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福岡伸一、西田哲学を読む

2018年08月14日(火)


福岡伸一、西田哲学を読む 生命をめぐる思索の旅
 動的平衡と絶対矛盾の自己同一
著者  池田善昭 西田哲学の継承者
    福岡伸一 分子生物学者
「生物と無生物のあいだ」
kojima-dental-office.net/blog/20200914-14306#more-14306
明石書店
2017年7月7日発行
1800円

 「動的平衡」概念の提唱者・福岡伸一氏が、池田善昭氏を指南役に、専門家でも難解な西田哲学を鮮やかに読み解いた1冊。その過程で「生命の定義」にもたどり着く。
 弟・憑次郎の娘が祖母にあたる妻の縁あって、「善の研究」をチャレンジするも数ページで跳ね返されてきた。今回は理解に及ばなくとも、半分以上を読み進むことができた。適切な事例が頭の中を霧状態からおぼろげな形へと手助けしてくれた。しかし、最後まで「逆限定」は難しかった、「環境が年輪を作ると同時に環境は年輪によって作られている」。それでも、スッキリすることもあった。西洋哲学「すべてが理解し尽くせる」が及ばないこともある。自然には説明つかないことも、論理的に分からないことも存在する。改めて、エビデンスがなくても、現場の実体験、感覚を大切にしたい。
 西田幾多郎
www.nishidatetsugakukan.org/column1.html

001

1.ピュシス対ロゴス
 ロゴスは、自然を切り分けし、分節化し、分類し、そこに仮説やモデルやメカニズムを打ち立てようとする言葉の力、もしくは論理の力である。一方、ピュシスとは、切り分け、分節化し、分類される以前の、ありのままの、不合理で、重畳で、無駄が多く、混沌に満ちあふれ、あやういバランスの上にかろうじて成り立つ動的な物としての自然である。自然とはロゴスではなく、ピュシスである。ロゴスを突き詰めていくと、自然の本当の姿を見失いがちになる。このことに気づくためには、ロゴスの山に登り、そこにたどり着かなければならない。
 古代ギリシャで、今から2千数百年前にヘラクレイトスが「相反するものの中に美しい調和がある」と唱えた。正しく理解する人はほとんどいなかった。彼の立場が「ピュシスの立場」。それと対となる言葉として「ロゴスの立場」がある。ロゴスの立場というのはすべてが理解し尽くせると考える。
 プラトン以降の哲学では、理解できるもののみを人間は考えるべきという立場が主流になってきた。ヘラクレイトスが唱えたピュシスが忘れられて、ロゴス偏重の世界になった。
 20世紀にハイデガーが、数学的な理念的世界(コンピュータの世界)が客観性に基づいたものではなくて、実は人間の主観性に基づいたものである、ということが明らかにした。
 ピュシスの世界は、主観と客観とが分かれる以前のところで成立する世界。論理と生命と実在が離れ離れにならず、それらが一つになっている世界。ロゴスでは、論理と生命と実在とが離れ離れに論じられてきた。

2.生命を存在としてではなく、実在としてみる
 「生命とは何か」の問いに、西田は正面から答えようとしている。これまで、逃げた答えを返す人が多かった。生命の属性(細胞を持つもの・遺伝子を持つもの・代謝を行うもの)を列挙していた。近代科学の発想の中で、姿形という現象のみにとらわれてしまい、実在を理解することができなかった。身体は絶え間のない合成と分解のさなかにある。今日の私は昨日の私とは異なる。1年も経てば、私は物質的にはすっかり別人になっている。生命は流れの中にある。私はこれを動的平衡と呼んでいる。その中で、記憶だけが保たれ、私の自己同一性を保障している。
 遠浅の海辺。波が寄せては返す接線ぎりぎりの位置に、砂で作られた域がある。時間が経過しても姿を変えていないように見える。しかし、同じ域を形作っている砂粒はすっかり入れ替わっている。海辺に立つ砂の域は実体として存在するのではなく、流れが作り出す効果としてそこにある動的な平衡である。
 エントロピー増大の法則は容赦なく生体を構成する成分にも降りかかる。高分子は酸化され分解される。集合体は離散し、反応は乱れる。タンパク質は損傷を受け変性する。エントロピー増大の法則に抗う唯一の方法は、システムの耐久性と構造を強化することではなく、むしろその仕組み自体を流れの中に置くことである。つまり、流れこそが生物の内部に必然的に発生するエントロピーを排出する機能を担っている。秩序は守られるために絶え間なく壊されなければならない。
 参考に
福田伸一抄訳 西田幾多郎「生命」
 生命の世界は、雑多な細胞の集合体であるものが、全体として一つの有機体として機能するという、相反する状態が重なりあった世界である。これは逆反応(合成と分離、酸化と還元、あるいは取り込みと放出)が同時に行われている上に成立するバランス、いわゆる「動的平衡」状態といえる。
 細胞が絶え間なく自ら死に・自らを作り出す流れ(=時間)の中に個体はあり、個体は絶え間なく交換されるジグソーパズルのピースのごとき細胞によって、おぼろげで輪郭(=空間)を持った全体像としてある。
 生命は、先回りして分解反応を行うことによって、「時間をかせいで」いる。だから、動的平衡としての生命は、きれめのない流れとして時間を生み出すことができる。

3.「あいだ」にいのちがある
 「あいだ」で行われる物や情報などのやりとりの中にいのちがある。細胞膜の「膜」は、細胞の外側と内側の「あいだ」を意味する概念、実在する線や輪郭ではない。
 生命が「動的平衡」を維持するに際して、やがて崩壊する細胞膜の再構築のために、崩壊する構成成分を敢えて「先回り」して分解する。未来に起こることを先取りしないと、生命は自分というものを再構築できない。滅びていいはずの生命が数十億年も生き延びている仕組みは、時間に「先回り」したこと。
 「あいだ」の思考は、従来の西洋科学にも西洋哲学にもなかった。それが西田によって、初めてなされた。西洋科学や西洋哲学を学んできた人が西田を理解できないというのは、当たり前のこと。
 参考に
今西錦司の「棲み分け理論」
 彼の生態学も、自然科学の世界では「科学的ではない」とされている。今西錦司の「棲み分け理論」は、西田哲学の立場からすると、間違えのない、真っ当な理論。
 「棲み分け」というのは、生物が互いに自分の分、分際を分かっていて、互いに退却しあった上でぼんやりとした「あいだ」と言うか、境界線にならない動的な平衡の界面を作っているという考え方。近代ダーウィニズムはそういうことを認めない。そこでは、常に競争の結果として起きたことしか、進化のフィルターにかからないはずだと考えているので、生物同士が勝手に協力しているというような「美しい調和」のようなものは認められない。
 例えば、蝶は幼虫の時、それぞれの種ごとに自分の食べる葉を限定している。植物はどれも基本的には同じ栄養素を含んでいるので、幼虫は目の前にある葉を食べれば生きていけるはずなのに、アゲハチョウはミカンの葉、キアゲハはニンジンの葉というように種によって自分たちのたべるものを細かく限定している。「棲み分け」をしているように見える。ロゴスの立場では、複数の生物種がせめぎ合いながら、競争の結果起こったことじゃないと認められない。
 チャールズ・ダーウィンは、環境が生物に与える影響を主として見ている。それに対して、今西は、生物の側から環境を認識することを主体性としてとらえている。今西の棲み分け理論においては、環境と生命との関係が、あくまでも「包まれつつ包む」という形、双方向のものになっている。
 具体的な事例で言うと、幼虫は同じ種でありながら、加茂川で流れが速い所と緩慢な所ではカゲロウの形態が異なる。今西の棲み分け理論はその発見によって着想された。環境によって選ばれているだけではなく、環境に対してカゲロウから主体的に働きかけている。

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