世界史は化学でできている
2021年09月15日(水)
絶対に面白い化学入門
左巻建男著
2021年2月16日発行
ダイヤモンド社
1700円
1億3千年前、果実をつける種子植物が登場した。そこに、サッカロミセス・セレピシエという果実を好む「酵母」が現れた。それは、効率は良くないが果実の果糖やブドウ糖などからエネルギーを得ていた。副産物としてつくられるアルコールには、他の微生物を寄せ付けない効果があった。
果実を食べる哺乳類は、果実が成熟したかどうかをアルコールの匂いで知ることができる種が有利になった。私たちの祖先は、アルコール好きの性質を持つことで進化してきた。
大航海時代には、ビールは腐りやすい水の代わりに飲料用に用いられた。ビールがなければ大航海時代に「成果」をあげることはできなかった。
1.人類は雑食性
あらゆるものを食べ物として利用して生き延び、世界各地に拡散することができた。しかし、幅広く食べないと健康を維持できない。草食獣のシマウマも肉食獣のライオンも草ばかり、肉ばかり食べても健康を害しないが、人は偏った食生活では健康を害する。飽食の時代でも健康問題が生じるのは雑食性の故である。
2.コメを作り上げた人類の偉業
人口比率で見るとコメを主食にしている人が圧倒的に多く、世界の約半分の人口を占める。その次がコムギ、そしてトウモロコシが続き、これらは世界三大穀物と呼ばれている。次いで多いのがジャガイモ。
作物としての栽培されているイネは、もともとは野生のイネだった。人類は数千年前に栽培化を始めた。何百年、何千年という選択を繰り返す中で、現在のような品種を作り上げた。
野生種は実が小さく、熟すとパラパラと落ちてしまう。また、一度に熟さず、熟すのに時間的なバラツキがあった。植物にとって子孫を維持するための生存戦略であり、広い範囲にばらまくと共に、環境の変化があっても対応できるように、時期をずらして熟す。また、野生のイネは花が咲いて自分の花粉が雌しべについても受精しない。他のイネの花粉が雌しべにつくと受精する「他家受粉」という性質を持っていた。常に他の花の花粉がついて雑種になる。その方が、様々な性質の実ができ、環境の変異や病害虫のために一斉に死に絶えることがなく、どれかが生き残るという点で、野生のイネにとっては大切なことであった。
長い歴史の中で人類に栽培されたイネは、野生のイネの特徴を失った。一粒が大きく、デンプンが多く詰まっている。一斉に(同じ時期に)熟す。しかも熟しても地面に落ちずに、稲穂に留まっている。収穫しやすくなり、収穫した実の一部は翌年に撒くために残すことができるようになった。また、花が咲くとすぐに自分の花粉が雌しべにつく「自家受粉」によって受精し、実ができるようになった。そのように突然変異体を選び出して育ててきた。こうしてすべて同じ性質を持ったイネになり、栽培しやすくなった。
その結果、作物としてのイネは、弱くなった。自然の中で育つには不都合な性質を持ってしまった。そのため田畑で人間が管理しながら栽培せざるを得なくなった。
3.上下水道
①焼成レンガとインダス文明
「火の技術」は、人々の生活を豊かに便利にしてきたが、自然環境、景観を大きく変えてきた負の面もある。
メソポタミア文明(紀元前4千年~紀元前3千年)では、太陽のもとで乾燥させた日干しレンガが使用されていた。風雨にさらされると土に帰ってしまうという欠点がある。
インダス文明(紀元前3千年~紀元前千5百)では、都市は同一規格の焼成レンガでつくられた整然とした舗装道路、下水設備、大沐浴場、城塞、穀物倉庫群を備えていた。極めて綿密に計算された都市計画があり、全域がほぼ東西南北に走る5,6本の大通りによって区画され、さらにそれぞれは、ほぼ直角に交差し小路によって碁盤目状に区切られていた。密集して立つ家々は焼成レンガで建てられており、各戸に井戸があり、炊事場や洗濯場が併設されていた。各戸からの排水は、レンガ造りの下水道へと導かれていた。
しかし、都市が必要とする大量の焼成レンガを作るために流域の樹木を乱伐したことから森林が破壊され、その後の土壌は風雨の浸食を受け、地力が低下し、紀元前1800年あたりから衰退した。収穫が減って軍隊を養えなくなったところへ外部からの攻撃を受けたことが原因と考えられる。
②古代ローマ滅亡後の衛生観念
1000年の西洋の「知」の空白 キリスト教が完全に支配
kojima-dental-office.net/blog/20191209-13481#more-13481
古代ローマは、上下水道が整備され、公衆トイレや公衆浴場もつくられていた。
ローマの滅亡と共に、上下水道は大部分が破壊された。当時のキリスト教の教えでは衛生観念が無視された。道路や広場は糞便で汚れ放題。井戸は病原菌で汚染された。スカートはどこでも用が足せるようにするためであり、ハイヒールは汚物のぬかるみでドレスの裾を汚さないために考案された。2階や3階の窓から尿瓶の中身が道路に捨てられるので、それを除けるためにマントも必要になった。紳士は淑女が道の真ん中を歩くようにエスコートする習慣ができた。体臭をごまかすために、香水を大量に振りかけていた。
ベルサイユ宮殿には、トイレ用にも浴室用にも水道の設備はなかった。約4000人が住んでいたが、腰掛け式便器は274個しかなかった。汚物は庭に捨てられ、庭の茂みで用を足した。美しいことで有名な庭園も糞便であふれものすごい臭いが漂っていた。庭師が怒り、「立ち入り禁止」の札を立てた。エチケットはフランス語で「立て札」の意味。
③16世紀以降の上下水道
16世紀になってようやく、市民生活の衛生を保つことが重要視されるようになった。
1830年、ヨーロッパ最初の公共給水がイギリス ロンドンで実施された。
1831年のコレラ流行は、ロンドンの地下下水道を発展させたが、河川に放流するだけだった。
19世紀後半からは、下水表面にできる細菌の膜で汚物を分解する方法や「活性汚泥法」が考えられた。
1855年、麻酔学者のジョン・スノー(1813~1858)が「コレラはミズアマで起こるのではない。水に含まれる何かが原因である」ことを明確に証明した。病原菌が発見される以前、病気は悪い空気(ミアズマ)を吸うことで起きると考えられていた。死者が出た家と彼らがどこの水を飲んだかを一軒一軒尋ねて調べ、地図に書き込んだところ、ブロード街の中央にある手押し井戸の水を飲んでいた。近くのビール工場の従業員はビールを飲んでいたので、重症者はいなかった。汚染された井戸の使用を禁止するとコレラの流行はピタリと止んだ。コレラの経緯は「疫学」的方法の重要性を示している。
1883年にコレラ菌がロベルト・コッホ(1843~1910)によって発見された。
④日本の上下水道
日本では、江戸時代に水道の建設が始まっている。江戸市民の生活用水を小石川上水(1590年、後の神田上水)、玉川上水(1654年)などから給水、水源からの傾斜を利用する「自然流下方式」という設備が建設された。
1822年、日本で初めてコレラが発生する。そのため急速に水道が敷かれていった。
1887年、横浜で水を処理してきれいにし、ポンプによって送水する近代水道が始まった。その後、函館、長崎、大阪、東京、神戸と次々に給水が開始された。
4.揺らぐ縄文時代のイメージ
動植物が生きている時は、炭素14の取り入れ量と排出量は同じである。死んでしまうと、炭素14は放射性壊変を起こして減少するだけとなる。炭素14の半減期は5730年。そこで、遺跡から出てきた動植物の遺骸の炭素14の放射性壊変の結果を測定することで、元の状態からどれほどの時間が経ったのかを計算することができるようになった。
土器が発明されたのは、中国江西省では2万年前、極東ロシア、中国南部では1万5千年前。日本の土器で最も古いものは、青森県の大平山元Ⅰ遺跡から出土した1万6千5百年前(炭素14年代測定)の縄文土器。
教科書では、縄文時代は今からおよそ1万2千年前から2千3百年前の時期と記している。考古学者の間でも議論はあるが、土器の出現を縄文時代の草創期と仮定するならば、今までの説より4千年以上さかのぼることになる。
5.ウェッジウッドは科学の発展に貢献した
ウェッジウッドは、1730年にイギリスのスタッフォードの陶工の家に生まれると、9才で実家の陶工工場で働き始めた。探求心に富んだウェッジウッド少年は、科学的な陶器づくりにチャレンジする。その後、他の兄弟たちと折り合いが悪くなると、1759年に独立して陶器工房を立ち上げた。1760年代初めに、発色が安定した、上質で完全に再生産可能な陶器づくりを完成させた。しかも、芸術性の高い製品だった。1765年には、シャーロット王妃よりティーセット一式の注文を受けた。翌年には、王室御用達製品としての「クイーンズ・ウェア」の名が与えられ、ヨーロッパ中の王侯貴族は彼の製品に魅了された。大金持ちになった彼が1795年に亡くなると、遺産の大部分は娘のスザンナ・ウェッジウッドに残した。その息子は「進化論」を提唱したチャールズ・ダーウィンである。生涯にわたって生活に不自由せず、研究に没頭できた。
6.火
イギリスの化学者マイケル・フェデラー(1791~1867)の名著「ロウソクの科学」の序文に「人類は、化学とともに文明をつくり、歴史を歩んできた」と記した。
最初に人類が知った科学的現象は、おそらく「火」。火は、「燃焼」という化学反応に伴う激しい現象。原始の人類は、自然の野火、山火事などに「おそれ」を抱いて近づくことはなかったが、私たちの祖先は「おそれ」を乗り越えた。火に近づき、さらに火を利用するようになった。それは、人類が持つ「好奇心」の表れである。
①酸素の発見
ドイツのゲオルク・シュタール(1659~1734)は、燃焼とは「燃える物質からフロギストン(ギリシャ語で燃える)が放出されて灰が残る現象」と唱えた。
アントワース・ラボアジュが燃焼とは「燃える物質と酸素の結びつき」であることを明らかにした。
1774年、イギリスのジョセフ・ブリーストリ(1733~1804)が 脱フロギストン空気(酸素)の発見・命名。
スウェーデンの化学者カール・ヴィルヘルム・シェーレ(1742~1786)が1年前に「火の空気(酸素)」を発見していた。印刷所の手抜かりで論文の発表が遅れてしまった。
フランスの化学者「近代科学の父」ラボアジェ(1743~)が「脱フロギストン空気」、「火の空気」と呼んだ空気中の気体を「生命の空気」、その後「酸素」と名付けた。また、「燃焼は可燃物と酸素が結びつく」という燃焼理論を確立した。高精度の天秤を活用して重さを追求することで化学変化を調べる方法を駆使した。
炭素、硫黄、リンなどが燃えると、二酸化炭素、二酸化硫黄、十酸化四リンといった酸性の物質になる。そこで「酸を作るもの」という意味のギリシャ語から「酸素」という名前にした(後に塩酸には酸素が含まれておらず、酸のもとは水素で酸素は酸素のもとではないことが判明する)。
7.生物体をつくる原子は、すべて地球をつくった原子たち
カルフォルニア工科大学の著明な物理学者リチャード・フィリップス・ファインマン教授(1918~1988)は、「ファインマン物理学Ⅰ 力学」で、大異変が起きて科学的知識が全部失われた場合、次の時代の生物に「あらゆるモノは原子からできている」と伝えると答えた。
ビッグバン理論によれば、宇宙は約138億年前に始まった。そして、約46億年前に太陽系ができた。太陽系をつくった原子はビッグバンの時につくられた水素原子やヘリウム原子だけではなく、太陽系ができる前にあった星々が爆発する時につくられた原子たちも含まれている。
地球は、宇宙の星の中では小さい。そのため、重力が弱いので気体になりやすい成分を重力圏内に引きつけておくことができなかった。また、太陽にある程度近いために揮発しやすいモノはほとんど地球をつくる材料にならず、岩石状のもの(二酸化ケイ素)や金属(鉄など)が主な材料になった。
太陽系全体に存在する元素は、質量が多い順に一位水素、二位ヘリウム、三位酸素、四位炭素、五位ネオンとなる。地球全体で質量が多い元素は、一位鉄、二位酸素、三位ケイ素、四位マグネシウム、五位ニッケルである。
私たちの身体をつくっている原子たちは、宇宙で生まれ、様々な変化をくぐって、今ここにいる。
①デモクリトスの原子論
古代ギリシア哲学は、「実験」という科学の方法を鍛え上げていなかったが、自然界で起こる変化を注意深く観察した。そして、様々な問題を考え、自然や社会についての知の探求者になった。
デモクリトス(紀元前470頃~紀元前380頃)が原子論を主張。「万物は原子と真空からできている。そのほかには何もない。」万物をつくる“もと”は無数の粒。これ以上小さくできない一粒一粒をギリシア語の「壊れない物」から「アトム(原子)」と名付けた。もう一つ、「空虚(チノス)」と名付けた。原子が動き回るためには「空虚」がなくてはならないと考えた。
73巻の大著を書いたと言われるが、今は1冊も残っていない。「人間の魂は、人間の身体をつくっている原子がバラバラになってしまえばなくなる。つまり神はいない」と大胆に主張したため、彼の書物はすべて焼かれてしまった。
①-1 アリストテレスは、原子論を批判
アリストテレス(紀元前384~紀元前322)は、「壊れることのない粒なんてあり得ない、真空が存在するはずがない」と原子論を批判した。その後支配的になるアリストテレスの「自然は真空を嫌うという考え」と「四元素説」のもとで、原子論は長い間埋もれてしまう。その復活は17世紀まで待たねばならない。
②トリチェリの真空
ガリレオ・ガリレイ(1564~1642)は、空気に重さがあることを実験で確かめた。その弟子だったエヴァンジェリスタ・トリチェリ(1608~1647)は、1643年、水よりも13.6倍も重い水銀を使って実験した。一端を閉じたガラス管に水銀をいっぱい入れて、閉じた方を上に向けて立たせると、水銀は液面から約76センチメートルの高さにストンと落ちた。これは一気圧で76センチメートルの水銀が支えられることを示している。水銀が入っていたガラス管上部に空間ができるが、空気はない。真空ができた(ただし現在の科学からすると、少量だけ水銀の蒸気がある)。
③ドルトンによる原子論
イギリスのジョン・ドルトン(1766~1844)は、二つの元素からできた数種の化合物をつくる場合、一つの元素に対する他の元素の質量は互いに整数比にあるという「倍数組成の法則」を発見。
古代ギリシアの原子論を復活させただけではなく発展もさせた。彼の功績は、「科学の研究において原子量の探求が重要であること」を見抜いた点にある。
④アインシュタインが分子の実在を明らかに
アルベルト・アインシュタイン(1879~1955)は、1905年、26歳の時に3つの革命的な論文、「光量子仮説と光電効果」「ブラウン運動の理論」「特殊相対性理論」を発表する。原子・分子の存在を信じられるようにしたことが、彼が残した偉大な業績の一つ。
⑤壊れないはずの原子が壊れた
マリー・キュリー(1867~1934)は、ボロニウムやラジウムを発見。ラジウムの原子はヘリウム原子を出して他の原子に変化する。それまでの「原子は決して壊れないもの」という考えが通用しなくなった。
⑥原子の内部はスカスカ
アーネスト・ラザフォード(1871~1937)は、1909年、真空中で一方向に向いた細い穴から「α粒子」を薄い金箔に向けて発射した。ほとんどα粒子は通り抜けたが、2000個に1個程度何かにぶつかったかように、とんでもない横の方に飛び出した。この結果から、「原子模型」提唱した。「原子が占める空間はスカスカで、中心にα粒子と反発する、正電荷を持つ原子核があり、そのまわりに電子が回っている。原子核は原子全体と比べるととても小さい」
その後、1932年、ジェヘムズ・チャドウィック(1891~1974)が、原子核は正電荷を持つ陽子と、電気的に中性の中性子からなることを発見した。陽子の数と中性子の数の和を「質量数」という。
⑦元素の発見と周期表
ロシアの化学者ドミトリ・メンデレーエフ(1834~1907)が1869年に「元素の周期表」を発表。重視されたのは原子価。原子量の小さい元素から順に左から右へ配置し、しかも原子価の同じ元素が上下に並ぶように何段にも重ねて並べてみた。「将来発見されると思われる元素」の空欄を設けた。
彼の予言が実証されるに従って、周期表は化学界で承認されるようになった。周期表は、新しい元素の探索や、元素間の関係について調べるための「地図」の役割を果たすようになった。
⑦-1 元素の定義
ライナス・ポーリング(1901~1994)は、1959年に「元素とは、原子核の陽子数で分けた原子の種類のことである」と定義した。現在の周期表では元素を原子量の順ではなく、原子番号(陽子の数)の順に並べている。現在のところ元素数は118種類。天然に存在する原子番号が最も大きい元素は92番のウラン。原子番号93番以上の元素や43番のテクネチウムは天然には存在しない。
⑦-2 元素の分類
周期表の縦の列を族といい、同じ属に属する元素を同族元素という。世の中の物質は大雑把に3つに分けられる。金属、イオン性物質、分子性物質。
天然に存在する約90種の元素の約8割は、金属元素。残りが非金属元素。その境界線付近のホウ素、ケイ素、ゲルマニウム、ヒ素などは金属的な性質を持っていて、半金属と呼ばれることがある。半導体的な性質を示す物が多い。
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