途はあったはずだ。その点について私らもまた努むべきことがあったはずだ。それをしなかった。そのことを深く恥じねばならぬ」と書いている。
私は日本人になって1年になる。以前からの日本への愛、日本人への尊敬の念は今も全く変わらない。ただ、震災後の日本には、少しがっかりさせられている。
日本は天災が多い国だが、『方丈記』や『源氏物語』等を除けば文学作品に天災は出てこない。悲惨な記憶は残したくないからかもしれない。日本では忘年会が盛んで、「過去を忘れる」というのは未来志向の智恵ではある。だが、今も、震災は現在進行形なのだ。被災地の復興予算が、復興とは無関係の事業に流用されていた。官庁の役人たちは震災を忘れてしまったのだろうか。被災者の冷静な行動で大きく上がった日本の国際イメージが傷ついてしまった。
英国生まれで日本国籍を取得した作家のC・W・ニコルさんは、宮城県東松島市の高台に復興の森を作り、学校を建設する計画を進めている。日本の有力な政財界人に復興に直接、手を貸している人がどれほどいるのだろうか。
原発事故についても「原発は安全」と私たちを騙してきた。嘘がばれたのに、まだ事故の検証も終わらぬまま本格的な再稼働に向けて動き出した。原発に頼らないための節電はどうなってしまったのか。今、私たちにできることがあるはずだ。
②高見順が記した大空襲 2015年3月8日
また3月が来た。2万人近い死者・行方不明者を出した東日本大震災から4年。
70年前の3月10日に歴史に残る東京大空襲があった。当時の情景を日記に残した人気作家がいた。高見順である。鎌倉で暮らしていた高見は大空襲を知らなかった。その翌々日に浅草を訪ねて呆然とした。「浅草は一朝にして消え失せた」「(浅草寺の)本堂の焼失と共にずいぶん沢山焼け死んだ。その死体らしいのが、裏手にごろごろと積み上げてあった」と記した。そして、子供と思われる小さな遺体を見て「胸が苦しくなった」。
ある日、高見は母親を疎開させようと上野駅に向かった。すると駅には列車を待つ被災者の長い列。家を焼かれ、家族を失い、うちひしがれたはずなのに、静かに辛抱強く待っていた。その様子に心を打たれ、「私はこうした人々と共に生き、共に死にたいと思った」。
4年前の震災後、被災地では暴動が起こるでもなく秩序は保たれ、避難所では少ない食料を分け合い、子供が高齢者の手を取って支え合った。その光景に世界は涙した。私も「日本人と一緒に生きたい」と。
高見は、「表現の自由」には思い入れがあった。空爆被害を報じなかった新聞に「何のための新聞か」。戦後、言論統制が解かれ「(占領軍によって)自由を保障された」と書き残している。私は高見に共感する。大震災と原発事故の被害が続いている限り、何年でも報じ続けて欲しい。
B.日本文学
1.『源氏物語』との出会い 2013年11月3日
11月1日は『古典の日』、昨年法制化された。『紫式部日記』には、1008年11月1日に『源氏物語』についての最古の記載がある。それにちなんだ記念日。
『源氏物語』は、暴力が存在せず、「美」だけが価値基準の世界。私はそれを読むことで、不愉快な現実から逃避していた。
『源氏物語』のテーマは普遍的で言葉の壁を越える。日本人が思う以上に海外での評価は高く、10ヵ国語以上に翻訳されている。私にはアーサー・ウエーリ訳が一番。
ウエーリは日本語を含め複数の言語を独学で習得した特異な天才。平安朝の日本にしか関心がない。原文の文章を一度読んでは少し考え、後は確認せず訳した。実際には不正確な訳もあるが、その方が自然な英語になり、英文小説として傑作。サイデンステッカーやタイラーの訳の方が原文に忠実なのだが、どうしても翻訳色が抜けない。
2.『おくのほそ道』に思う 2014年3月2日
今月で東日本大震災から3年もたつというのに、原発事故があった福島県は今も被害を受け続けている。私が魅せられた『おくのほそ道』を書いた松尾芭蕉がみちのくへ足を踏み入れた最初の地が福島だ。私は福島に思い入れがあり、今も続く原発の汚染水漏れには心を痛めている。
芭蕉は白川の関を超えて、阿武隈川を渡り、左手に磐梯山を望む美しい景色に心を奪われ、句を詠むことができなかったと書き残している。
芭蕉は「おくのほそ道」に、中国の杜甫の詩「国破れて山河あり」を引き合いに出しながら、「山は崩れ、河は流れが変わる」と書き残した。つまり、山河も無くなることはあるが、永遠に残るのは「言葉」だ。被災地への思いは風化しがち。私たちは、いつまでも言葉で伝え続けなければならない。
3.『徒然草』に見る美意識 2017年9月17日
日本語にあって英語にない言葉がある。読み手が分かる英文でなければならないし、文学的な味わいも必要だから、数多くの日本文学の翻訳は苦労の連続だった。ところが、50年前に私が翻訳していた兼好法師の『徒然草』は違った。翻訳ではなく、まるで自作を書いているかのような錯覚に陥った。次々に英文が頭に浮かんだ。
私が古典を愛する理由の一つは、その普遍性。日本人の美意識について『徒然草』ほど見事に書かれた作品はない。例えば、82段に「どんなものでも、全て整っているというのは望ましくない。未完の部分があってこそ趣があり、そこに成長の余地を感じさせる」とある。いわば「不均整」の美。備前や信楽といった陶器も、愛好されるのは歪んで凹凸のある作品。西欧では対称性を求めるが、日本では不均整が重要な要素。
また、兼好は、仏教の影響もあるだろうが、物欲に対して否定的だった。それは「簡素」の美に通じる。それは、茶の湯に象徴される美意識。素材の外見と味を生かす日本料理にも垣間見られる。
そして、「無常」の美。兼好は「世は定めもない無常なのがよい」と書いた。日本人が桜を好むのも、一気に開花しては散り、うつろう美しさゆえ。引きつけられるのは、美しさよりもはかなさにある。
4.現代人・啄木 2016年3月20日
私は啄木が最初の現代人だと思っている。感性は私たちと何一つ変わらず、彼の歌が「昨日、詠まれた」と聞いても違和感はない。
瞬間を切り取る天才歌人は、金になる小説を書こうとしたが、不幸にも長い文章の構成能力には欠けていた。
日記を読めば、複雑な人間関係が浮かび上がる。妻への愛をささやきながら、不貞行為に溺れる。金を貸してくれる友人に恩を感じながら、絶縁する。世話になった歌人を感謝しながらも、こき下ろす。
これまでの研究者は負の側面に迫ることを避けていた。それでは全体像が分からない。私が啄木の日記を初めて読んだのは60年以上前。その時から思っていた日本文化のタブーへの挑戦を、日本人になってようやく果たした。
5.正岡子規と野球 2015年2月8日
正岡子規は体格にも恵まれず少年期にはスポーツに関心がなかった。ところが東京に出てから、なぜか野球に熱中した。ポジションは捕手。ただ、上手ではなかった。日本の野球殿堂に入ったが、それは文学を通じての野球への貢献が評価された。「打者」「走者」など用語の多くは子規の訳語。俳句の殿堂があれば、革命を起こした「選手」として最初に入るべき一人。彼以前の俳句や短歌は、形式にとらわれすぎた定型的な自然の美ばかりを表現した。そこに新風を吹き込んだ。野球をも俳句の題材にした。
春風や まりを投げたき 草の原
日常の描写こそが子規の真骨頂。有名な「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」には、それまでは俳句に使わなかった「食べる」という行為も入っている。しかも、本当は法隆寺ではなく東大寺でこの句を詠んだ。だが、東大寺では句の効果が半減する。法隆寺とした方が利き心地が良く、音にこだわった。
C.日本文化
1.世界に誇れる文楽 2012年10月6日
伝統芸能「文楽」をめぐる大阪市の補助金削減は、橋下徹市長と文楽側の話し合いでなくなったが、これで問題解決とは思えない。
文楽は日本が世界に誇る文化。世界に子供向けの人形劇はあるが、その脚本の文学的価値はゼロ。しかし、文楽は違う。脚本の芸術性は高く、人形遣いの美しさも世界が認めている。だから、世界無形遺産なのだ。
補助金削減騒動の一因とされる観客動員の低さの原因は、文化的に廃れたからではなく教育にあると思う。日本の学校教育は基本的に入学試験を前提にしている。私が専門としている古典教育も入試向けに最初は文法を覚えさせられる。それでは、学んでもつまらない。まずは、文学作品に触れさせるべき。私は、日本の入試制度には反対だが、逆から考えれば入試を変えれば、高校や中学の学校教育も変わっていくはず。高等教育の入試には、地域性があるべきで、大阪ならまず上方芸能の文楽を入試の題材にしてはどうだろうか。
今回の騒動で気になるのは、橋下さんが独断で削減を打ち出したこと。個人の嗜好は認めるが、それに左右されることにちょっとした危うさを感じる。
2.古浄瑠璃
①古浄瑠璃の地、柏崎になぜ原発 2013年7月7日
日本では、高齢者は大切にされるが、「古いもの」となると話は別である。どうも日本人が「古い日本」の良さを十分に認識していないような気がしてならない。一例が、近松門左衛門が活躍する以前の江戸時代初期の古浄瑠璃本『越後国柏崎 弘知法印御伝記』。これは、裕福な家に生まれた放蕩息子が妻の死を契機に出家し、修行の末に即身仏になる物語。浄瑠璃の歴史上、貴重な資料である。それが、300年以上も前から保管されていたのは日本ではなく、ロンドンの大英博物館だった。1685年に江戸で刷られ、ドイツ人医師のエンゲルベルト・ケンペルが長崎から持ちだしたとされる。大英博物館の蔵書となり、それを1962年、英ケンブリッジ大学に留学中だった早稲田大学名誉教授の鳥越文蔵が見つけた。それを元に、文楽の三味線弾きで活躍した越後角太夫が中心となって4年前に再現して上演した。江戸時代初期の大衆娯楽が体感でき、大好評だった。
私は53年に京都大学大学院に留学した。当時の楽しみの一つが文楽や能の観劇だった。だが、太平洋戦争敗戦の影響か「古い日本」は否定されがちで、当時から伝統芸能は「いずれは姿を消す」とも言われていた。欧米の文化吸収に忙しく、世界に誇る日本の伝統芸能を忘れていたのだろうか。
新潟県柏崎は、古浄瑠璃の舞台となったことからも分かるように、昔から豊かな文化があった場所だ。だが、日本はどこでボタンを掛け違え、なぜ柏崎は過疎地に立地されがちな原発をどうして受け入れることになったのか。まだ、やり直しはできるはずだ。
②古浄瑠璃 英国との縁 2017年3月5日
古浄瑠璃の『弘知法印御伝記』が今年6月、ロンドンの大英博物館で上演される。300年以上も前に書かれた『御伝記』の台本は日本には残っておらず、同図書館に一冊あるだけ。世界に一冊の台本を元に、7年前に日本で復活上演された『御伝記』がロンドンに凱旋する。
世界中に人形劇はあるが、ほとんどが子供向け。浄瑠璃のような文学性、芸術性が高いものはどこにもない。アニメソフトのはるか昔から日本には世界に誇るべき古典芸能があった。
D.日本
1.天皇陛下
①両陛下の憲法への思い 2018年1月14日
戦時中、陛下は疎開され、移動を繰り返された。終戦後に皇居に戻る際に見た、焼け野原となった東京の惨状に心を痛めたと、お伺いした。その体験があるからだろう。陛下は、戦後の平和憲法に忠実であろうとしている。職業選択の自由や選挙権を持たず、政治的発言を許されない象徴天皇には、行動だけが意思表示の術なのかもしれない。戦争を反省し、恒久平和を希求して、国内外の数々の激戦地を慰霊して回った。
私は九条で平和主義をうたう日本国憲法は、世界で最も進んでいる憲法だと思っている。表現の自由を持たない両陛下の憲法への思いにこそ、私たちの忖度が必要ではないかと思う。
②米海軍語学校の同期生ケーリ 2015年12月6日
1953年から2年間、京都大学大学院に留学していた。その当時、最も世話になったのは米海軍で一緒だった同志社大元教授のオーティス・ケーリ。
戦後日本の民主化にオーティスは大きな役割を果たした。終戦直後の45年末、日本人捕虜の親戚を介して親しくなった高松宮に「天皇に全国を巡幸して頂き新しく民主的な天皇像を構築しては」と進言した。それが天皇の「人間宣言」と巡幸にどれだけ影響したかは分からない。だが、道筋を示したことは記録に残っている。
2.日本人の意識 2015年1月11日
戦時中、米国は日本について猛烈に知ろうとした。その一例が、日本語を教えた海軍語学校。私を含め、約一千人がそこで学んだ。戦後も日本には大きな遺産となり、日本文化は勝利を収めた。
問題は日本人の意識である。日本文学を学べる大学は減り、専攻する学生も減っている。日本文学に限らず自国への誇りが薄れ、私には自虐的になっているように映る。最近、「海外や外国語へ無関心な大学生が増えている」と聞いて驚いた。国際社会では主要国として認識されている日本なのに、なぜ内向きな若者が増えているのだろうか。外国語を学び海外を知ることは日本を知ることでもある。「井の中の蛙」は国際社会にとって危険ですらある。
3.日本文学を読み、旅に出よう 2016年8月14日
夏休みに未来を担う子どもたちへ。少しだけアドバイスをさせて頂きたい。
まずは読書。優れた日本文学を読もう。お薦めは、やはり古典。
日本の古典教育では、原文の読解と文法が重視される。入学試験でも同様の傾向がある。だが、それは間違いだ。味気なく、面白くもない。文学は、まず読んで楽しむもの。古典には優れた現代語訳がある。それを読めばいい。古典が時代を超えて今に残るのには理由がある。愛憎といった心の繊細な動き、義理や人情など普遍的な題材が読む人の心を打つ。大人になるには、こうした教養こそが必要。
それと、一つでいいから外国語を学ぼう。日本語にあって外国語にはない言葉がある。その逆もある。それが分かれば、日本をより深く知ることになる。
そして、もう一つ、旅に出ること。多感な時期には特に貴重な体験となる。
4.異質ではない日本 2017年2月5日
日本に初めてキリスト教を伝えた宣教師ザビエルは、日本に2年滞在し、「日本人はわれわれとよく似ている国民である。同程度の文化を有する」「自分にとってポルトガル人よりも親しい民族は日本人」とまで手紙に書いていた。
『沈黙』を撮ったマーティン・スコセッシ監督は、私の本で日本について学んだ。日本や日本人は特殊でも異質でもなく、国際的に理解されている。
5.米百俵 何よりも教育 2017年4月9日
明治時代初期の戯曲「米百俵」が、中米ホンジュラスで評判となっている。
小泉純一郎元首相が2001年に演説で取り上げて、全国的に知られるようになった。私が英訳したのは、その3年前。それをホンジュラスの文化大臣がスペイン語に重訳して、同国で広まった。「米百俵」の精神は、発展途上国を中心に多くの国に受け入れられていて、バングラデシュなどでも舞台上演された。
『米百俵』の作家、山本有三。新潟県長岡市に伝わる史実が基。窮乏していた長岡藩に救援の米百俵が届いた。藩士は喜ぶが、指導者の小林虎三郎は猛反発を受けながらも米を売り、それを資金に学校を開設したという実話を、山本が戯曲にした。
ところで、「米百俵」の精神を海外に輸出している日本なのに、最近、子供の貧困が問題になっている。他の先進国と比べて、日本は国家予算における教育費の割合が低く、家計に占める教育費の割合が高い。親の経済力で子供が受けられる教育に格差が生じることは望ましくない。
理解に苦しむのは財政難といって、教育にかける予算については厳しく査定して絞る一方、2020年の東京五輪に向けての関連事業には気前よく予算を増やしている。6年前の東日本大震災や原発事故の被災者救済は不十分で、復興も道半ば。それなのに、まるで発展途上国が公共事業を急ぐかのように、五輪関連の競技場づくりは、景気よく進められている。大切なのは競技場といった器ではなく、人々の記憶に残る、筋書きのないドラマであり、選手の汗と涙であるはず。どうも、ちぐはぐに感じる。
『米百俵』には、「国が興るのも、滅びるのも、街が栄えるのも、衰えるのも、ことごとく人にある」と書かれてあった。何よりも人。未来ある子供には教育である。
6.お互いさま文化の危機 2018年2月11日
私が、いつも感心することの一つに、日本人の教養の高さがある。家庭での教育や学校での初等教育のおかげだろう。読み書きの水準は高く、誰もが詩歌を詠む。絵や書もそうだ。新聞に読者の詩歌や絵が定期的に掲載されるのは日本だけかもしれない。そんな教養を背景とする「お互いさま」という共同体意識が、この日本社会を支えているように感じる。
60年前と比べると、日本は豊かになり、物があふれるようになった。だが、社会に変化を感じる。新聞を開けば、格差や子供の貧困の記事を見ない日はない。だが、政府は大企業向けの景気対策を優先する。利己主義が幅を利かせ、IT(情報技術)長者は、効率優先で目先の利益を追いがち。大学でも実学系に重きが置かれ、バランスのとれた全人を育てるための教養科目は、ないがしろにされている。
日本社会の強さは、高い教養と共同体意識のはず。それが、世界に誇る日本独自の文化を支えている。貧しくも豊かだった日本が、豊かだが貧しい国になりやしないか、危機感を持っている。
E.ジャーナリズム
1.新聞で今を知る 2014年10月5日
下宿先の別棟に米国帰りの京都大学の助教授が入ってきた。下宿先の都合で彼と夕食を共にすることになった。助教授は後に文部大臣になった永井道雄。永井は一つ年下だったが、いわば私の人生の指南役となり、それからは彼との夕食が日課となった。
永井との対話を通じて、いくら専門が古典とはいえ、現世を無視することは誤りだと気付いた。目の前には生きている日本がある。「今」に関心が湧き、新聞を読み始めた。それは研究で偏りがちな知識のバランスを取ることにもなった。今となっては、朝起きて新聞に目を通すことは生活習慣の一つ。インターネットも活用するが、私は上に印刷された新聞でないとどうにも落ち着かない。
新聞に不満もある。国際報道、特に米国報道は表層的な一報に終わりがち。また、話題が移ろいがちなことも気掛かり。私が最も知りたいのは東日本大震災と原発事故のその後。
2.台風のような五輪報道に違和感 2016年9月4日
五輪の理念は、国境を越えたスポーツを通じての世界平和への貢献である。国別対抗でないことが憲章に明記され、獲得メダル数の公式なランキングもない。五輪が国威発揚の場とされた過去から学んだと聞いた。にもかかわらず、メディアが率先して民族主義に陥っている。メディアには、読者や視聴者が欲する情報を提供する役目があるが、程度問題があるし、ニュース価値の判断やバランス感覚も大切。批判精神も不可欠。
東京五輪に関しても、そもそも原発事故が継続しているのに、なぜ東京なのかという疑問もある。
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