武士の家計簿
2009年12月16日(水)
「加賀藩御算用者」の幕末維新
磯田道史著
新潮新書
2003年4月10日発行
680円
著者が平成13年夏に神田神保町の古書店で「金沢藩士猪山家文書」に出会った。その日から古文書との格闘が始まった。
猪山家の家計簿には収入金額が記入されているし、買い物の内容もこまかく載っている。さらには借金の金額や借りた先までわかるから、武士の暮らしぶりが復元できる。猪山左内家の家計簿は天保十三(1824)年7月から明治十二(1879)年5月まで37年2ヶ月間も書き続けられており、欠けているのは弘化二(1845)年3月11日から翌年5月15日までの1年2ヶ月だけで、ほとんど完全な保存状態で残っている。「二度と借金を背負わないように計画的に家計を管理しよう」と考え、完璧な家計簿を付け始めたのである。
体制、価値観が激変する明治維新に、加賀藩の会計係が大村益次郎にヘッドハンティングされ新政府軍の財政を支え、海軍の会計となり、生き抜いていく。様々な問題を経験する後半を是非お読みください。
1.加賀前田家は「算術」を非常に大切にした
普通は、まず郡奉行(民政機構)があって、そこに会計部門がつくられる。ところが、加賀藩では、まず巨大な会計機構(御算用場)があって、その中に郡奉行(民政機構)が作られていた。普通の藩では、政治が会計を行うが、加賀藩では、会計が政治を行っていた。武士は、その領地にまったく触れなくても、自動的に年貢が手元に入ってくるシステムの中で生きていた。行政能力を持った官僚機構が、「御算用場」であった。
2.江戸時代の武士にとって領地とは
江戸時代は「兵農分離」が基本である。武士は城下に屋敷を拝領し、そこに常駐することが義務づけられ、許可なく農村に立ち入るわけにはいかなかった。近世武士にとって領地とは、結局、紙の上の数字と文字のようなところがあった。日本列島の大部分は、「領主が領地に足を踏み入れない領主制」の地域であった。
明治維新が起きると、武士階級があれほど簡単に経済的特権を失った秘密は、実はここに隠されているように思う。現実の土地から切り離された領主権は弱いものであり、トップダウンの命令一つで比較的容易に解体されたのである。
3.江戸時代の武士の給禄制度
武士の世界で禄高を決定する主役は、「由緒」であって「現職」は脇役にすぎなかった。現在ではなく過去が給与を決めていた。今、忙しい仕事をしていたとしても、経費のかかる職務についても、お構いなしである。微禄の藩士が江戸詰を命じられれば、国元との二重生活で家計は悲惨の極みになる。
4.「身分費用」
「武士の身分としての格式を保つために支出を強いられる費用」とは、召使いを雇う費用、親類や同僚と交際する費用、武家らしい儀礼行事を執り行う費用、先祖・神仏を祀る費用である。身分費用は消費全体の約3分の1を占めていた。直之は加賀百万石を担うエリート官僚であり、草履取りを連れて外出する身分であった。しかし、家来の草履取りのほうが、むしろ懐は豊かであった。江戸時代はまさに「地位非一貫性」の社会であった。
明治維新によって、武士の身分的特権(身分収入)を失ったことばかりが強調される。しかし、同時に、明治維新は武士を身分的義務(身分費用)から解放する意味を持っていたことを忘れてはならない。江戸時代は商人や農民が武士を打ち倒す「革命」で終わったわけではない。主に武士身分の内部から発生した「維新」の動きによって終焉した。
5.武士の金融
江戸時代の日本は金と銀の二つの通貨圏があった。東日本は「金遣い」であり、西日本は「銀遣い」であった。江戸は金遣いだから「小判何両」の世界であり、金沢や大阪は「銀何匁」の世界であった。しかし、金貨銀貨は高額貨幣であるから大きな決済手段であった。日常のお買い物には全国共通の「銭何文」が使われていた。
武士の俸禄に建前では米が支給されたが、実際屋敷に持ち込まれたのは「銀」(ほとんどの場合藩札)であった。猪山家では1年間に27回も貨幣の両替をしている。生活が米の換金レートに左右されていたから、武士は相場にも金融にも鋭い目を持っていた。だから、明治になって銀行員になったものには意外に旧武士身分が多い。
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