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これからの「正義」の話をしよう

2010年11月23日(火)


これからの「正義」の話をしよういまを生き延びるための哲学
マイケル・サンデル著
鬼澤忍訳
早川書房
2300円
2010年5月25日発行

 正義とは何なのか、自由に限界があるのか、自由市場は公平なのか、市場介入は許されるか、等々を具体的な事例を基に歴代の哲学者と共に考えていく。2、3頁読み進んでも10頁ほど戻り、なかなか理解困難な大物である。じっくり挑戦してみよう。
 参考に 藤原 正彦著「国家の品格」
kojima-dental-office.net/blog/20090306-1364#more-1364
「まず公平に戦いましょう」は、「武士道精神」によれば「卑怯」に抵触します。強い者が弱い者をやっつけることは卑怯である。論理的に正しいことと善悪は別次元のことです。
 2004年夏、ハリケーン・チャーリーが通過した後の便乗値上げと禁止法を巡る論争は、道徳と法律に関する難問を提起した。つまり、これは正義の問題なのだ。禁止法への賛成論と反対論が3つの理念を中心に展開されている。
正義に対する三つの考え方
 1.最大多数の最大幸福を意味する
 2.選択の自由の尊重を意味する
 3.美徳を涵養することと共通善について判断することが含まれる
 アリストテレスは、正義とは人々にふさわしいものを与えることだと教えている。対照的に18世紀のイマヌエル・カントから20世紀のジョン・ロールズに至る近現代の政治哲学者によれば、公正な社会とは、各人がよき生き方に関する自らの考え方を選ぶ自由を尊重するものなのだ。従って、正義を巡る古代の理論は美徳から出発し、近現代の理論は自由から出発すると言えるかも知れない。

1.最大幸福原理  功利主義
 ジェレミー・ベッサム(1748~1832)は、功利主義の原理を確立した。正しい行いとは「効用」を最大にするあらゆるものだという。誰もが快楽を好み、苦痛を嫌う。功利主義哲学はこの事実を認め、それを道徳生活と政治生活の基本に据える。
ベッサムの「最大幸福」原理に対する二つの反論
1.最大幸福原理は人間の尊厳と個人の権利を十分に尊重していない
2.道徳的に重要なすべてのことを快楽と苦痛という単一の尺度に還元するのは誤りだ

ジョン・スチュアート・ミル(1806~1873)
 個人の自由や異なる意見を表明する権利を守ることが、長期的には社会の幸福を増大させると考える『自由論』の中心原理は、人間は他人に危害を及ぼさない限り、自分の望むいかなる行動をしようとも自由であるべきだというものだ。

 ベッサムは快楽の質的な違いを認めない。ミルは質の高い快楽と低い快楽は区別できると信じている。質の高い快楽は、われわれが好むから質が高いのではない。われわれをより豊かな人間にしてくれるからなのだ。
 ベッサムとミルという功利主義の2人の偉大な提唱者のうち、ミルのほうがより人間味のある哲学者であるのに対し、ベッサムのほうはより断固とした哲学者だ。

2.リバタリアニズム(自由市場主義)
 リバタリアンは、人間の自由の名において、制約のない市場を支持し、政府規制に反対する。『アナーキー、国家・ユートピア』(1974年)の中で、ロバート・ノージツクは、「契約を履行させること及び、暴力、盗み、詐欺から国民を守ることに権限を限定された最小国家だけが、正当な存在である。」と提起した。貧しいものを助けるために富めるものに課税することは、富めるものへの強制である。それは自分の所有物を自由に利用するという、富めるものへの権利を侵害する。

3.重要なのは動機
 イマヌエル・カント(1724~1804)の理論は、人間は理性的な存在であり、尊厳と尊敬に値するという考え方だ。道徳とは幸福やその他の目的を最大化するためのものではなく、人格そのものを究極目的として尊重することだと論じ、功利主義を徹底的に批判した。多くの人に喜びを与えるものが正しいとは限らない。どんなに熱心に支持しようと、過半数の賛同を得ようと、その法律が正しいとは限らない。
 『道徳形而上学原論』(1785年)は、18世紀の革命主義者が人間の権利と呼んだもの、そして21世紀初頭のわれわれが普遍的人権と呼んでいるものの強固な礎となっている。カントによれば、ある行動が道徳的かどうかは、その行動がもたらす結果ではなく、その行動を起こす意図で決まる言う。カントにとって、すべての人間の人権を守ることが正義だ。

4.格差原理 ジョン・ロールズ(1921~2002)
 天賦の才の持ち主には、その才能を訓練して伸ばすよう促すと共に、その才能が市場で生み出した報酬は共同体全体のものであることを理解してもらうのだ。
 われわれの貢献度は、少なくともある程度は持って生まれた才能、つまり自分の功績とは言えないもので決まるのである。私のスキルが生み出す利益の多寡は、社会が何を求めているかによって決まる。何が貢献的であるかは、その社会が何を求めているかによって決まる。今日の社会で、自分の才能から利益を得る権利を与えられているからと言って、自分の得意分野が評価してもらえる社会にいることを当然と思うのは誤りである。

5.アリストテレスの正義論
 アリストテレスにとって政治の目的は、善き市民を育成し、善き人格を養成することなのだ。美徳は習慣の結果として生まれる。われわれは正しい行動をすることで正しくなり、節度ある行動をすることで節度を身につけ、勇敢な行動をすることで勇敢になる。美徳を身につけるには練習しなくてはならない

6.コミュニタリアン(共同体主義者)
 自由に選択できる負荷なき自己という理想に異議を唱える。正しさは善に優先するという意見をはねつけ、目的や愛着を捨象しては、正義を論じることはできないと主張した。
 道徳的熟考とは、自らの人生の物語を解釈することだ。選択とは意思が支配する行為ではない。様々な事例を通して、自由の構想には欠陥があることを示そうとしている。

7.市場の道徳的限界
 どれを市場の侵入から守るべきかを問わなくてはいけない。善の価値を判断する正しい方法について、対立する様々な考え方を公に論じることが必要だ。市場は生活的活動を調整する有用な道具である。だが、社会制度を律する基準が市場によって変えられるのを望まないならば、われわれは市場の道徳的限界について公に論じる必要がある。

8.貧富の差による悪影響
 富裕層が公共の場所やサービスを離れることにより、二つの悪影響が出ている。一つは財政的、もう一つは公民的な悪影響だ。公共サービスの質が低下し、それらを利用しなくなった人々が、自分たちの税金で支える気を無くすからだ。公共の施設が数を減らし、多種多様な職業の市民が出会う場がなくなる。連帯とコミュニティ意識を育てるのが難しくなる。不平等は市民道徳をむしばむ畏れがある。

事例
A.アメリカ人は、強欲よりも失敗に厳しい
 2008年10月の金融危機に際して、ジョージ・Wブッシュ大統領は、大手の銀行や金融会社を救済するため7000億ドルの支出を議会に求めた。公正であるべきだという配慮よりも経済全体の安寧のほうが優先された。議会は救済資金の支出を渋々承認した。救済資金の支払いが始まって間もなく、公の施しに頼っている企業の幹部が数百万ドルのボーナスを受け取っていた。
 アメリカ人が憤慨したのは、失敗した経営者が報酬を得ていることである。その報酬を納税者が賄っているとなれば、なおさらである。自社の失敗は自分の経営判断のせいはなく、もっと大きな経済の力に原因があるとする経営者の言い分が正しいなら、それ以前の膨大な利益もそうした力のおかげだと言えるのではないだろうか。不作の年が悪天候のせいだとすれば、快晴の時期に生じた途方もない利益が、経営者たちの才能、知恵、勤勉さのおかげだ等と、なぜ言えるのだろうか。

B.厳密には真実だが誤解を招く表現と、真っ赤な嘘との違いは何か。
 念入りにこしらえた言い逃れは、真実を告げるという義務に敬意を払っている。世間は必ずしも彼らを信じるのをやめはしない。それが文字通りの意味かどうかを慎重に分析する。真実ではあるが誤解を招く表現を使うことは、道徳的には許されるが、あからさまな嘘は許されない。
 カントは嘘をつくという行為に非常に厳しい。真実を告げる義務は、どんな状況でも適用される。カントにとって道徳は結果ではなく、原理と関わる問題だ。常に真実を語ることは、例外なく適用される神聖な理性の法則なのだ。

C.ジョン・F・ケネディとバラク・オバマ
 ケネディはカトリック教徒だったが、それまで大統領に選ばれたカトリック教徒は一人もいなかった。信仰は私的な事柄であり、公的責任とは何の関係もないと彼は言った。オバマは、宗教と政治論議の関連性を肯定する持論を展開するようになった。ジョン・F・ケネディとバラク・オバマに共通点を見出した人は多い。とはいえ、政治における宗教の役割に関しては、2人の見解は正反対と言えるほど異なる。

D.共和党と民主党
 二大政党は共に中立の考え方をアピールしたが、その方法は異なっていた。共和党は経済政策にこの観念を利用し、民主党は社会的・文化的問題に応用した。
 共和党は自由市場への政府の介入に反対だった。どんな目的を追求するか、自分の金をどう使うか決める自由が個人に与えられるから、減税は財政支出より好ましい。
 民主党は、自由市場はどの目的にとっても中立だという概念を拒み、経済に政府がより大きく介入する措置を擁護した。だが、社会的・文化的問題になると、中立性という言葉を持ち出し、個人に自ら選択させるべきと主張した。

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