フランケンシュタイン・コンプレックス
2010年06月21日(月)
人間は、いつ怪物になるのか
小野俊太郎著
青草書房
2009年11月24日発行
2100円
頭がクリアな時にパワー全開で読み込まないと、理解が困難な1冊である。内容が濃く、未知の世界が広がり、考えを巡らす楽しさがある。読む人の感性によって様々な発見があると思う。
小説の怪物たちを通して現代の異常を探り、原因を考察する。ブラックボックス化した人間の内面を探求し、偏見や差別を克服し、外観に左右されない共感する心を育みたい。
また、ロボットに対する欧米と日本人の考え方の相違にも着目し、20世紀に生み出された怪物やスピルバーグの映画に見られる怪物たちの後継者にも注目したい。
1.フランケンシュタイン・コンプレックス
生命を考える時に身体(ボディ)と魂(ソウル)のどちらに重きを置いて捉えるか、が一つの目安と言える。日本には、脳死判定を巡る議論のように、「死者は既に魂を失った無生物」として機械的に扱う発想には反発が強い。
しかし、欧米では、内蔵などの人体をパーツ化して流用し、困っている患者を助けることで、人間全体の社会的有用性を高める。キリスト教は、万人が神の被造物として等しい、と見なすからである。そして、欧米には根強いロボットが人間に反逆するのではないか、という「機械嫌悪」に基づく不安があり、これを20世紀半ばに、「フランケンシュタイン・コンプレックス」とSF作家のアイザック・アシモフは呼んだ。自分が作りだした怪物におびえるヴィクターのように、創造者であり主人の側である人間が持つ複合的な感情を指す。この場合にはロボットへの嫌悪や否定だけではなく、そうした意識の裏返しと言える嫉妬や劣等感までも含む複雑な感情なのである。
2.ブラックボックス
「ブラックボックス」という言葉は、第2次世界大戦後に広がった。入力と出力の関係を重視し、内部のメカニズムに誰も疑問を持たず、あまり深く考えずに先に行ける。ある「入力」に対して、異常な「出力」をした場合に、どのように対応するのか。内部のメカニズムをチェックして、修理することだろう。もう一つは、修理せずに丸ごと交換する方法である。
人間を機械のようなブラックボックスとして扱ったらどうなるのか。状況を改善するよりは、社会や組織から取り外し、別の人間に入れ替えた方が手っ取り早いという考えである。このシステムこそが怪物を生み出す原因の一つとなったりする。殺人犯のような怪物がどのように発生するのかを考えず、排除の圧力は高まっていく。しかも、時代に合わせて怪物の姿そのものも変化してきた。
3.「共感」と「同情」の区別
「共感」は、神経を流れる電気を通して伝わる感覚を指す。同情のほうは、本来宗教的で道徳的なものだ。ヴィクターは、怪物に義務的な「同情」はしても本能的な「共感」できない。
また、目が不自由な老人は、視覚的な偏見を持たず声だけで相手の性格を読み解こうとした。そして、偏見に苦しんでいる怪物に同情を寄せ、心を開く。それに怪物は感激し、体の接触による交流を始めようとして、手を伸ばした時、帰宅した家族からは襲う場面に見えた。これによって、怪物は再び見た目で判断される存在に戻される。怪物は人間社会が示す「反感」から、正義を信じて行動する人間といえども、相手を外観で判断して対等に扱わない、という現実を体験する。そのため、怪物の側も人間への「共感」を絶ってしまう。
4.怪物たちの変遷
190年前に20歳そこそこの若い女性、メアリー・シェリーは「フランケンシュタイン」で、パンドラの箱を空けてしまった。彼女が感じ取ったのは、人間と怪物の境界線をどこに引くのか、という疑問だった。また、「創作とは無からの創造ではなく、混沌からの創造」と述べた。「フランケンシュタイン」が取り上げているテーマはたくさんあるが、現代でも未解決である。怪物を通じて、家族や社会や個人を巡る様々な課題(差別や偏見から、疎外や悲哀、そして憤怒から暴力まで)が描き出されてきた。
A.フランケンシュタイン
「フランケンシュタイン」は、20歳を過ぎたばかりのメアリー・シェリーが1818年に発表した小説である。これは北極を目指すイギリス人探検家ロバート・ウォルトンによる姉への報告の手紙と、彼が書き留めたヴィクター・フランケンシュタインの告白からなっている。
「フランケンシュタイン」とは、人造人間をつくったヴィクターの苗字であり、ドイツのインゴルシュタット大学に通う優秀な学生だった。裕福な家の出身なので、自分で借りた屋根裏部屋を実験室にして、問題の「怪物」を創造する。1931年のユニバーサル映画のインパクトが強かったので、「フランケンシュタインが作った怪物」が、「フランケンシュタインという怪物」だと誤解され、20世紀の常識として定着した。
怪物の「醜さ」については、作っている間にはっきりしていたはずだが、ヴィクターの美的な感覚よりも、真理を求める欲望が優先している。醜い物といえども彼は途中で実験を中止することはできなかった。やり終えた今、その夢の美しさも終わってしまい、自分の作りだした物のあまりの醜さに、存在そのものを拒絶してしまう。
B.「ジーキル博士とハイド氏」
「二重人格」はあくまでも分裂を自分の中に抱える。その代表が、R・L・スティーブンソンの「ジーキル博士とハイド氏」(1886)である。
これによって、ブラックボックス化した人間の内部が明らかになる。ジーキルが生み出したのは、進化論の裏返しとも言える「退化」を連想させる。薬によって、猿などの人類の先祖へ戻った。心だけでなく、身体も変身する。
また、これは、一人の人間の中での善悪の分離という、道徳的な主題を扱った。 ハイドは世界にたった一人しかいない「純粋な悪」だろうが、ジーキルのほうは「善と悪」をもつ普通の人間とされている。
意識が「引き裂かれる」という不安が、恐怖を生む源となり、そして、怖さの重点は、ハイドの奇怪な容姿やおぞましい行動といった物理的な恐怖から、ジーキルが隠し持っていた欲望や精神の錯乱が生み出す心理的な恐怖へと変わっていく。自分の内部にもハイドがいるかもしれないという恐怖でもある。
C.透明人間
H・G・ウェルズの「透明人間」(1897)は、薬品による変身とその社会的な影響に重点を置く。透明人間を非透明化つまり本来の可視の状態に戻す話である。
透明人間の最大の武器は、透明であることだが、それを維持するには24時間全裸で過ごさなくてはならない。透明人間になった全裸のグリフィンは、不自然で奇妙で「反文明的」な野蛮状態にある。透明化が進歩ではなくて、退化それも原始化だった。そして、肌を見せるのを嫌った社会で、遺体は裸体だった。
D.ドラキュラ
1897年にプラム・ストーカーの「ドラキュラまたは不死者」が出版された。「不死者」とは吸血鬼を指している。ドラキュラは栄養源として人間の血を吸っているだけではない。吸血行為によって増殖する、という特徴を持っている。
ドラキュラは社会が持つ合法性に縛られている。むしろ社会が持つ合法性を破ろうとするのは人間の側である。だが、ルールを踏まえながらもこうして臨機応変にルールを破る、というのは人間と怪物の境界線を考える上で重要なポイントとなる。社会では刻々と約束事や取り決めが変化している。ヴィクターの怪物もドラキュラも理解できないのは、人間の側が「共感」や「合法性」を維持しないことだろう。この時代の怪物たちは、最初の学習内容のまま行動する。そのために人間たちとずれてきてしまう。悲劇や暴力沙汰は、怪物が持つモラル的な悪のせいではなく、認識のズレや学習能力が欠けているせいで引き起こされる。あえて違法や悪を選択するのは人間のほうである。そのことに戸惑ってしまい、ルール通りでないと怒りを爆発させるのは、怪物のほうなのだ。
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