のぼるくんの世界

のぼる君の歯科知識

街場の教育論

2009年03月17日(火)


街場の教育論内田 樹著
ミシマ社
2008年11月28日発行
1600円

 教育の現場からの指摘は多方面に相通じるものがある。医療界も「どうやって利益を上げるか」ではなく、「皆のために何をすべきか」である。しかし、経営が多難だったり、営利目的の企業が参入することにより、効率能率が判断基準の上位にランクされる危険性が出てきた
 また、本を参考に、スタッフの「働くモチベーション」を鼓吹し、グレーゾーンのミスをカバーできる「共同的に生きる能力」を育てていきたい。そして、「符丁が通じない相手」に理解できるインフォームドコンセントを努力し、これからますます分野を超えた人々と交流を深めていきたい。

1.高等教育の目標
 大学教育では、教養教育と専門教育が区別される。教養教育で自分と世界の違うものとのコミュニケーションの仕方を学ぶ。次いで、専門教育の「内輪のパーティ」で、符丁を使って話す仕方を学ぶ。そして次に、これまで符丁で話してきたことを「符丁が通じない相手」に理解させる
 教養教育は、「自分がどう振る舞ったらよいかわからない時に、なお適切に振る舞うやり方」を身につけることだ。共通の科目で机を並べることで、分野を超えて共有できる知的な共通基盤を作りだし、「コミュニケーション・プラットフォーム」を共有してもらうというのが教養教育の眼目だ。
 しかし、日本の大学はそのほとんどが90年代に教養課程を廃止した。入学してから2年間を教養課程のような「無駄なこと」に費やしてもしょうがない。それより入学してからすぐ専門教育を施した方がいいと。財界・産業界からの強い要請があって、1年生から専門教育をすることにした。その結果、専門教育の「内輪のパーティ」で、符丁を使った話し方は熟練したが、「符丁が通じない相手」からの問いにはうまく答えることができなくなった。そして、他分野の人に、自分が今研究していることを理解させることができなくなり、他の専門家とコラボレートができなくなってきている。

2.勉強と労働はまったく別物
 「努力」の形態として受験勉強しか知らない若者たちが、就活において始めて、「努力と成果が相関しない」という経験に遭遇し、「競争」の過程で教わってきたこととは全然違う基準で選別されるという経験をする。社会的活動は、「競争」ではなく、「協働」であり、「集団のパフォーマンスを高める知識と技術」が何より求められている。
 しかし、若者たちは、「共同的に生きる能力」が不足しているため、お互いに相手を干渉せずに好きなようにできる「モジュール化された仕事」を選択し、「ジョブ」と「ジョブ」の間のグレーゾーンを「マネージする」権限を差し出し、非正規雇用や劣悪な労働条件に追い込まれていく。

3.教育危機
 「一人では食えなくても、二人なら食える」他者の合意が必要であれば、消費活動は鈍化する。マーケットは、消費行動の最大の抑制要因である「家族内合意形成」というプロセスをこの世からなくす方法を考えた。「自分らしく生きると言うことは、要するに誰の同意も必要とせず商品選択を自己決定できる」というイデオロギーを支配的なものにした。現在の教育危機は、学校教育の中に社会システムが入り込みすぎて、コントロールを失った状態だと理解している。「いじめ」というのは、「集団を形成する能力」の不足の表れと見なして良いのではないかと思う。今、学校が果たすべき最優先の仕事は、子供たちが共同的に生きるための術を体得するより先に、「個別化せよ」という圧力をかけているグローバル資本主義の介入に対する「防波堤」となることだ。

4.義務教育は何のためのものか
 教育の第一義的な目的は、「世俗の価値観」と違う度量衡で考慮される「叡智の境位」が存在することを信じさせることだ。つまり、「ここ」を支配している同一の価値観(文科省も教育委員会も親も地域社会もメディアもマーケットも)とは違うものに繋がることだ。
 子供たちに最初に教えるべきことは、「どうやって助け合うか、どうやって支援し合うか、どうやって一人では決して達成できないような大きな仕事を共同的に成し遂げるか。」のはずだ。そのために必要な人間能力を育てることに教育資源は先ず集中されるべきだろう。
 「学ぶ」仕方は、現に「学んでいる」人からしか学ぶことはできない。「私には師がいた」というのが、教師が告げるべき最初の言葉であり、最後の言葉なのだ。学びの場は本質的に三項関係だ。師と、弟子と、そしてその場にいない師の師。「師の師」こそが、学びを賦活する鍵なのだ。

5.「私を高みから見ている機能」
 「学び」というのは自分には理解できない「高み」にいる人に呼び寄せられて、その人がしている「ゲーム」に巻き込まれるという形で進行する。自分の手持ちの価値判断の「ものさし」ではその価値を考量できないものがあるということを認めなければいけない。自分の「ものさし」を後生大事に抱え込んでいる限り、自分の限界を超えることはできない。「学び」とは、想定していた「決めつけ」の枠組みの上方へ「離陸すること」だ。

6.成熟
 知らないことを「知っている」と言って、それ以上の努力を止めた時、その人の成熟は終わる。成熟というのは、「表層的には違うもののように聞こえるメッセージが実は同一であることが検出されるレベルを探り当てること」だ。成熟し続けようと思うなら、「違うこと」が実は「同じこと」であるレベルに出会うまで、深い穴を掘るしかない。

考え方の最新記事