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TOKYOオリンピック物語

2011年08月04日(木)


TOKYOオリンピック物語野地秩嘉著
小学館
2011年2月12日発行
1800円
 著者が1995年から取材を始め、完成までに15年間も要した力作である。
 オリンピックを支えた者たちは、真正面からオリンピックに向かい合い、何年もの間、オリンピックだけのことを考えて人生を送った。オリンピックの主役である選手たちより、彼らはオリンピックの本質を理解していた。
 彼らが大きな仕事を遂行するため、試行錯誤の上にたどりついたのがマニュアルとシステムを作ることだった。自分たちの体験を仲間に伝え、ミスが起こらないようにしたのがマニュアル化だ。自分の恥だと思って、抱えてきた失敗を他人に進んで公開することで、同じようなミスが起こるのを防いだのである。システムとは自分が知らせたくないことを他人に伝えることから設計が始まる。
 今の日本人に足りない、がむしゃらな情熱と変化を恐れない腹のくくり方をこの本から学びたい。

1.時間を守る
 東京大会には、日本中から才能が集まってチームワークで仕事をした。それまでの日本人はチームワークが苦手だった。自分を殺して集団で何かをやるなんてことは得意じゃなかった。それが変わった。それに、遅刻もしなくなった。
 東京オリンピック以前の日本人は江戸時代の八っつぁん、熊さんみたいなもので、時間にはルーズだし、会議には遅れてくるのが当たり前だった。日本人は時間を守るとか団体行動に向いているというのは嘘だ。どちらも東京オリンピック以降に確立したものだ。みんなそのことを忘れている。
 現代の日本人ビジネスマンの得意技は共同で何事かに挑戦することであり、一糸乱れぬチームプレーで工業製品を作り、海外マーケットへ輸出した。時間や納期を守らないような、企画に合わない人間はサラリーマン社会からはじき出された。一方で、統制された集団がシステムで働くようになった結果、日本人個人の顔は見えなくなった。

2.共同作業
 東京オリンピックを経験し、料理人たちが最も変わったのは、調理のシステムを覚え、その後日常の仕事を効率的にしたことだろう。地方から出てきた料理人が一番驚いたのは、力を合わせて料理を作ることだった。例えばサンドイッチの作り方だ。徹底的なシステム調理を行った。料理人たちは分業化されたそれぞれの行程だけを担当し、あっという間に300人前を作った。それまでは注文が入ってから、それぞれが食パンを切り出し、ハムやキュウリを挟んで、一人前ずつ作るものと思っていた。料理人は1年違えば位が違うし、仕事もまったく違う。熟練の職人に、パンを切れといっても、動かなかった。
 村上たち料理人も、共同作業を通じて大勢の人間に食事を提供するシステムを確立した。サンドイッチを大量に作って売店で売ることだってできるようになった。全国のホテルやレストランでの宴会、結婚式が増えたのも東京オリンピックの後のことで、その際には選手村で学んだことが基礎となっている。

3.プログラム
 日本における仕事の名人とは、他の人間には真似できない技術やノウハウを持つ人間であり、なかなか自らの技術を他人には公開したがらない。自分の仕事は「秘伝」にしておくことに満足していた。
 集団でやる作業とは、特殊なプログラムを開発することではなく、みんながわかるものをつくること、そして次にそのことをみんながわかる言葉で全て紙に書いておくことなのだ。みんなの情報を均一にして、誰がいなくなっても代わりの者がすぐに担当できることが完成されたシステムであり、システムとは人間同士のコミュニケーションなのだ。
 竹下の功績とはコンピューターが計算だけではなく、速報、工程管理のような便利な機能を持っていることを実演して見せ、便利さを周囲に伝えたことだ。そして、汎用の商用機でシステムを開発したことで、マニュアルはその後のオリンピックでも用いられたし、各企業のオンライン化にも貢献した。

4.標準化
 日本のグラフィックデザイナーにとって初めて経験する共同作業だった。それまでのグラフィックデザイナーは、いわばひとりで部屋にこもる職人だった。ところが、デザイン室では、ひとつのものを仕上げるにも、仲間との議論が第一歩となる。議論する場合、誤解を招かないように、用語を統一し、お互いの作業内容を知っていなくてはならない。自分の得意な技術のコツも公開しなくてはならない。そうやって、作業を標準化しなければ仕事が進まないからだ。頑固な職人根性を捨てさせることで、どこの印刷所の人間が見ても入場券や案内板を作ることができる、日本最初のデザインマニュアル「デザインガイドプレート」を完成させた。

5.役人は前例が命
 戦後日本が初めて、海外から大勢の賓客や観光客を迎えるに際して、新幹線、モノレールといった世界最新の技術を用いた交通機関を作った。新幹線についていえば営業開始は開催のわずか10日前だ。今では考えられない。
「役人は前例が命」と言われているが、当時の役人、国鉄関係者の頭脳は躍動していた。インフラ整備の面からもオリンピック東京大会はがむしゃらな情熱の産物だった。
1964年9月5日には名神高速道路が開通
     9月17日には東京モノレールが開業
     10月1日には東海道新幹線が営業を開始

「赤い太陽のポスター」
 それまでの大会ではすべて五輪マークが前面に出ていて、会場となる都市が単独で大会のためのマークを制作したことはなかった。大会シンボルマークの提案は、その後のオリンピックにおけるデザインのあり方を変えたものだった。

「勝者を速報せよ」
 日本IBMが、全種目の競技結果を速報するシステムを構築すること、及び記録を集大成して東京大会のマスター・レコードブック(公式記録)を作ることを宣伝のため無償で請け負っている。
 リアルタイムで競技の結果を集計したのは、歴史上東京オリンピックが初めてのことだった。ローマ大会まではマスター・レコードブックができあがるのは大会が終了してから6か月後のことだった。東京大会では毎日、確定した記録が瞬時に本部に届き、それをプリントアウトして閉じ、その作業が終わった瞬間が事実上公式記録の完成だった。閉会式の時に組織委員会に差し出すことができた。オリンピック史上初めてやったことだった。 また、競技関係者からぜひやって欲しいと言われて開発した、連日出される国別のメダル獲得数は、東京大会から始まった。

「一万人の腹を満たせ」
 東京大会では日本ホテル協会が調理に関しては実質的には無償で給食事業を請け負った。料理人たちは二交代制で朝から深夜まで働き、さらにランチボックスや病人食まで作った。
 選手村の食事提供には予算の上限があった。ピーク時には1日で肉が15トン、野菜6トン、卵が2万9000個にのぼった。生鮮材料だけで賄うとなれば、マーケット価格に影響を与え、値段が上がってしまう。そこで、半年以上前から少しずつ購入し、それを冷凍していった。帝国ホテルでは冷凍食品を認めないことで知られていたが、試食会を通して、冷凍食材と解凍の仕方の様々な研究を重ね、冷凍食品という強力な味方を得ることができた。
 当時の料理人は現在と違い、「子どもたちがなりたい職業」ではなかった。4人の料理長は全国からやってきた料理人たちに訓示し、姿勢を正させ、言葉遣いや服装、髪の毛の長さや服装、履き物に至るまで事細かに指導した。オリンピックの機会を通して、日本の料理人の地位向上につなげたかった。

「記録映画『東京オリンピック』」
 市川崑はスポーツについては全く詳しくなかったし、用語やルールも知らなかった。映画を見た評論家は「なんとも新鮮なスポーツ映画」と感想を言った。シナリオを書いた人間はみんなスポーツ音痴なんだから、新鮮に決まっている。
 キャメラマンたちの本番は、いずれも集中と緊迫の連続だった。彼らは金のためにやったわけではない。名誉のためでもなかった。彼らは少しも手を抜かなかった。15日間、旅館に泊まり込んでいた間、酒を飲んだものは一人もいなかった。それほど彼らはストイックな姿勢で撮影に取り組んだのだった。
 バレーボールは選手が天井を向いてボールを追う競技だ。あまり明るくしてしまうと、照明が目に入り、トスやレシーブをミスするおそれがある。映画スタッフもうかつに照明を増設したり、全ての蛍光灯を点けることはできなかった。記録映画の中でも、バレーボールだけ色調が暗いのはそのためだ。
 記録映画の中できらりと光るシーンが2カ所ある。女子800メートルとアベベが独走したマラソンだ。800メートルを映した山口益夫はものすごい名人。望遠レンズで撮っているから、少し動かしただけで画面は上下してしまう。しかも走るコースは楕円だから、選手はキャメラから近くなったり、遠くなったりする。的確にピントを合わせながら、レースを追っていかなくてはならない。山口はレースをスタートからゴールインまでワンカットで押さえている。神業だ。
 ところが、市川さんは女子選手がゴールする寸前でいったん切って、競技委員がテープを広げてゴールの準備をする絵を挿入した。どこで切るかが監督の腕の見せ所で、切ることでメリハリを付ける。
 東京大会の時はマラソンに随行した車両に厳しい規制が敷かれていた。記録映画撮影中やテレビ中継車は必ず選手の前方から撮影することと決められたのである。伴走車がUターンをしたり、バックして選手に近づくことは禁じられていた。組織委員会は事故を恐れたのである。車両がバックできない以上、先頭のアベベをとらえるしかやることがないのである。そのため、NHKが行った完全実況中継では放送時間の半分以上をアベベひとりの映像が占めることになってしまった。

「ピクトグラム」
 ピクトグラムが標準化されたのは東京オリンピックが世界初であり、開発したのは日本のグラフィックデザイナーたちだ。現在でも、ピクトグラムが最も発達しているのは日本だ。
 ピクトグラムは2種類に分かれる。オリンピック競技の絵文字と公共施設を表す絵文字である。競技の絵文字は人間の動きを簡単なイラストにすればいい。だが、公共施設の絵文字作りは、なぞなぞを解くような智恵が必要だった。
 ピクトグラムの制作は12人のグラフィックデザイナーが担当し、終えるのに3か月を要した。全てを描きあげた時、勝見は全担当者を集め、書類を配り「皆さんサインをください」それには「私が書いた絵文字の著作権は放棄します」と記されていた。「あなた達のやった仕事は素晴らしい。しかし、それは社会に還元するべきものだ。誰が描いたとしてもそれは、日本人の仕事なんだ」著作権料を要求したら、ピクトグラムは普及しないと思ったのだろう。

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