のぼるくんの世界

のぼる君の歯科知識

グローバルヘルスの現場から見えたこと

2023年11月12日(日)


  -ハルマッタンの風に運ばれて-
著者 池田憲昭
口腔保健協会
2023年9月30日
1800円
 若いときの出会いは大切。それを受け取れる素晴らしさに感動。
 池田憲昭氏講演会
 「開発途上国における保健システム強化支援について」2008年10月19日
kojima-dental-office.net/20081019-2742#more-2742
 格差社会において20年以上グローバルヘルスの現場で「派遣された国の人たちが公平に適切な保健サービスを受けることが可能になるような行政の強化や仕組み作り」を現地の人たちと共にしてきたと私は思っている。しかし、パンデミックの今は、経済的格差がむしろ拡大するという現実に直面している。
 10年にわたるコンゴ民主共和国での仕事を終えた時、地元メディアからの忘れられない出来事とはのインタビューに、エボラウイルス病対策の第一人者である疾病対策局長が「それまでは、外から来る援助する側が決めた事を言われるままにしてきた、日本が始めて我々を『大人』として扱ってくれた」と言ってくれたこと答えた。
 そのメディアから日本の協力について聞かれた局長が、「自分たちがやりたい事を日本の協力で見えるようにしてくれた」と言っているのを聞いた。日本流の協力の仕方は、自分たち自身が考えなければならず、最初は面倒だと思ったが、最終的には対等に扱ってくれている、自分たちが尊重されているとも付け加えた。
 引退したこれからは、これまで派遣された国々にのんびりとプライベートで訪れ、私たちがやってきた事が10年後、20年後に現地に根付いているのか、終わってしまうのか見届けてみたい。
1.グローバルヘルスの現場から見えたこと
 私がアフリカで経験してきたグローバルヘルスは、「世界中の全ての人々の健康の公平性を達成することと人々の健康の改善に優先順位を置くこと」。先進国においてもアフリカにおいても、人の命の価値は同じだという基本的な合意に基づいている。
 私のグローバルヘルスへの関わりとは、口腔外科医としてのフランスへの留学から始まり、アジアから南米とアフリカ、エイズからエボラそして新型コロナ感染症の長い旅であり、アフリカという「辺境」と呼ばれる地で、そこで起こっていることを見て、人々と話し、考え、教えられることだった。世界のどこかで健康格差のために命を失っている人たちを思い遣ることが、グローバルヘルスに携わる者の出発点であると思っている。
 ①開発支援と「パラレル・システム」
 行政サービスとは、地域の問題や住民の意思やニーズを自治体や国が把握し、合理的な政策のもと、必要な措置・支援をするというもの。
 開発パートナーの支援の仕方がむしろ悪影響を及ぼしていることもある。開発パートナー主導の活動が優先されるから、その国の保健省が計画した活動の執行率が低くなる。
 コンゴ民主共和国保健省調査計画局長からWHOに移籍したイボリット・カランバイ氏が本来目指したかったのは自国の保健行政の強化であったが、実際には開発パートナーの活動を執行するための「パラレル・システム」を省内に作らざるを得なかった。WHOから出版した報告書には、国の保健計画の執行率が20%に満たず、反対に開発パートナーの予算執行率が100%近くあったことが言及されている。また、開発パートナーではなく、その国自身が援助調整を果たすための能力を身につけるべきだと結論づけている。
 【パラレル・システムが生まれる背景】
 パラレル・システムとは、自国の既存の行政組織とは別に、自国への支援として割り当てられる莫大な予算規模の活動を執行するための組織のこと。支援者依存の傾向の強いアフリカ諸国では、保健省の組織図に並行した国家プログラムとしてよく見かける。
 ②アフリカ人同士の協働
 1976年と1981年、エボラとエイズは、どちらもアフリカの森の動物とヒトの接触を契機としたウイルス性疾患として、突然現れた。
 1976年、コンゴ民主共和国(当時ザイール)人医師のジャン・ジャック・ムィエンペ・タムフム氏が森林の猿に起源があるエボラウイルスを発見し、40年間に国内の7回のアウトブレイクを封じ込めた。「人間が作った国境とは関係なく森は繋がっている。野生動物を狩猟して、栄養源としている森の人々の生活も国に関わらず同じだから、エボラはアフリカのどこにでも発生しうる。エボラ感染拡大の予防には、国境の検疫だけではなく、平時から住民への働きかけと疾病の早期発見が大切である」と語りかけていた。
 人材と資機材の豊富な先進国では、エボラのように高度に感染力の強く致死率の高い感染症に感染した患者は直ちに専門病棟で治療が可能。しかし資源の乏しいコンゴでは、感染症の発生した地域に臨時のケアセンターを設けて、中央から感染対策に経験のある専門家を送り込んでその地域全体で流行を封じ込めるという、独自の方法を実施して長年経験を蓄積してきた。
 WHOは、2013年から始まった西アフリカのエボラのアウトブレイクの時に、この対策方法を採用して、2014年に経験のあるコンゴ人専門家を150名以上前線に送り込んだ。外国からの支援に頼らず、国内で独自の封じ込め方法を続けてきたムィエンペ氏の偉大さとその対策チームのパフォーマンスの質の高さを、私は、コンゴ民主共和国保健省に2008年から派遣されていたにもかかわらず、その時まで知らなかった。
 2015年3月、ムィエンペ氏とコンゴ民主共和国のエボラ対策専門家チームが、エボラ対策を支援するためのコートジボワール保健省と話し合いの場に、私はコンゴ民主共和国の保健相顧問として同行し、アフリカ人同士が真剣に協働する現場に立ち会った。私は、西アフリカ諸国に対する長い開発支援の中で、それぞれの国が自立した保健行政組織を作ることができなかったのか、開発支援する側に謙虚な視点が欠けていたと感じた。西アフリカのエボラ流行は、保健開発支援の目的が、「パラレル・システム」を作らせることではなく、長期的な視点でその国のニーズに対応できる保健行政を構築することにあることを伝えているように思う。
 ③セネガルの経験をコートジボワールに
 2019年3月にコートジボワール・アビジャンで小さな国際セミナー「妊産婦・新生児継続ケアについて考える」を開催した。セネガルの保健省の専門家が、貧困州タンバクンダで生まれた「妊産婦・新生児継続ケアモデル」を国の政策として全国に普及したこと、また、出産の現場で科学的根拠に基づくケアが実施されるようになり、女性の満足度が高くなったという疫学的調査結果を発表した。北側が南側を援助するというのがグローバルヘルスの基本形と考えられていたが、西アフリカで西アフリカの人によって創られた、西アフリカの背景を十分配慮したモデルが、今セネガルからコートジボワールに手渡された。
 ④人道的アクション
 ムクウェゲ医師は、不当な暴力によって「傷ついた」女性たちのケアに長年携わってこられた。その献身的な活動は、介入や統治を「する側」の国や国際機関やNGOではなく、「される側」の国の一人の医師による自発的な人道的アクションとして世界に知られるようになった。
 人道支援をしたがっている、新しい参加者は、動機が非営利というわけではないから、ある種の混乱を生んでいる。ムクウェゲ氏の活動こそが、「利益」を目的とせずに、苦しんでいる弱い人々を救済する、正に「人道的アクション」と言える。
2.アフリカにおける病院サービスの質改善の挑戦
 ①日本型マネージメント5S
 アフリカの多くの国では、世界的な努力と莫大な投資で、富裕層は先進国並みの保健サービスが享受できるようになったにも関わらず、同じ国民の貧困層へのカバー率が低く、この純然たる格差は多くの開発途上国での共通の問題になっている。
 開発途上国の場合、5Sをまず導入して成果を確認した上でKaizenを始めるという段階的な方法が成功の秘訣である。その理由は、5Sによる業務環境改善には多額な予算は必要無い、5S導入から短期間(3ヶ月ほど)で目覚ましい成果が出るので現場の従業員の士気が上がり、全員参加の日常的な業務という精神と習慣が組織に根付く。
 ②Kaizen
 マダガスカルは貧しい国であるが、首都以外の州の比較的末端まで医療従事者が配置されている。生まれた場所で死んで、先祖になるという日本人と同じような精神性があり、他のアフリカ諸国に多い頭脳流出が比較的少ない。
 2000年10月に、私はマダガスカル北西部のマジャンガ大学病病院に病院長に対するアドバイザーとして赴任した。訪れる患者全員の診療情報と会計を病院が把握しているわけではない状況にあった。診療を終えた患者は、医師や看護師たちの言う通りに治療費を直接医療者に支払うこともあり、医療従事者のモラルにも問題があった。このような状況で、病院統計には外来患者数が実数より低く記録されている。こういう問題は、アフリカの病院では共通のことであった。
 マジャンガ大学病院の産科と小児科の連携を図る定例会議の特徴は、臨床だけでなく、病院管理部と州医務局行政官も参加したことで、現場の情報が病院のマネージメントと行政にフードバックできる仕組みだった。
 アドバイザーとして、この病院に対して2004年までに、地域医療施設との連携の仕組み作り整備と、病院受付科を新設して新規患者の登録及び診療と会計を一本化するための仕組み作りを支援した。
3.グローバルヘルスを仕事にする若い人たちへ
 ①内田義彦著「学問と芸術」 藤原書店 2009年
 学問の力は、世界が今までと違って見えてくる、眼に映らなかった事実が確かな手応えを持った事実として見える、そういう想像力を自分に身につけてくれる。そして、必要な洞察力と直感が磨かれ、そこから勝負できる智恵と精神的なタフさが身につく。
 ②開発経済学者アマルティア・セン
 他人の権利が侵害されていることを知った時、それによって自己の置かれている状況には何ら利益をもたらさないことであっても、何らかの行動に出る決心をすることを「コミットメント」と呼んだ。
 支えられることを待っている「弱い立場の人たち」のいる現場は、開発途上国だけではない、災害大国日本の被災地も。
 弱い立場の人を支援し、人々のケアにコミットするということは「利他」的行動ということもできる。
 ③伊藤亜沙
  『利他とは「聞く事」を通じて、相手の隠れた可能性を引き出す事であると同時に自分が変わる事である』と述べている。
 自分の支えを必要とする人たちがいる事を知ったなら、国内外にかかわらず、先ずはその現場に立って人々の話を聞く事から始めて欲しい。
 ④「貧乏人の経済学」(みすず書房、2012)
   2019年度ノーベル経済学賞を受賞したアビジット・V・バナジーとエステル・デュフロの共著
 無力感に陥った時は、思い出してみるとよい。政治や行政の不正などの「大きな問題」には、「大きな答え」が必要というわけではなく、末端の現場の小さな変化を積み重ねがあれば、時には静かな革命だって起こると述べている。
 専門家や援助関係者、あるいは地元政策立案者の「3つのI」が、貧しい人を助けるはずの多くの努力をむしばんでいるという。こうあるはずとの思いこみ(イデオロギー)や、現場の状況を知らず(無知)、間違ったことを続ける(惰性)、この「3つのI」の一つひとつに気をつけることで、下からの小さな変化を増やす。
 地方に医師や看護師の数が不足と低手、貪剤や資源が首都や都会に集中してしまう傾向は、アフリカ諸国ではより一層顕著になっている。「保健人材管理」とは、必要な数の保健人材を養成して、適正に配置すること。また、配置された人材がある一定の年月は定着するという仕組み全体を意味している。
 しかし、アフリカの特殊事情があると感じる。人材管理に透明性を確保したいという担当者と、不都合なことは隠したいという政治家との難しい関係がある。権力を持つ政治に対し、各国の政策担当者が連帯することが、人材管理を政治の道具として使うというこれまでのアフリカの文化を大きく代えるための「小さな変化」となる。
4.グローバルヘルスとの出会い
 ①フランス語との出会い
1969年、高校2年生の時に映画館でフランス映画「気狂いのピエロ」を観ていた。その最終場面、アルチュール・ランポーの詩「永遠」が朗読される。美しい旋律のような言葉を原語で聞いた時、突然フランス語を学びたいと思った。そこで名古屋のYMCAのフランス語教室に通うことにした。半年ほどで初級文法を習得でき、早速アルチュール・ランポーの詩集を原書で読み始めた。その若い詩人の瑞々しい感性がフランス語の言葉を通して直接若い自分の心を震わせた。趣味でフランス語を学ぶことが、将来グローバルヘルスへの扉を開くきっかけになるとは思ってもいなかった。
 ②歯学部教養課程の頃-地域保健と神経生理学への誘い
 どのような歯科医師としてあるべきかを問い始めた高校卒業したての教養課程の頃に、口腔衛生学講座の榊原悠紀田郎教授の新入生向けの歯科医学概論の講義で「地域保健」を知り、その現状や仕組みに興味を持ち、学内外の勉強会やサークルに参加するうちに仲間ができた。地域住民が公害や薬害などの健康被害から自らを守るための活動を担う取り組みと哲学にも触れることができた。自分は専門家としてどのようにあるべきかという当時の問いは、その後のキャリアの現場を通じて常に意識の底流に持ち続けていた。
 恐れを知らぬ仲間たちと共に当時の生理学講座教授の伊藤文雄先生に会いに行ってみると、まだ専門課程でもない拙い私たちのために定期的に生理学の輪読会をしてくださった。教授が選んだ本は、1970年のノーベル医学生理学賞受賞者Bernard Katzの医学書であった。図書館で医学英和辞典を引きながら必死で読んだ。自分が科学的興味の入り口に立ったような気がした。教授は若い学生たちの学びたいという思いを真摯に受け止めてくれたと感じた。
 ③なぜ口腔外科専門医を目指すことになったのか
 歯学部6年の頃に愛知学院大学歯学会誌に掲載された小論文が瞠目させた。その論文は、地域の歯科医院と連携して地域住民の口腔の問題解決にあたる「病院の歯科口腔外科」の役割を伝えていた。講義に来られた、当時名古屋第一赤十字病院歯科口腔外科部長だった北山誠二先生に、卒後に同病院に就職したいと相談したところ、医院は大学からのローテーションなので先ずは第二口腔外科講座の医局員になるようにと勧められた。
 ④口腔外科学講座における研修時代
 外来、病棟、手術室をローテーションしながらマンツーマンで指導を受けた。毎週定例の症例検討会と抄読会があり、夜はほぼ毎日自主的な勉強会を行い、その後座談会となり、現場での他科連携などについて夜遅くまで議論が続いた。
 3年目に名古屋第一赤十字病院歯科口腔外科の医員となり、口腔外科医としての一歩を踏み出した。
 ⑤総合病院歯科口腔外科勤務の経験 -北山誠二先生のこと
 1977年頃、名古屋第一赤十字病院歯科口腔外科は、現在認知されている「病院歯科」という概念を既に実践され、血液疾患などの免疫不全患者の治療前口腔ケアを治療に伴う移植片対宿主病の予防になるとの考えでチーム医療を行っていた。
 また、当時、日本の歯科外来診療では、患者から医療従事者への感染リスクが高い時代であり、歯科医師のB型肝炎抗体の保有者は一般よりも有意に高かった。北山先生は院内感染対策を導入し、医員と歯科衛生士は一般歯科診療においても全てマスクと手袋を着用し、当時は消毒で済ませることが多かった歯内治療器具に至るまで全て滅菌していた。
 「患者中心の医療」という考え方と、異なる分野や専門性を活かすチーム医療の重要性を理解していった。
 ⑥大学の助手時代 -研究を始める
 生理学講座教授の佐藤豊彦先生との対話を基にする研究の過程から生理学、脳神経科学実験の基礎、分析方法だけではなく、研究者としてあるべき態度と倫理を身につけることができた。
 ⑦なぜフランスに留学することになったのか
 1982年ベルギーのリエージュで開催される欧州脳神経学会で佐藤先生の発表する一部に私の研究が使われることになる。当時の私立大学は教員の海外渡航に寛容であり、私は、学会後、2週間ほど欧州に滞在して口腔外科の施設見学をすることを許可された。
 ピチエ・サルペトリーエル病院「口腔病・顎顔面外科」を訪問した。施設開設以来の口腔がん症例および疫学情報がデータ・ベースとなっていて、標準化されていた。当施設で研修を受けたらどうか勧められ、私はフランスの口腔がんの標準的な治療の実際をもう少し深く知りたいという気持ちもあった。
 帰国後河合教授に留学の希望を伝えると、即座に同意してくださった。しかも大学に籍を残して休職のまま。30歳だった。
 ⑧フランスの大学病院「口腔病・顎顔面外科」での研修 ①アンテルヌの生活
 1984年9月末、パリの生活を始めた。
 基本的な器材、切開と縫合法などの基本的手段は他施設や他科と標準化されているから、他施設や他科からの研修医も着任してすぐに手術に合流できる。この医学の知識と技術及び器材の標準化という文化は、後の欧州統合で必要となる多国間の医療人材の標準化の基礎となっている。
 ⑨フランスの大学病院「口腔病・顎顔面外科」での研修 ②エイズと口腔内科
 1984年の冬の初め頃、私は簡単な手術を任されるようになっていた。現病歴に免疫不全症と記載される症例が多く、手術といっても口腔内と頸部の腫瘤の様態を知るための生検であった。その当時エイズという感染症は未だ日本では発生しておらず、情報は不足していた。ピチエ・サルペトリーエル病院「口腔病・顎顔面外科」にエイズ患者が多かったのは、道を隔てて向かいの熱帯病学研究所に当時先駆的なエイズ専門病棟があり、世界中から症例が集まっていたから。
 1981年に米国で最初にエイズ症例が報告されてから3年経ったばかりで、原因ウイルスにはHIVという命名が未だされておらず、治療法の確立されていなかったエイズは不治の病とされていた時代。私の職業人生においてアフリカとの最初の接点は、当時留学先のパリの病院で出会ったアフリカから治療に訪れていたエイズ患者さんたちだった。
 その頃、ピチエ・サルペトリーエル病院エイズ専門病棟のチーフ・レジデント、HIVウイルスの発見者の一人として名を残すことになるウイリー・ローゼンバウムにHIV感染症の基礎知識を教わった。また、彼が感染症専門医資格研修医として働くジル・ラガンを紹介してくれた。ジルからエイズ患者の診察は粘膜の触診以外は手袋を装着せずするように勧められた。エイズの医療現場での感染は、針刺し事故などで感染した大量の血液に暴露されなければ成立しないという根拠を基にした提言であり、患者を人としてケアするという医療従事者としてあるべき態度を教えてくれた。
 エイズ患者は、免疫不全に伴って口腔、顔面、頸部に様々な症状が発現するため、連携して患者のケアに参加していた。口腔や頸部の腫瘤の生検依頼のあったエイズ患者を診察するうちに、多くの患者が感染初期に口腔や鼻咽喉の症状で歯科や耳鼻咽喉科に受診していることがわかった。そこでエイズ専門病棟の入院患者を対象にして口腔、顔面、頸部の症状に焦点を当てた横断的な調査を、熱帯病学研究所のジルと共同作業をすることになった。調査報告書の概要は帰国した後に国内の学会誌に投稿することになる。
 ⑩口腔外科専門医からグローバルヘルス専門家へ ①エイズと歯科診療
 フランスから帰国してから間もない1987年1月、神戸にエイズの話しをしに来てくれないかという依頼があった。そこで、フランスで経験したエイズ症例の口腔症状に関する臨床研究の結果とエイズ・ウイルスについての基本的な情報に加えて、エイズ患者の歯科診療における留意点について1時間のプレゼン用のスライドを準備して数日後に神戸に向かった。
 会場の兵庫県歯科医師会館は満員で、テレビ局の大型カメラが壇上に向いていた。講演の対象は病院歯科の関係者だけではなく、県歯科医師会の歯科医師が大半であった。そこで医療現場におけるエイズ・ウイルスの感染リスクはB型肝炎ウイルスよりずっと低いことを文献データから説明して、外来患者全てを感染者とみなして診療することが推奨されることと、その方法を名古屋第一赤十字病院歯科口腔外科の外来診療や器材滅菌過程の写真を使って説明することに時間を取ることにした。根管治療用ファイル1セット毎のオートクレーブ滅菌の写真で会場から驚きの声があがった。講演後のフロアーからの最初のコメントは、全ての患者に適応していたら歯科医院は採算が取れない、というものであった。当時の歯科医院における根管治療用器材の滅菌は15%程度の施設でしかされておらず、大半は器材の洗浄と消毒だけであった。
 この講演を機に、1987年は全国の歯科医師会や大学、時には県の衛生部に招待されて、「エイズと歯科診療」について講演をする日々が続く。
 我が国もエイズ感染症を念頭に置いた院内感染対策が求められるようになったという時代背景から、期せずして私は「エイズ専門家」の一人としての役割を求められるようになっていた。私が対応できたことは、エイズの基本的な情報とエイズ患者の口腔症状についてのフランスでの経験と臨床統計の結果、そして歯科診療における院内感染対策(当時)についての情報提供だった。勤務していた大学病院においても急遽、院内感染対策委員に命じられて、病院の標準予防策の策定と実施に関わった。
 「標準化」によって患者安全とケアの質を改善するという共通の目的を達成してゆくプロセスにおいては、異なる考えを持つあらゆる関係者とのコミュニケーションの大切さを身にしみて学ぶことができたのは、後々グローバルヘルスの活動において役立つ経験となった。

 その頃、「エイズと歯科診療」という本を米国の口腔内科の専門家が上梓して、我が国では私が翻訳する機会を得た。そこに記載されている予防対策は先進国には適応できても、開発途上国においては実現が困難ではないかという問題意識が芽生えた。
 開発途上国という現場で格差社会の現実に直面した経験から、公平に適切な保健サービスを受けることが可能になるような行政の強化や仕組みづくりを、現地の人たちと共に進めるのが自分に与えられた仕事だと考え始めた。
 ⑪口腔外科専門医からグローバルヘルス専門家へ
 1996年6月初旬、国立国際医療センター国際医療協力局の古田直樹局長(当時)が、医療協力局に欠員がでる、局としてはアフリカで働ける仏語圏チームを作りたいので8月に赴任できないかと提案された。1996年8月、19年間の口腔外科専門医としてのキャリアに終止符を打ち、メスを置き、グローバルヘルス専門家への道に転じるという決断をした。44歳になっていた。
 その頃読んだ大著「熱帯医学」の著者マルク・ジャンティリーニは、ジルが1984年当時所属していた熱帯医学研究所所長であり、私が患者から聞き取りをして、診察することを許可してくれていた責任者であった。すなわち、私は知らないうちに1984年のパリでグローバルヘルスに出会っていた。
 口腔外科医として身につけてきた「診断と治療の精度と質の保証」という考え方は、グローバルヘルスの業務を遂行するための基礎になっていた。
 ⑫「保健システム分析のためのラテン語系学会」
 2019年8月カナダのモントリオール大学構内で「保健システム分析のためのラテン語系学会」という風変わりな学会があった。学会の公式言語はフランス語、イタリア語、ポルトガル語、スペイン語とラテン語。私はフランス語で口演をして、スライド資料はポルトガル語にした。ところが質問はメキシコの参加者から容赦なくスペイン語でされてしまい、議長の助けを借りながらフランス語で答えた。普段耳にすることがほとんどない話題に触れることができた。
 ⑬アフリカへの長い旅のおわり
 2020年1月最初のコートジボワールの保健大臣官房の定例会議で、中国から広がっている新興感染症が発現したことが話題となり、直ぐに空港などの水際対策をエボラ並みに引き上げることになった。エボラのパンデミツクなどの感染症の危機の数々を経験していて、その度に予防体制の刷新を繰り返してきた保健省は、さほど浮き足立っているようには見えなかった。同年3月、まず高齢の派遣専門家から避難帰国させることを決定し、私は急遽帰国することになった。その後2021年3月までの1年間は日本からリモートで専門家業務を続けた後、私はコートジボワール保健大臣官房顧問の任期を終えた。その時私は、私のグローバルヘルス専門家としてのキャリアにも終止符を打った。

 

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