のぼるくんの世界

のぼる君の歯科知識

老いの歌

2011年11月14日(月)


新しく生きる時間へ
小高賢著
岩波新書
2011年8月19日発行
700円
 多種多様な短歌が登場する。ゆっくり味わってもらいたい。これほど多くの高齢者が短歌を試みることができるのは、五七五七七の定型があるからだ。距離をもった視線が、現代の老いの歌の特色だろう。老い自らが自分の内側を覗いている。また、老いそのものを知ることができ、自分たちに到来する・している〈老い〉を見つめ直すきっかけにもなる。そして、「老い」は無限に広がる新しい場所なのである。ひとつだけ紹介する。
 もの食むをゆるされたけれど何ひとつ食ひたきもの無き身となりぬ〈前登志夫〉
病気になった時悩まされるのは検査である。多くの検査で疲労し、衰弱してしまう。その思いが伝わる。

1.短歌世界の特徴
 古典和歌は想像上の作品といってもいい。和歌的世界は日々の現実から遠いものと思われていた。古典和歌の世界での老いは四十歳からである。一方、短歌は自分の思いから出発する。近代短歌は恋愛と挽歌を中核とした若者の文芸だった。その根底には人生の短さがあった。
 俳句・短歌には結社という独特の組織があり、それに属している者すべてに毎月締切がある。また、一緒になって批評する機会があり、作品は誰かの選や添削を経ることもある。短歌人口にはもう一つの層がある。新聞や雑誌の短歌欄への投稿愛好家である。五七五七七という定型の前では、茂吉も無名の投稿家も対等なのである。プロとアマチュアの境界が見定めにくいのが歌人・短歌の世界である。
 近代文学のメルクマールは、一つめは作者と読者の分離、二つめは作品の流通範囲の広さ。三つめは著作物の対価として原稿料によって生活するスタイルの確立といわれている。しかし、短歌はどれも実現していない。今もずっと作者イコール読者である。短歌を発表するだけで生活している人は残念ながら存在しない。
 膨大な作者達が参加し、それぞれが批評し、それぞれが鑑賞し、それぞれの好みや評価が成立する。裾野部分の人でも、実作者の立場から、対等に批評することができる。ときには始めたばかりの作品のほうが優れていることがある。長くやっているうちに下手になることすらある。

2.老いとは何か
 老いのあらわれは、身体から始まる。行為しようという思いと、実際に運動することとの距離が広がっている。また、捜していた財布が冷蔵庫に入っていたりする。靴をどちらから履いたらいいのか分からないと言ったりする。飲食への無関心と老いのぼんやりした姿はどこか関連があるかもしれない。関心事から遠くなってゆくのだろう。老いの飲食に社会が関心を寄せないことも背景にあるともいえる。しかし、不思議なのは、外で近所の人に会う時は全く今までと変わらない。外と内との落差も驚きのひとつである。
 高齢になることは、今までの人生がシャッフルされ、いわば老いという新しいレースのスタートラインに立つことである。勝者・敗者という今まで背負ってきた衣装は、老いに突入する間際に消去される。だから老いはおもしろい。
 時代や社会は、人生の例外的な時間として老いを避け、排除し隔離してきた。よく分からない存在だからである。老いをきちんと考察してこなかった。

3.老いはいまや個性の時代
 「余り」と思われた部分が、予想をはるかに超えて次第に大きくなってきた。「余り」とか「余生」として放置できるほど小さくはない。老いという新しい時間、老いという新しいステージが今、私たちの眼前に大きく存在している。
 高齢者は一般性よりも、個別性が先に立つ(一般的な老いはない)。今まで自分を縛っていた枠組みから自由になり、人間としての自由度が増し、自分の本性が露呈する。
 ささいなこと、バカバカしいことという判断は、社会の中の効率や、利益を第一にする人間の基準である。それと異なったものの考え方、見方が成立している。

4.老人固有の時間の流れ
 時計時間の感覚で、老人を「早く、早く」とせかす。その時間の多くの場合、若い世代の反応速度を基準にしている。例えば、老人が病院で食事介助の際に「おいしい?」と聞かれて、すぐに「おいしい」と返事が返ってこなければ、「ボケ」の疑いをかけられ、「はい、お口をあけて、ウマウマ」となってしまうケースが少なくない。
 高齢者が自分のペースで働ける仕事がある。それが農業である。高齢者が必要とされ、自分のスタイルで働ける。

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